映画 PERFECT DAYS

PERFECT DAYS

2023

 ヴィム・ヴェンダース監督作品、役所広司主演。カンヌ最優秀男優賞受賞作品。ヴィム・ヴェンダースが撮った日本映画である。「パリ・テキサス」「ベルリン・天使の詩」のヴェンダースである。若い頃憧れた監督の一人である。ちょっと見に行きたくなるよ。
 映画好きの友人もヴェンダースらしい映画だったというので見るべしと思って年末の映画館にいったら満席で私よりも先輩らしいお姉様方が多数いらしていた。「カンヌ」「役所広司」の強さを思い知ったよ。
 いい映画であった。と同時に、ちょっと複雑な感想も持った。
 まず、映画について触れたい。
 ストーリーは平山という渋谷区のトイレを清掃する清掃会社の無口で真面目なベテランスタッフの日常、その一言につきる。浅草近くの安いアパートに一人で暮らし、朝、缶コーヒーを買って、掃除のために必要な様々な道具を積んだ軽ワゴンに乗り込み、スカイツリーが見えたら、70年代頃から集めてきた音楽カセットをかけて首都高で渋谷へ。ていねいに掃除をしては、次へ。昼は近所の神社などで牛乳とサンドイッチ。フィルム式のコンパクトカメラを取り出して、美しい木漏れ日の風景をパチリ。仕事が終わったら銭湯、駅の地下の一杯飲み屋で軽く飲んでごはんを食べて、部屋に戻って古本屋で買った文庫本を読書をしながら寝る。休みの日は本とラジカセ、現像した写真の整理、公園や神社でみつけた自生の木の苗の世話、部屋の掃除と溜まった洗濯と行きつけのスナック。くり返される日常。その日常のなかに起きるささやかなできごと。人とのふれあい、過去との邂逅。「いつかはいつか。いまはいま」。それが彼の生き方。ささやかな笑顔。ささやかな涙。ささやかな怒り。ささやかな日々。
 日本版の映画ポスターには「こんなふうに生きていけたなら」とある。
 人はこんなふうに生きたいのだろうか。

 いい映画である。ヴェンダースらしく音楽を効果的に使っている。ヴェンダースらしく都市の風景も公園もまるでファンタジーのような美しさがある。現実感の感じられない渋谷の姿がそこにある。静かで美しい日本。そうありたい世界。
 そこにいる役所広司は、「ベルリン・天使の詩」の天使役ピーター・フォークそのものだ。もちろん役所広司の「平山」は天使ではない清掃作業員である。きっとこういう人はいるのだろう。役所広司だからかっこよく見えるが日常の中汗水垂らし、ひとりで生き、なんらかの趣味や楽しみを日常の中にみつけて生きる人はいるのだろう。
 無口な平山を演じる役所広司は、わずかな仕草、顔の表情などでその内側の小さな感情のゆらぎを映画を見る者に転写してくる。演じる役所広司と演じさせたヴェンダースのみごとな映像であった。
 最高。

 ここまでが映画の感想。でも、この映画には複雑な心境がつきまとってしまう。
 それは、この映画そのものの成り立ちにも関わってくる。映画では、渋谷区にできた先進的な公共トイレがいくつもでてくる。これは、THE TOKYO TOILET というプロジェクトで整備されたトイレである。日本財団が企画し、渋谷区とともに2020年から2023年にかけて17カ所のトイレを整備。「性別、年齢、障がいを問わず、誰もが快適に使用できる」コンセプトでユニバーサルデザインでのトイレが設置された。このプロジェクトはファーストリテイリング(ユニクロ)の柳井康治が主導し、電通出身のクリエイター高崎卓馬が関わっており、映画は高崎によってしかけられたと言っても過言ではない。実際、製作は柳井、脚本はヴェンダースと高崎がになっている(製作総指揮は役所)。
 ここで日本財団やユニクロについて論ずるつもりはない。
 ユニバーサルデザインで誰でも使える清潔で安心な公共トイレが設置されることには異論はない。このプロジェクトのトイレについてはいろんな意見があったようだが、性別を問わず安心して使えること、その「性別」には、男性、女性という区分だけではなくLGBTQの性的な多様性も含まれることであれば、そのコンセプトには賛成である。
 ただ、映画を見ていて複雑な気持ちになったのは、現実の渋谷区、いや現実の東京都、日本政府には、そんな優しさが欠けているという気持ちになったからである。
 話を大きくしないように渋谷区に限っていえば、のんびりした宮下公園は「公園」と名の付いたショッピングモールに変わり、ホームレスがかろうじて生活し、炊き出しなども行なわれていた美竹公園や神宮通公園では区が強制排除を進めた経緯がある。ホームレスを排除し、「清潔」なまちづくりでいくら多様性を強調しても、そこにはうわべだけの美化された非人間的、非人道的な「公園」しか残されなくなる。
 日本中あちこちにある「寝っ転がれないベンチ」は、まさにその象徴である。
 美しいけれど醜い現実がここにある
 この美しいプロジェクトで撮られた美しい映画には汚いトイレも、汚いホームレスも出てこない。唯一公園で暮らすホームレスは公園の木に抱きつき大地と交感しながらゆるやかに踊る田中泯なのだ。
 映画では、清掃作業員の平山が泣いていた子供の手を取って公園に出たところで子を探していた母親が平山から子をひったくり、手をウエットティッシュで拭き、礼をも言わずに去って行くシーンがある。そういうあからさまな差別も描かれてはいるが、それさえも平山の「美しさ」を引き立てるだけになっている。

 だから映画を見て思うのだ、この映画の中の世界は、現実にはない、と。
 この映画の中の美しい世界だけを美しいと思う気持ちにだけはなるまい、と。
 美しい映画だけれど、美しさに溺れてはいけない。