幻惑の極微機械
DECEPTION WELL
リンダ・ナガタ
1997
遠い未来。遠い宇宙のどこか。滅び去った異星人文明が残したものは、他の異星生命や機械を破壊する自動兵器。人類はその版図を広げ、生存していた。人類として。
「極微機械ボーア・メイカー」と同じ宇宙を描いた作品である。前作は、地球でのナノテクと宇宙エレベーター都市を描いた、ちょっとした未来の作品だったが、本作は、遠い遠い未来の物語である。本作もまた、メイカー=ナノ・マシンと宇宙エレベーター都市、そして、宇宙エレベーター都市とつながる惑星が舞台となる。主人公も、偉大な父への想いと反発、信頼と懐疑に満ちた、ある意味での成長譚であり、同じ主題で主役を変えた変奏曲という感じだ。
しかし、前作よりも洗練され、物語として楽しむことができる。
ひとりひとりの人間の思考や行動と集団としての人間の思考や行動は異なる。集団意識や群集心理などとも呼ばれる。そのとき、焦点となる人や存在があれば、それはカリスマとなり、あるいは神の代弁者となる。独裁政治が生まれ、宗教が起こる。たとえ、その焦点となる者がそれを望んでいなくても、集団が、群衆が、その属性を与えるのだ。
それは、運命でも、必然でもない。本来は。本書では、それを運命として、必然として、生まれついた少年が主人公となる。彼は、その力ゆえに、人を引きつけ、恐れさせる。彼は、自分が存在する目的と自分が生きのびるという生命故の動機との間で考え、行動する。
その彼の前に繰り返し登場する、どこからともなく現われる蠅と毛氈苔。蠅は毛氈苔の魅力にかなわず、毛氈苔は蠅をとらえ、消化していく。同化していく。
宇宙エレベーターがつながる惑星は、陥穽星と呼ばれる。宇宙エレベーター都市「絹市」の人口は650万人。そして、陥穽星の人口は0人。陥穽星には、コミュニオンという生命系生命があり、そこに行けば、人はコミュニオンに取り込まれ、同化し、その中で永遠の存在として生きられるという。しかし、絹市の人々はそれを信じない。外の星系から、少年の父によって連れられてきた難民たちだけがコミュニオンの存在を信じ、そこへの同化を望んでいる。
果たして、コミュニオンは存在するのか。人は、その姿を捨てて永遠に生きることができるのか? それとも、それはただの生命体を殺すための罠なのか? いったい、誰がコミュニオンを知っているのか? 惑星=重力井戸と、宇宙エレベーター都市=重力から解き放たれ、しかし、重力によってつなぎ止められた存在の対比。宇宙を自由に飛び、かつては人間だった知性を持つ「生きた宇宙船」と、惑星系に縛られた人々の対比。
さまざまな対比を繰り広げながら、ひとりの少年を軸に物語は進む。ナノテクも、宇宙エレベーターも、自動兵器も、舞台設定にすぎない。
物語は、読み手がその質をつくる。おとぎ話として楽しく読むもよい。生命の本質とか、宗教について考えるもよい。書かれていない世界について想像を豊かにするもよい。父と子、親子関係について教訓を得るもよい。大人と子どもの視点の違いを納得するもよい。物語は、読み手によって書き変わる。テキストは不変であっても。
だから、楽しいSF作品である。
(2004.10.13)