異星の客
STRANGER IN STRANGE LAND
ロバート・A・ハインライン
1961
1969年2月に東京創元社から文庫で登場。私が持っているのは1979年6月の第24版。10年で24刷を重ねている。本文、あとがきをあわせて781ページと、今でこそ、これほど厚い文庫は数多いが、当時とすれば極端に目立つ1冊であった。
持っているのは、1979年版で、価格は600円。古本ではなく、本屋で購入したものだが、私が14歳のときに買ったわけではない。いつ買ったのかと聞かれると困るのだが、高校か大学入った頃のことであるのは間違いない。間違いないのだが、正直なところ、あとがきしか読んでいない気がする。買ってから確実に20年は自分のアパートや実家の本棚、箱の中に眠っていたことになる。
あとがきの最後には、「本書は、ヒッピー族の教典としてアメリカにおいて、昨年度より爆発的な売れ行きをみせていることを付記しておきます」とある。「昨年度」とは、1968年のことだろう。冷戦、ベトナム戦争…ウッドストック・フェスティバルが1969年8月。
日本でも、70年安保闘争、全共闘の時代である。
おや、今、2007年問題で騒がれているベビーブーマーの大量退職の人たちって、70年安保闘争、全共闘の主役の世代ではないか。
時代は流れゆく。
本書「異星の客」の主たる読者であっただろう当時大学生だった人たちが、今本書を読み直したら、どんな思いを持つのだろうか? 私には分からない。
さて、本書「異星の客」の簡単なおさらいをしておこう。
「むかしむかしあるところに、ヴァレンタイン・マイケル・スミスという火星人がいた」との書き出しではじまる「異星の客」は、マイケル・スミスが地球に来て、そして去るまでの物語である。マイケル・スミスは、火星探査隊のクルーが火星で産み落とした子どもで、火星人によって育てられ、次の火星探査隊によって地球に連れ帰ってこられた。彼は、不思議な生理、思考、心理、能力を持ち、そして、地球連邦の判例では火星の所有者であった。同時に、先の火星探査隊の持っていたすべての財産を継承する大金持ちでもあった。
彼をめぐる地球政府の陰謀に彼の地球での最初の水兄弟で看護婦のジルが彼を逃がし、老いてなお生を楽しむ作家であり、弁護士であり、医師であり、金持ちであり、自由主義者で、個人主義者であるジュバル・ハーショーのもとにかくまわれる。
マイケル・スミスは、そこで、火星人と地球人の違いを知り、回りの人たちを水兄弟にしながら、彼らに火星的なものの見方、考え方、能力を知らず知らずに伝えはじめる。そして、彼は宗教の衣をかぶりながら、新しい価値観、社会、能力を目覚める潜在能力を持つ地球人にもたらそうとする。
まあ、そんな話である。
当時は、自由なセックス観や徹底した個人主義の上に成り立つ共同の社会観、人肉の共食儀式、政治や既存宗教への皮肉などが大きなインパクトを与え、SF以外の人々に読まれ、影響を与えたのであろう。
ちょっとまて、ちょっとまて。ハインラインは、別に新しい宗教や新しい価値観をここで提示したわけではないし、新たなバイブルを作る気はさらさらなかったと思うぞ。
ハインラインの化身とも言えるジュバル・ハーショーの自由でちょっぴりうらやましい生き方にしても、それまでのハインラインの作品やその後のハインラインの作品に出てくる登場人物によく似ているし、その自由や個人に対する考え方はほとんど変わらない。
徹底した個人主義は社会的義務も同時に、自発的に、自然に生まれるべきであり、それを持ち得ない個人主義とは他者の個人主義をも尊重しうる真の個人主義ではないのだから、そんなやつは社会から排除してもかまわないといった考え方は、本書「異星の客」で出てきたわけではない。
じゃあ、この本はなんだろう?
私は思うに、ハインラインの一流のジョークではないかと。
彼は、本書「異星の客」で、笑いをとろうとしたのではないだろうか?
笑い、ジョーク、あるいは、それとは異なるユーモアについて、ハインライン流に考え、政治、宗教、生活、セックス、死など、タブーとされるものを引き合いにだしながら、笑いをとろうとしたのではないだろうか。笑いをとると同時に、笑いのもつ意味、ジョークやユーモアの持つよい意味でも悪い意味でも言える人間性について追求しただけではないだろうか。
だから、素直な気持ちで読んで、笑えばいいだけではないだろうか。
この本をありがたがる者こそ、笑い者である、と、私は、断言する。
だから、みんなちょっと長いけれど、読んで笑おう。
楽しいよ。
ライトユーモア、ジョーク、ブラックユーモアなどなど、笑いの要素は満載だから。
それでいいんですよね、大天使ハインライン様。
ヒューゴー賞受賞作品
(2006.07.09)