テメレア戦記7 黄金のるつぼ

CRUCIBLE OF GOLD

ナオミ・ノヴィク
2012

テメレア戦記」を読むきっかけは、実は本作、第7作である。ナオミ・ノヴィクは「ドラゴンの塔」を読んでいたので、「テメレア戦記」の存在は知っていたが、どうしてもファンタジー系はハードSFなどの二の次になってしまう傾向があるので放置状態になっていた。ところが、近年SNSで、前作第6巻以降長く翻訳されていないこと、前作までを翻訳出版していた企業が出版事業から撤退していたことや、それに対して読者の声が翻訳者の那波かおり氏に寄せられていること、翻訳者も続編の翻訳継続に向けてできることを行なっていることなどが伝わってきて、その行く末を不安8割で見守っていた。
 なぜ不安8割か。海外SFをよく読んでいる人ならば続編未訳で行き場のない気持ちを抱えたことが何度もあるだろう。出版社側としてもあまり売れなかったら、続編の翻訳には二の足を踏むだろうし、翻訳者側の都合で翻訳が中座することもあるだろう。とりわけ紙の本が売れなくなり、出版不況が続く中では、そもそも翻訳作品はコストがかかってしまう。原著の翻訳許諾をとり、使用料がかかり、さらに翻訳者への翻訳料も必要となる。翻訳者への翻訳料が安いことは長く言われているが、それでも日本語の作品を出版するのに対して、コスト面で海外翻訳作品は不利なのだ。すでに映画化やテレビドラマ化が決まっているとか、世界的に話題となっていて国内でもそれなりの部数が見込めるかと、そういうことでもないと、わざわざ翻訳しようということにはなりにくいのである。
 だから、これだけ間が空いて、新たな出版社を探し、旧著の翻訳版権を含め、新しい出版社から出し直し、新訳を出すという作業と手間と苦労と思いの深さを考えると、その貴重さは奇跡と言ってもいいと思う。すごいことだよ、これは。
 読者と翻訳者と出版社のその熱量がなければなせなかった奇跡なんだよ。
 そりゃあ、読むでしょう。読まないと損だ。

 ちょっとだけ続けておくと、円安、人口減少…、考えれば考えるほど、年を追うごとに翻訳作品の出版は難しくなる。AIによる機械翻訳が増えれば、近い将来、原著をデジタルで購入し、そこに機械翻訳を入れて大意をつかむという読み方も増えてきそうだ。日本の教育制度の中で、英語だったらある程度の読解力があれば、機械翻訳のサポートで読み進めることは可能だろう。
 しかし、それでも物語の翻訳には意味がある。原著言語の文化的、社会的、歴史的背景を踏まえ、翻訳言語(日本語)の文化的、社会的、歴史的背景から単語を選び、文を整え、読みやすく表現する。物語の翻訳は逐語翻訳ではないのだ。
 そして、翻訳者の協力を得て、海外の作者の視点、思考、想像力を読書という楽しみとともに学び取ることができるのだ。

 翻訳作品愛を語ってしまった。

 さて、第7巻「黄金のるつぼ」ではオーストラリアにいるドラゴンのテメレアと、そのパートナーである元英国軍人のローレンスが南アメリカのインカ帝国に向かうことになる。第7巻では南米、第8巻では日本も出てくるらしくふたたび東アジア、そして第9巻がヨーロッパでのナポレオン戦争の決着ということだけはなんとなく知っているのだが、そんな大あらすじでは語れないのが「テメレア戦記」のおもしろさである。
 軍籍を失い、オーストラリアでテメレアと争いのない生活に溶け込んでいたローレンスに、ふたたび英国から要請が届く。フランス・ナポレオンと第4巻で登場したアフリカのツワナ王国が同盟を結び、南米ブラジルに拠点を移しているポルトガル王国を攻め、なおかつインカ帝国とも同盟を結ぼうとしている。これを防いで欲しいと。また無茶な要求である。「テメレア戦記」の歴史はすでに実際の歴史からは離れており、いまだインカ帝国は健在なのだ。
 読む前は、早々にオーストラリアから南アメリカに向かい、そこからの冒険譚がはじまると思っていたが、おいおいおいおい、そう簡単にことは進まない。進まない。オーストラリアは無事出航できたのだが、いやあ、またまたローレンスの苦労が続く。
 テメレアとローレンスというふたりの主人公のうち、ローレンスは決して「特別」な人間ではない。テメレアは特別な竜だが、ローレンスは大航海時代の貴族出身者であり誇り高き軍人であり、どちらかといえば堅物である。知的でまっすぐな心を持つテメレアのパートナーとなったことで、次々と「目からうろこ」を剥がしていくことになるのだが、人間そう簡単に変わるものではない。変わるものではなくても、変わることもできる。
 テメレアを通して、ローレンスは変わっていく。
 本作にも、現代的な視点や価値観がそこかしこにていねいに織り込まれている
 ドラゴンと人、結びつきの強いパートナーシップだが、ローレンスはあるとき気がつく、対等な関係だと言っているが、ときにテメレアを対等にしてあげているという上位者としての視点で見ているのではないかと。そういう気づきの大切さが物語に織り込まれ、深みを与えている。これぞ物語の力だ。
 それにしても、インカ帝国、ナポレオンの帝国、ツワナ王国、ポルトガル王国、それに、英国、中国、それらの影になっているがトルコ、プロイセン、アメリカ、日本…。「テメレア」世界の歴史が大きく動き出した。はたしてどうなる。ローレンスの、テメレアの行く末は。
 なぜか次はふたたびの東アジアだ。楽しみ。

パーンの竜騎士3部作(再読)

竜の戦士(1968)
竜の探索(1971)
白い竜(1978)

アン・マキャフリイ

 約20年前に感想を書いている本編3部作である。その際も再読だったのだが、あらためて本シリーズを読み直したくなった。理由は「テメレア戦記」を読んだからだ。作者のナオミ・ノヴィクも言及している通り、「テメレア戦記」に登場する竜は「パーンの竜騎士」の竜によく似ている。テメレアの竜は竜があたりまえに存在する世界において人が人の役に立つように品種改良したものだが、言語を持ち、人の言語を介し、まだ航空機のない時代に空を飛べない人を乗せて飛ぶ戦闘機でもあり、火を噴いたり、酸を吹いたり、巨大な空中戦艦のような種であったり、身軽な小型種など多様な種がいる。
一方、「パーン」の竜は、そもそもパーンが別の惑星であり、人類は遠い昔に入植し、その現地にいた竜に似た生きもの(火蜥蜴)を人が目的を持って品種改良した生命体である。その目的とは、変動する軌道を持つ別の惑星から不定期に降ってくる糸胞と呼ばれる悪性の侵略物を焼き払うためである。瞬間移動の能力と火を噴く能力を使って人を乗せ、糸胞が地上に落ちるのを防ぐのである。人の言葉を直接しゃべる能力はないが、テレパシーのように特定の人間や竜同士で意志を交わすことができる。
 このどちらの竜も、卵が割れて孵化するタイミングで近くに居て、なおかつ交感できる人間とつながることで、唯一無二のつながりを持つことになる。その関係性は異種間の共生のようなものであり、パートナーシップであり、優劣のない互恵関係でもある。そしてどちらの物語の魅力も、この人間と竜の関係性の深さが中心となる。
 もちろん、人間にも竜にも人間同士、竜同士の関わりがあり、人間と人間、人間と竜、竜と人間の関係性の複雑さが生まれる。この複雑さが物語に最大限に活かされている。読む方もちょっと大変である。人間の名前、竜の名前、それに地名や出来事の名前など把握するのが大変だからだ。特に私のように固有名詞を覚えられない人間にはやっかいだ。還暦近くなると忘却力がさらに増してしまう。おもしろいのにもどかしい。
 それでも、竜に浸りたい。そう思わせてくれたのが「テメレア」であり、あらためて日本で翻訳されている「竜騎士」シリーズをすべて読み直したいと思ったのである。翻訳されている「竜騎士」シリーズは手元にある。「テメレア」も続巻の7巻を入手してある。これからしばらく竜三昧ができそうだ。うれしい。

 さて、パーンの竜騎士であるが、本編3部作は遠い未来、居住可能な惑星パーンに入植した人類が、当初知られていなかった危機である他惑星からの糸胞による生命の破壊と大地の汚染への対応のうちに文明世界との接触を失い、技術や文明を失い、その中で生き延びるために新たな文明、社会を再構築する物語である。人々を守る竜騎士、土地を統べる領主、領地同士の関係性とは独立した立場を持つ職種集団で構成された中世的社会である。しかも前の糸胞の襲来から400年の時が経ち、人々の記憶から危機は薄れ、竜騎士も衰退する中で竜騎士の特権に対する不満が高まる状況において、糸胞が襲来するという物語であった。その解決を図りながら、徐々に世界の実相、失われた世界の秘密が明らかにされ、登場人物は生まれ、成長し、年を取っていく。成長譚としての物語、ファンタジーとしての驚くべき世界の魅力、SFとしての上手な謎解き、どの視点からも読める時を超える作品である。

 今回読み直して、2作、3作目で登場する「火蜥蜴」が実によい働きをしていることに気づかされるとともに、かわいいものだとほのぼのした。肉食の動物だからペットとして飼うのは現代日本では少々難しいが、猫ぐらいの知性と自由を持ち、犬ぐらいの従順さと働きを見せるのである。竜とつながるのはその食事の準備だけでも大変だが、火蜥蜴ならね。

 三部作の感想の詳しくは以前書いた通り。

竜の戦士
https://inawara.sakura.ne.jp/halm/2007/08/26/dragonflight/
竜の探索
https://inawara.sakura.ne.jp/halm/2007/09/20/dragonquest/
白い竜
https://inawara.sakura.ne.jp/halm/2007/09/20/the-house-dragon/

テメレア戦記Ⅵ 大海蛇の舌

TONGUES OF SERPENTS

ナオミ・ノヴィク
2010

 黒き気高きドラゴン・テメレアとその乗り手であるローレンスの旅は、ついに北半球を離れ、オーストラリア大陸へ。シドニー、そこは英国が開拓をはじめてそう長くないすさんだ開拓の町である。開拓者とは名ばかりで英国から送られてきた囚人たち。ある意味で島流し的な海兵たち、そこを取り仕切る植民地総督、あまりのひどい扱いに反旗を翻し、事実上統治しているニューサウスウェールズ軍団…。
 軍籍を剥奪されたローレンスと事実上厄介者扱いされたテメレアは、ドラゴンのいない植民地にドラゴンを導入する目的と称して3つのドラゴンの卵を渡され、それを守り孵すという仕事を与えられる。送迎の警備役のドラゴンとなじみ深いドラゴン輸送船に乗ってやってきたのは、そんなシドニー。
 そしてここでもいろいろあってドラゴンの卵のひとつを奪われてしまい、シドニーから大陸を縦断するはめに。広大な乾燥した大陸を、生まれたばかりのふたりの変わったドラゴンとともに旅するテメレアとローレンス。自然の中の新たな脅威、オーストラリアの先住民たち、そして意外な人物たち。ユーラシア大陸でも砂漠を経験し、アフリカ大陸でも果てのない旅を経験しているテメレアたちであるが、人が少なく、集落もほとんどないオーストラリアの地での経験はこれまでにはなかったものだった。

 もちろんナポレオン戦争はまだ続いているし、大航海時代において新天地オーストラリアはヨーロッパ人にも中国人にも、そして独立して間のないアメリカ人にとっても「開拓」すべき土地である。しかしもちろんそこには先住民がいて、さまざまな暮らし方や文化を持つ民族があるのである。
 軍籍はないが、軍にとっては欠かせないドラゴンの乗り手であるローレンスは、不遇の扱いを受けながら、「いま自分にできること」「いま自分がやるべきこと」「いま自分がやりたいこと」を考え、テメレアとともに行動するのであった。
 主戦場から離れたことで、テメレア戦記はまた違った「戦記」となっていく。前作に続き、後半の大きなターニングポイントとなる巻であった。

 それにしても、ローレンスもテメレアも休ませてくれないね。わくわくするけどちょっとかわいそうな気持ちにもなる。

テメレア戦記Ⅴ 鷲の勝利

VICTORY OF EAGLES

ナオミ・ノヴィク
2008

 19世紀初頭、蒸気機関は誕生したもののまだ帆船の時代。ナポレオンがヨーロッパを席巻しようとしていた時代のおはなし。この物語の世界では、ドラゴンが当たり前に存在し、思考し、話し、人とともに生きている。そんな戦争の時代のひとりの竜とその乗り手の物語
 第1巻でフランス軍から奪った竜の卵から孵ったのは中国皇帝ががフランスのナポレオンに贈呈した特別なドラゴンであった。英国海軍士官のローレンスはその竜に選ばれ、テメレアと名付けて空軍のパイロットとして転籍し、海軍と空軍の違いに戸惑いながらも、テメレアとの絆を深めた。第2巻では、その中国に海路で向かうこととなり、中国の竜事情に加え、中国、フランス、英国の大国間の騒動にも巻き込まれる。そして、第3巻では帰路を陸路でトルコ帝国をまずめざすことになる。ユーラシア大陸を西へ西へ。苦難の旅の物語。さらに第4巻では英国に戻ったものの仲間のドラゴンたちを助けるためにアフリカ大陸に渡ることになり、そこで奴隷制について深く怒りを覚えるテメレアであった。
 アフリカ大陸から英国に帰国したテメレアとローレンスの物語は、苦難の幕開けとなる。
 前作のとある事情からローレンスとテメレアは離ればなれとなる。そしてここからは、ローレンスの視点の物語から、ローレンスの視点、テメレアの視点と、人とドラゴンのそれぞれの視点から語られることになる。
 前作までの長い旅を通じて、ローレンスとテメレアの深い絆はより強固になった。それは、ローレンスの思考や行動を大きく変えるものとなる。もともとローレンスは有力な英国貴族の家に生まれ、本来ならば貴族としての道を選ぶべきであったが、生粋の真面目な性格と「国家に尽くしたい」という強い思い、さらには広い世界を見たいという冒険家的な一面から海軍士官となっていた。真面目で優秀かつ有能な青年士官はその出自もあり出世も早く有力艦の艦長となり、厳格かつ公正な上官として部下にも慕われる存在であった。一方で、貴族議員の父とは奴隷制廃止など政治的姿勢は共通するものの、貴族としてのあり方故に衝突していた。似たもの同士でもある。そんなローレンスが、ドラゴンのテメレアのパートナーとなり、世間的には低く見られる空軍の士官に転籍した。空軍とはドラゴンの軍であり、ドラゴンに選ばれた者がキャプテンパイロットであり、そのほかにはドラゴンに乗ってキャプテンを補佐する者、ドラゴンと人の世話をする者たちで構成される軍である。故に、ドラゴンの側に常に居ることとなり世間一般とは離れた存在になる。キャプテン候補は幼少期から空軍で将来のパイロット候補として訓練を受ける。そこに、海軍から突如キャプテンとなって転籍したのがローレンスである。そりゃあ風当たりも強くなろう。
 一方テメレアは生まれついての語学の天才であり、策略家であり、読書家であり、自由を最大の価値と知る、若く正義感あふれる王の風格を持つドラゴンである。他のドラゴンとの関係性、人間社会のありようをまっすぐなまなざしで見続ける。奴隷制を知り、中国でのドラゴンの扱いを知り、野生のドラゴンを知り、国家と法と「基本的人権」を知る。そんなテメレアとのつながりは、ローレンスを少しずつある意味で「解放」していくことになる。それはテメレアも望んだことであったが、それ故に、ローレンスは戦時下の英国軍人、貴族という社会から徐々に乖離してしまう。
 その結果が、第五巻の冒頭である。ローレンスとテメレアは離ればなれ。テメレアはひとり苦悩と寂しさの中にある。一方のローレンスもテメレアのことを思いながらも、せいせいと国家が自分に与えた状況を甘んじて受け入れようとしていた。
 折しも、そのような状況下、フランスのナポレオン軍が英国本土上陸急襲作戦を開始した。ローレンスの身を案じ、英国への忠誠の意義を失いつつある中でも、自分がいまいる場所である英国を守るため戦いをはじめるキャプテンなきテメレア。キャプテンの任を解かれ、テメレアの未来を案じながら英国にある意味で捨てられたのに英国への忠誠故に奮闘するローレンス。それぞれの絶望的な英国防衛戦争が幕を開けるのだった。

 いよいよ「テメレア」戦記である。テメレアの視点の物語描写によって物語は壮大になりアクション感も増し、「戦記」感も増す。ローレンスが悪いわけではないのだが、やはりこのシリーズはテメレアの物語なのだ。それは人間にもうひとつの視点を与える。人間はすぐに「他者」をこしらえる。そして「他者」には自分とは違う思考、行動、心があることを忘れてしまう。しかし、どんなに姿形が違っても、出自が、言葉が違っても、あるいは同じであっても、尊重されるべき存在なのだ。その尊重や尊厳を否定する者や枠組みこそが問題なのだ。テメレアははっきりとそれに気がつきはじめる。そして読者もテメレアの視点に考えさせられるのだ。

テメレア戦記Ⅳ 象牙の帝国


EMPIRE OF IVORY

ナオミ・ノヴィク
2007

 漆黒のドラゴン・テメレアと、その乗り手であるローレンスの物語も4巻目に入った。第3巻では中国からトルコ、プロイセンとユーラシア大陸を西へ西へと旅した一行であった。幾多の出会いと冒険と闘いとそして死と別れ。中国に行く間、ナポレオン戦争といわれるヨーロッパ中を巻き込んだ長い大戦からは少しだけ距離を置いていたテメレアとローレンスであったが、ヨーロッパに近づくにつれ、再びナポレオンの濃い影を見る。そしてそこには思わぬ強敵の姿もあった。苦しみの中でようやくローレンスにとっての故郷である英国に帰還したものの、時をおかずにアフリカ大陸をめざすことになる。
 イギリスをはじめヨーロッパにとってのアフリカとは奴隷貿易の地であった。すでに第2巻で中国に向かう途上、テメレアは奴隷貿易で奴隷船に乗せられるアフリカ人たちの姿を見て、自分達英国におけるドラゴンの位置づけや人間が人間を支配する姿に疑問をもっていた。今度はそのアフリカである治療薬を探すために率先してアフリカに入ることになる。それはローレンスにとっては辛く厳しい旅になり、テメレアにとっては闘うことの意味や竜の基本的権利、人間社会や国家との関係性などについて深く考える機会ともなる。

 父親は国会議員として奴隷制廃止に尽力するも貴族として英国の格式を重んじる存在。その父に反発するように海軍士官を経て軍の中ではもっとも下に見られる空軍士官となった息子のローレンス。しかし、そのローレンスも父親譲りの格式を重んじ、法や作法に厳格であることは変わらない。ゆるい規範の空軍の実務重視の姿勢に慣れつつも、ときおりみせる堅苦しさは隠しようがない。一方、テメレアは天才である。生まれて数年だが、知的にも身体能力的にも、人間よりも他の竜よりも飛び抜けて優れている存在になっていた。
 ただローレンスというパートナーのことになると、見境がなくなってしまう。それは竜の属性でもあるから。ゆえに、たとえ納得がいかなくてもローレンスのために働くこともある。しかし、本質のところではやはり譲れないものもある。
 戦争という殺すことを賞賛される愚かな時代に、生きた究極兵器として扱われる竜たち。そこで生命の尊厳について思考をめぐらすテメレア。
 華やかなアクションと息もつかせぬ展開の物語の影でテメレアの成長とともに思考は深くなっていく。
 それと同時に、21世紀の作品として、奴隷制の時代を描く作者ナオミ・ノヴィクの視点も忘れてはいけない。
 人間は何をしてきたのか、そしてこれから何をするのか。エンターテイメントであっても物語には常に時代と人間のあり方が書かれているものだ。

 もちろん、テメレアかわいい! でも、一向に構わないのだが、このシリーズの魅力はそういう重層的な深みにあることも間違いない。

 さて、アフリカの後はどこにいくのだろうか。次が(ちょっとどきどきしながら)楽しみである。