読書の楽しみ 歴史改変と歴史の物語

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 海外のSFをよく読んでいる。とりわけ自宅仕事で手仕事に変わったいまは通勤も出張もなくまとまって本を読む時間が取りにくいので寝る直前とか休みの日にまとめて読むことにしている。手仕事なので手を使うため本が読みにくい。しかも時代はスマホである。短時間だとスマホでSNSなどを流し見るのがちょうど良かったりもする。あおりを食ったのは一般教養部門の本である。一般的な科学書をよく読んでいたのだが、これこそつまみ読みではなかなか進まない。歴史や地理学などやや人文系に近い方だと一般書は読みやすいものもある。歳を取るとこういう本に手が伸びるのはこれが理由なのか?


 ということで、「オン・ザ・マップ 地図と人類の物語」(サイモン・ガーフィールド 2010)を数年かけて読み終えた。おもしろいけど、必要性の低い教養書なのだ。ちょっと読んでは後回ししてしまった。
 地図の歴史ドキュメンタリーなのだが、このなかでちょっとだけ触れられている19世紀後半のオーストラリア内陸調査の悲惨な旅の記述が、ちょうど読み終えたばかりのファンタジー作品と呼応しておもしろかった。

 その作品は、「テメレア戦記Ⅵ 大海蛇の舌」(ナオミ・ノヴィク 2008)。
 19世紀初頭のナポレオン戦争時代を舞台に、竜(ドラゴン)のいる歴史改変ファンタジーとしてはじまり、イギリス、中国、トルコ、ドイツ、アフリカ大陸などを経て、6巻では主人公が流れ流れて入植初期のオーストラリアに滞在している。19世紀初頭のオーストラリアは西洋社会にはほとんど詳細が知られておらず、シドニーに囚人を中心とした町ができていた時代である。主人公は必要に迫られ、少人数で大陸内部を横断し北部のカーペンタリア湾方面をめざす過酷な旅に出る。
 この巻では、この旅を中心に描かれるのだが…。

「オン・ザ・マップ」によると、実際には1960年代にメルボルンからカーペンタリア湾まで内陸を調査する旅が行なわれており、悲惨で調査隊のリーダーのひとりは途中で死亡したのだが、この調査日記や簡易な地図は残されていて、それなりに有名な話しらしい。ヒットはしなかったが映画にもなったとか。わずか数ページの紹介だが、この部分を読んだとき、「テメレア戦記」で描かれた主人公たちの内陸探査の旅の記述には、きっとこの1960年代の調査の記録や伝記が背景に使われているのだろうなと思わされた。
「テメレア戦記」は巻を追うごとに実際の歴史から離れていくとされているが、それでもところどころに実際の歴史のエピソードなどがうまく織り込まれているのだろう。読者に教養が深ければ深いほど、そういう面白さが大きくなるのだろうな。

 いろんなジャンルの読書を並行して読む楽しみのひとつである。

竜の挑戦

ALL THE WEYRS OF PERN

アン・マキャフリイ
1991

 クライマックスで泣いちゃった。2500年余の物語の大団円の余韻が心に残る。
 パーンの竜騎士シリーズは、ここにひとつの幕を閉じる。「竜の戦士」ではじまった本編シリーズは、その前史である「竜の夜明け」や「竜の戦士」の時代には伝説となっている「竜の貴婦人」「ネリルカ物語」など時をさかのぼっては、惑星パーンの世界の姿を明らかにしていったのだが、ここに大きな時の円環が閉じるのだ。
 それは、SF色のあるファンタジーとしてはじまった物語が、本格的なSF作品と転化する、読者にとっては思ってもいない長い旅路でもあった。
「パーンの竜騎士」シリーズは、2500年余の時代のどこであっても「糸胞」との戦いが根幹にある。「竜」があまり表に出てこない作品でも「糸胞」は常につきまとうのだ。
 糸胞の正体をつきとめ、叶うならば糸胞を壊滅し、その脅威を本当になくしてしまいたい。それこそが登場人物たちほぼすべての願いであったろう。第二作「竜の探索」では、フーノルが自身の生命を賭けて、その可能性に挑戦している。
 しかし、2500年余の時は人々から科学技術と知識を奪ってしまった。そもそもパーンに入植した人たちは星間の紛争とそれを背景とする高度な管理社会システムに嫌気を持ち、農耕と手工業中心の素朴な社会形成をめざしてきた人たちである。意図した方向ではなかったかも知れないが、結果的にできた社会は農耕と手工業中心の中世のような社会であった。
 400年の糸胞襲来休止期間を経て、ふたたび糸胞が襲来する。400年の休止期間も単なる停滞ではなく社会は変化してきた。2500年あれば、言葉さえ変わるのだから。

 人工知能音声応答装置アイヴァスは、南の大陸から入植者たちが北の大陸に向けて緊急避難し人々との接触が断たれ、火山灰で太陽発電パネルが不安定になって以来、最低限の維持レベルで機能していた。2525年後、自然の風や野生動物ではなく、明らかに太陽発電パネルの土砂を払いのける動きを察知、人々が生きて南の大陸に戻ってきた可能性を判断し、機能を復活させた。
 アイヴァスに最後に与えられた指令は、糸胞からパーンを守る方法を探索すること。アイヴァスはその方法を検討したが、報告する人々はいなくなってしまった。
 アイヴァスは、生き延びた人たちに期待した。まずは2500年の歴史を知り、彼らの技術レベルを把握しなければ。しかし、パーンの入植目的をはずれるような科学技術や先進工業を無条件に伝え、形成された社会を破壊してはいけない。アイヴァスは「使命」と「目的」に忠実な高度な人工知能だったのである。

 フルキャストの登場である。まずはもちろん、パーンのすべての階層の人たちから愛され、信頼され、あまつさえアイヴァスにも、竜や火蜥蜴たちからも信頼されている前竪琴師ノ長ロビントン老。その元で、竪琴師ノ長となったセベル、天賦の音楽的才能を持ちながら苦難の末に竪琴師となったメノリ、南ノ大陸をひとり探査した竪琴師補ピイマア。竜騎士といえばベンデン大巌洞ノ統領フーラル、ベンデン大巌洞ノ洞母レサ。ルアサ城砦ノ太守にしてルースの竜騎士であるジャクソム。さらには鍛冶師ノ長ファンダレル。グロギ太守、ララド太守、アスジナル太守、療法師ノ長オルダイブ、療法師シャアラ、鍛冶師ジャンシス…。
 みんなそれぞれの個性で大活躍である。
 これまで主人公を張っていたフーラル、レサ、ロビントン、ジャクソム、ピイマア、メノリの活躍ぶりったらない。
 太守としても、竜騎士としてもはみだしっこに見られていたジャクソムの成長と白い竜ルースがすごくがんばる。そして、老境を迎えながらも好奇心を失うことなく、最高の宝箱を前にして誰よりも生き生きとしてきたロビントンもがんばる。もう、このふたりとツンデレにしかみえないアイヴァスとのやりとりはいつまでもいつまでも読み続けていたい。
 こんな抑制的な人工知能、あっていいわけ?

 物語としては、中世社会に突然高度な科学技術文明の遺跡が発見され、しかも、それが稼働する人工知能であり、その人工知能の指導を受けながら、遺跡である科学技術を復興させ人工知能にとっても中世社会の人々にとっても共通の敵である存在と戦うというものである。このパターンそのものはSFではよく見られるもので、「過去」に「現在」の科学技術がタイムスリップ等でもたらされるパターン、「現在」に「未来や外宇宙の先進文明」から科学技術がもたらされるパターンなどがある。そういう点では、とてもオーソドックスな物語展開なのだが、「竜の戦士」にはじまる本編の流れと、その過去を示す「竜の夜明け」などを踏まえての物語なので、スケールの壮大さが違うね。そこがアン・マキャフリイのすごいところだ。登場人物が多いから、初巻から一気に読むのがいい。
 今回まとめて読んですっきりしたもの。

 ファンタジーファンも、異世界ファンも、ドラゴンファンも、タイムトラベルファンも、植民星ファンも、人工知能ファンも、あらゆる層におすすめしたい。最初から全部読んで。まとめてシリーズで読んで。

竜の反逆者

THE RENEGADES OF PERN

アン・マキャフリイ
1989

 パーンの竜騎士シリーズ本編第7作「竜の反逆者」は、最初の3部作「竜騎士篇」、次の3部作「竪琴師篇」の時の流れをその直前からその後までを俯瞰する作品となっていると同時に、パーンの竜騎士シリーズの終結に向けた最初の作品となっている。
 もともと本シリーズは、人類の植民星で竜と竜騎士が中世的な文明社会において周期的に宇宙から降ってくる脅威から人々を守るために闘うという、SF的背景をもったファンタジー作品である。宇宙航行種族としての人類の科学技術や知識、文化は、このパーンという植民星ではとうに忘れられ、かろうじておぼろげな記録はあるものの、人々はこの星で脅威と戦いながら生き抜くために必死だったのだ。竜騎士は竜とともに戦う。城砦の太守は城砦を守り、その領民を保護する。竪琴師は音楽を奏で、同時に、物語を語り、パーンの文明的規範を教え、情報を蓄えて伝える。そのほかにもギルド的な各工舎が農業や畜産、医療、鉱業、手工業などの技術を保持し、社会を維持していた。
 竜騎士の暮らす大巌洞、城砦、各ギルドの工舎という3つの社会構成要素でパーンの世界は成り立っている。
 前6作品には、主に竜騎士、城砦の人々、竪琴師をはじめとする各ギルドの人々が登場人物であった。しかし社会には、大城砦の庇護のもとで小さな城砦で暮らす人々、あるいは隊商を組み城砦から城砦へと商売を生業とする者たちもいる。あるいは、なんらかの理由で「所属」を失った者や、その結果流浪者になった者、犯罪者になった者もいる。
 とりわけ第1作「竜の戦士」の始まりの頃は、脅威の長い長い休息期間の結果、一部の竜騎士などを除いては、もうパーンの脅威は去ったと皆が考えるようになっていた。脅威は伝説となり、物語の世界になりつつあったのだ。そして、世界はある意味で自由を謳歌していたとも言える。
 規律は乱れ、野望を持つ太守の中には、他の城砦を制圧し、領地を拡大しようというものさえも出てきた。しかしやがて宇宙から糸胞が降り始め、社会のお荷物と思われていた竜騎士が再び脚光を浴び始める。社会は一気に本来の社会体制に戻ることを求められる。
 本作は、そんな時代の変革期に生きることとなった「人々」と「暮らし」に焦点を当てる

 古い大城砦のひとつテルガー城砦の太守の異母姉セラは、自らがテルガー城砦を取り仕切れないことから城砦を飛び出し、自らが城砦の太守となる大望をいだき、流浪の旅にでる。そして、所属する城砦を持たないセラは生きることに苦労することになる。持ち前のカリスマ性で暴力性で同じように無宿の者たちをまとめ、盗賊集団を組織していく。

 隊商のリーダーの息子で若きジェイジは城砦から次の城砦に向かった直後にはじめての糸胞の襲来に遭遇する。父親が城砦から届いた竪琴師からの「糸胞が降る」という伝言を真に受けずに引き返して城砦に避難しなかったことによって起きた悲劇であった。隊商は壊滅。城砦は自らの城砦民を守ることに必死で品物や手段をうしなった隊商の人たちは受け入れられない避難民となってしまう。恥辱と苦況のなかでジェイジはこの新たな状況に対応しながらふたたび商人として生きていく道を探す。

 長い時間の経過の中で、セラとジェイジに接点が生まれる。アラミナという竜の言葉が聞こえる希有な能力を持った少女の存在である。
 このセラ、ジェイジ、アラミナを物語の中心として、これまで登場した竜騎士たち、竪琴師たち、城砦の太守たちの正編6作の流れを辿りつつ、パーンという世界が描かれていくのである。もう、ここまでの読者へのご褒美にしか思えない。

 そして、「竜の太鼓」のあとにつながり、次の物語の幕開けになる。
 それは、「竜の夜明け」で語られたパーン前史ともつながる物語である。数千年の歴史がここに接点を持つのだ。
 すごい。いいね。楽しい。ここまで読んできて良かった。
 ファンタジーとSFの見事な融合。
 シリーズ1作から順番に読んで!

竜の夜明け

DRAGONSDAWN

アン・マキャフリイ
1988

 パーンの竜騎士シリーズの外伝1として邦訳された作品である。シリーズ中、もっとも「ふつうのSF」している作品だ。そしてさまざまな謎が解き明かされる物語でもある。
 時は本編シリーズをさかのぼること2400年の昔。人類の植民船3隻がルクバト星系第三惑星に辿り着き、人類が生存可能な惑星での新たな生活をはじめる。その惑星はパーンと名付けられ、独自の生態系を持っていたが、高度な知的生命体はなく、海も大陸もある人類にとっては理想的な新天地であった。長い戦争に疲れた人々、高度な科学文明に人間性を失うことを嫌う人々、そんな人々が大いなる希望と成功への期待、失敗への不安をもって惑星に降り立ち、新たな暮らしを築こうとした。人々は知らなかった、その地に200年に1度、糸胞の雨が降り、あらゆる生命体、有機物を襲っていることを。

 この物語は、SFの定番のひとつ、新たな植民星への移住をめぐる人々の物語である。まったく新しい世界で起きる様々なできごと、そこに人間同士のいさかいや出会い、喜び。新たな社会形成に向かうための苦労、苦難、そして、やはり喜びもある。
 ただ、違うのは、読者のほとんどは、この惑星パーンとそこに生きる人類であるパーン人の未来を知っているということである。竜とともに糸胞と戦い、惑星に順応してたくましく生きる人々の姿を、その物語を。しかし、本書の登場人物たちはその未来を知らない。その未来のスタート地点の物語なのだから。だから、謎解きの物語なのだ。
 なるほどー、そういうことだったのか、そうきたか。一方でそんな感想を持ちながら、他方では、純粋に「今」の物語として新たな植民星で生きる人々の姿を楽しむことができる。1回の読書で二重にも三重にも楽しめる、実によくできた前日譚なのだ。

 そして、マキャフリイは本編シリーズの「読み替え」をも迫る。それは「竜の貴婦人」「ネリルカ物語」でも意図的に書かれていたことだが、「竜の夜明け」ではより具体的に書かれることとなる。それはとくに「女性」の扱いについてである。
 そもそも本書「竜の夜明け」では3人の女性が物語の主導権を握っている。

 ソルカは両親に連れられてやってきた子供である。彼女は火蜥蜴をはじめて見つけ、感合した女性だ。物語とともに成長し、大きな役割を担うことになる。
 サラは操縦士だ。慎重で、優秀な操縦士であるとともに、植民地の生活が本格的になれば自分のいまの仕事がなくなり生き方が変わることを自覚し、積極的に動いている。
 エイヴリルはシャトル操縦士である。片道切符の植民星だが、彼女は違った。ある目的を持ってやってきたのだ。
 この3人の考えや行動が物語の鍵なのだが、同時に、彼女たちの恋愛観、結婚観、性愛観は力強く、かよわいところはみじんもない。本編シリーズにあるような男たちの影に隠れる要素はまったくといっていいほどない。きわめつけは、次の台詞だ。

「性による限界よ…女王は産卵だけで、闘うのは他の色ってわけ!」ソルカはむかつく思いだった。

 これは、竜を生み出すための遺伝子操作をした老女性科学者(故人)について夫に向かって言った言葉である。その直前には「(竜の遺伝子に)性差別を組み込んでたの?」と無関係だが情報を持っている夫に詰め寄る。
 そして、その言葉に反応し、

 他の女王竜の騎士が寄ってくるのに対し、青年たちはそれとなく後ずさりしだした。

 と表現されている。
 まさしく、それは1960年代の時代背景の上で書かれた「竜の戦士」の設定を、読者がジェンダー目線で読み替えるための設定であり、「竜の夜明け」の女性たちを通して、過去のマキャフリイ自身と読者に対して突きつけるための言葉なのだ。
 作品は、書かれた時代の影響を必ず受ける。その時代に受け入れられなければ作品自体が存在し得ないのだから。しかし、価値観は変わり、人類の進化にともなって見直されていく。マキャフリイは過去の自分の作品そのものを否定せず、その前日譚を通して、今日の価値観に読み替えさせるというテクニックを使ったのである。

 そういうことって実は大切なことなのだと思う。
 ちょっと思い出したのは、大和和紀の「はいからさんが通る」を新装版として出版するときに大和和紀自身が出版社とともに巻末に「読者の皆様へ」と題して、大正時代を舞台にした作品を1970年代に書いたことによる大正時代の差別のありよう、70年代の認識のありようの問題点を指摘した上で「差別の歴史と人権意識の変化」という視点を持って読んで欲しいことを明示したことだ。

 作品には時代性がつきまとい、それ故に後に改変されたり、再版されず消えていくものも多い。ただ「なかったことにする」のではなく、作者や死後はのちの権利者、あるいは出版社などが、「差別の歴史と人権意識の変化」という視点とそのためのヒントを提示することで作品を残すことは必要ではないだろうか。差別に限ったことだけではない、飲酒や喫煙といった生活習慣や社会制度などもある。

 パーンの竜騎士シリーズでは、SFというフィールドで、現役の作家であったからこそできたのだ。物語のファンタジーやSFの可能性はこういうところにもあるのだ。

ネリルカ物語

NERILKA’S STORY

アン・マキャフリイ
1986

 パーンの竜騎士シリーズ外伝3として邦訳された「ネリルカ物語」である。竜騎士でありフォート大巌洞の洞母であるモレタの飛翔を描いた「竜の貴婦人」と対となる作品である。いや、むしろ「竜の貴婦人」の長い長い物語は「ネリルカ物語」を読ませるためにあったのか、と思わせるような珠玉の作品である。
 本書の主人公ネリルカは竜騎士ではない。伝統あるフォート城砦の太守トロカンプのたくさんいる娘の一人である。背は高く、身体はしっかりとし、薬草集めや家の様々なことをこなすが、時には自立心ゆえにトロカンプ太守にたてつくこともあり、容姿にめぐまれているとはいえないこともあって、娘の中では不遇の暮らしをしていた。ネリルカは城砦の下働きの人たちとともに働くのは苦ではないが、適齢期でもあり、はやくフォート城砦を出たいと思っていたが、一度定められた婚約者との結婚も破談となり、出るすべを失っていた。そして、「竜の貴婦人」で描かれたパンデミックの引き金となる祭りに参加することも父トロカンプ太守に止められ、その結果、彼女は感染することなく生き残るのであった。
 そして、ネリルカの目でモレタの物語では語られなかった人々の日常の苦難、パンデミックを生き抜こうとする人々の努力が、ネリルカ自身の行動も含めて語られていくのである。それはネリルカがネリルカそのものとして生きる道を探す旅ともなる。女性ならではの苦難のなかでネリルカは戦い続けるのだ。それは武器を取る戦いではないが、まさしく生きるための、そして人々を生かすための戦いだったのだ。
 この物語で竜や竜騎士、パーンの世界はネリルカを焦点とした自然な背景に変わる。
 なぜならば、これは現代の女性の物語、人間の物語でもあるからだ。
 力強い物語がここにある。
 パーンの竜騎士の世界を読んできて、実に良かった。