竜の夜明け

DRAGONSDAWN

アン・マキャフリイ
1988

 パーンの竜騎士シリーズの外伝1として邦訳された作品である。シリーズ中、もっとも「ふつうのSF」している作品だ。そしてさまざまな謎が解き明かされる物語でもある。
 時は本編シリーズをさかのぼること2400年の昔。人類の植民船3隻がルクバト星系第三惑星に辿り着き、人類が生存可能な惑星での新たな生活をはじめる。その惑星はパーンと名付けられ、独自の生態系を持っていたが、高度な知的生命体はなく、海も大陸もある人類にとっては理想的な新天地であった。長い戦争に疲れた人々、高度な科学文明に人間性を失うことを嫌う人々、そんな人々が大いなる希望と成功への期待、失敗への不安をもって惑星に降り立ち、新たな暮らしを築こうとした。人々は知らなかった、その地に200年に1度、糸胞の雨が降り、あらゆる生命体、有機物を襲っていることを。

 この物語は、SFの定番のひとつ、新たな植民星への移住をめぐる人々の物語である。まったく新しい世界で起きる様々なできごと、そこに人間同士のいさかいや出会い、喜び。新たな社会形成に向かうための苦労、苦難、そして、やはり喜びもある。
 ただ、違うのは、読者のほとんどは、この惑星パーンとそこに生きる人類であるパーン人の未来を知っているということである。竜とともに糸胞と戦い、惑星に順応してたくましく生きる人々の姿を、その物語を。しかし、本書の登場人物たちはその未来を知らない。その未来のスタート地点の物語なのだから。だから、謎解きの物語なのだ。
 なるほどー、そういうことだったのか、そうきたか。一方でそんな感想を持ちながら、他方では、純粋に「今」の物語として新たな植民星で生きる人々の姿を楽しむことができる。1回の読書で二重にも三重にも楽しめる、実によくできた前日譚なのだ。

 そして、マキャフリイは本編シリーズの「読み替え」をも迫る。それは「竜の貴婦人」「ネリルカ物語」でも意図的に書かれていたことだが、「竜の夜明け」ではより具体的に書かれることとなる。それはとくに「女性」の扱いについてである。
 そもそも本書「竜の夜明け」では3人の女性が物語の主導権を握っている。

 ソルカは両親に連れられてやってきた子供である。彼女は火蜥蜴をはじめて見つけ、感合した女性だ。物語とともに成長し、大きな役割を担うことになる。
 サラは操縦士だ。慎重で、優秀な操縦士であるとともに、植民地の生活が本格的になれば自分のいまの仕事がなくなり生き方が変わることを自覚し、積極的に動いている。
 エイヴリルはシャトル操縦士である。片道切符の植民星だが、彼女は違った。ある目的を持ってやってきたのだ。
 この3人の考えや行動が物語の鍵なのだが、同時に、彼女たちの恋愛観、結婚観、性愛観は力強く、かよわいところはみじんもない。本編シリーズにあるような男たちの影に隠れる要素はまったくといっていいほどない。きわめつけは、次の台詞だ。

「性による限界よ…女王は産卵だけで、闘うのは他の色ってわけ!」ソルカはむかつく思いだった。

 これは、竜を生み出すための遺伝子操作をした老女性科学者(故人)について夫に向かって言った言葉である。その直前には「(竜の遺伝子に)性差別を組み込んでたの?」と無関係だが情報を持っている夫に詰め寄る。
 そして、その言葉に反応し、

 他の女王竜の騎士が寄ってくるのに対し、青年たちはそれとなく後ずさりしだした。

 と表現されている。
 まさしく、それは1960年代の時代背景の上で書かれた「竜の戦士」の設定を、読者がジェンダー目線で読み替えるための設定であり、「竜の夜明け」の女性たちを通して、過去のマキャフリイ自身と読者に対して突きつけるための言葉なのだ。
 作品は、書かれた時代の影響を必ず受ける。その時代に受け入れられなければ作品自体が存在し得ないのだから。しかし、価値観は変わり、人類の進化にともなって見直されていく。マキャフリイは過去の自分の作品そのものを否定せず、その前日譚を通して、今日の価値観に読み替えさせるというテクニックを使ったのである。

 そういうことって実は大切なことなのだと思う。
 ちょっと思い出したのは、大和和紀の「はいからさんが通る」を新装版として出版するときに大和和紀自身が出版社とともに巻末に「読者の皆様へ」と題して、大正時代を舞台にした作品を1970年代に書いたことによる大正時代の差別のありよう、70年代の認識のありようの問題点を指摘した上で「差別の歴史と人権意識の変化」という視点を持って読んで欲しいことを明示したことだ。

 作品には時代性がつきまとい、それ故に後に改変されたり、再版されず消えていくものも多い。ただ「なかったことにする」のではなく、作者や死後はのちの権利者、あるいは出版社などが、「差別の歴史と人権意識の変化」という視点とそのためのヒントを提示することで作品を残すことは必要ではないだろうか。差別に限ったことだけではない、飲酒や喫煙といった生活習慣や社会制度などもある。

 パーンの竜騎士シリーズでは、SFというフィールドで、現役の作家であったからこそできたのだ。物語のファンタジーやSFの可能性はこういうところにもあるのだ。

ネリルカ物語

NERILKA’S STORY

アン・マキャフリイ
1986

 パーンの竜騎士シリーズ外伝3として邦訳された「ネリルカ物語」である。竜騎士でありフォート大巌洞の洞母であるモレタの飛翔を描いた「竜の貴婦人」と対となる作品である。いや、むしろ「竜の貴婦人」の長い長い物語は「ネリルカ物語」を読ませるためにあったのか、と思わせるような珠玉の作品である。
 本書の主人公ネリルカは竜騎士ではない。伝統あるフォート城砦の太守トロカンプのたくさんいる娘の一人である。背は高く、身体はしっかりとし、薬草集めや家の様々なことをこなすが、時には自立心ゆえにトロカンプ太守にたてつくこともあり、容姿にめぐまれているとはいえないこともあって、娘の中では不遇の暮らしをしていた。ネリルカは城砦の下働きの人たちとともに働くのは苦ではないが、適齢期でもあり、はやくフォート城砦を出たいと思っていたが、一度定められた婚約者との結婚も破談となり、出るすべを失っていた。そして、「竜の貴婦人」で描かれたパンデミックの引き金となる祭りに参加することも父トロカンプ太守に止められ、その結果、彼女は感染することなく生き残るのであった。
 そして、ネリルカの目でモレタの物語では語られなかった人々の日常の苦難、パンデミックを生き抜こうとする人々の努力が、ネリルカ自身の行動も含めて語られていくのである。それはネリルカがネリルカそのものとして生きる道を探す旅ともなる。女性ならではの苦難のなかでネリルカは戦い続けるのだ。それは武器を取る戦いではないが、まさしく生きるための、そして人々を生かすための戦いだったのだ。
 この物語で竜や竜騎士、パーンの世界はネリルカを焦点とした自然な背景に変わる。
 なぜならば、これは現代の女性の物語、人間の物語でもあるからだ。
 力強い物語がここにある。
 パーンの竜騎士の世界を読んできて、実に良かった。

竜の貴婦人

MORETA:DRAGONLADY OF PERN

アン・マキャフリイ
1983

 出版された頃に読んで以来の再読である。
 強調したいことがある。
 2019年終わり頃からはじまった新型コロナウイルス感染症パンデミックという21世紀最初の世界的パンデミックを経験したあとだからこそ、この物語は読まれるべき作品となった。パンデミックを知っているからこそ、身につまされ、心をえぐる物語となる。
 そう、この物語はパンデミックに直面したときの人々の物語なのだ。

 「竜の貴婦人」は、パーンの竜騎士の外伝2として邦訳出版された作品である。
 本編シリーズは人類がパーンとよぶ惑星に入植した後、想定していなかった惑星規模の災害である「糸胞降り」に直面し、パーンの生物から人類が生み出した「竜」とともに生き残るための戦いを繰り広げる物語である。長い年月のうちに「糸胞降り」によって入植者らは人類の科学文明を忘れ、独自の農耕・狩猟型の文明・文化、社会形態をゆっくりと発展させていた。電気や機械動力などの技術はほぼ失われた、地球でいえば中世の終わり、産業革命前の手工業時代のレベルであり、領主(太守)と領民、竜騎士と各ギルド(職能集団)を中心にした社会である。
 歴史や記録、文化の継承、社会規範や生存のための知識などは「竪琴師」による音楽と歌の形で人々に伝えられてきた。
 本編は人類がパーンに入植して2400年ほど経った第9次(糸胞)接近期を舞台として繰り広げられる。

 そのなかでパーンの人々に愛され続け、竜騎士の献身と誇り、パーンに生きる人間としての理想の姿として歌われ続けてきたのが「モレタの飛翔」の物語である。本編でもいくたびか「モレタの飛翔」については語られているが、その具体的内容は記されていなかった。
 実はモレタの飛翔は、本編から1000年ほど昔、第六次接近期の終わり頃の物語であったのだ。そして本書「竜の貴婦人」はこのモレタの物語である。
 本編を読んでいれば分かることだが、モレタは女王竜オルリスと感合したフォート大巌洞の洞母であり、それはつまりすべての竜騎士のリーダーたるフォート大巌洞の統領の妻という重要な職責者であることを意味する。そして、本編を読んでいるならば自明のことだが、モレタの飛翔とは、モレタがパーンの竜騎士と人々を守るために力尽きるまでパーン中を飛び回った、その勇気と献身を讃える歌なのである。
 実際には何が起きたのか、モレタとはどのような人であったのか、伝承となっているモレタの飛翔の物語が、「今」のできごととして語られる。
 ここで忘れてはならないのが、パーン人はそもそも高度な科学文明を持つ人類の末裔であり、比較的早くにパーンの実情に合わせた社会形成が行なわれたということである。だから本編と1000年も遡るモレタの世界であるが、この1000年に本質的な変化は起きていない。

 物語は、「糸胞降り」の期間が終わりを迎える直前の時期、領主の代替わりを祝うかのような大きな祭りの準備にはじまる。ふたつの大きなイベントがパーンの別々の場所で同時期に開催され、パーン中が沸き立っていた。人々は祭りやイベントの会場に遠くからも長い時間をかけて集まってきた。竜騎士もまた糸胞降りの間を狙って行なわれるイベントを楽しみにしていた。しかし、この2カ所への人の集まりは、ちょうどその時にはじまった人と地球由来の動物のどちらにも死をもたらす感染症の流行、パンデミックのきっかけとなってしまう。突然始まり、次々と倒れていく人々、それをなんとか治療しようと取り組む療法師たちとまだ元気な人々。竜騎士さえも倒れていく。そうしている間にも、次の糸胞ふりははじまる。わが身可愛さにとらわれ太守としての役目さえ放棄する男もいれば、パーン全体に心を配り、目の前の人たちを助けるために力を尽くす人々もいる。
 このパンデミックと糸胞降りという未曾有の危機を前に、重要な立場を理解して適切なふるまいを見せる表のモレタと、自分の気持ちに素直に従うひとりの女性としてのモレタの姿が描かれる。それは歌に歌われるようにただただ崇高な天使のような人物ではない。悩み、苦しみ、喜び、愛し、愛されるひとりの人間の姿である。

 さて、「パーンの竜騎士」の本編3部作は1968年から1978年に発表されている。第一作「竜の戦士」は1968年なのだ。作家のアン・マキャフリイといえば、強く、自立心があり、恋愛にも積極的な女性を主人公として描くことでも知られているが、この第1作ではどちらかといえば、女性は活躍するけれど「受け身」であったり「シンデレラ」であったりする。これは想像だが、マキャフリイは後にこのあたりの設定には腹を立てているのではなかろうか。とはいえ自分が書いた作品であり、多くのファンもいる。そうそう設定を大きく変えることはできない。できないけれど、その枠組みの中で、今日的な価値観をもって女性像を描き直すことはできるはずだし、それをやれるのはマキャフリイ自身だと考えたのではなかろうか。
 モレタの女性像や人間観、恋愛観、行動には初期作品にはなかった点が多く、それを作品世界の枠組みにはめこみ、教条的ではないファンタジーとしても感動させる物語に仕立て上げるのがマキャフリイの力である。
 パンデミックや大災害の時、人はどう動くのか、動けば良いのか。考えさせられる作品であった。

 そして、本作で何度かさりげなく登場してくる「ネリルカ」は、さらにマキャフリイが一歩も二歩も踏み込んでくる。合わせて必ず読みたい作品だ。

竜の太鼓


DRAGONDRUMS

アン・マキャフリイ
1979

 パーンの竜騎士シリーズ邦訳第6巻は「竪琴師編」3作目、「竜の太鼓」の主人公は前2作の主要サブキャラであり、「白い竜」では南ノ大陸で冒険を続けていた少年ピイマアである。竪琴師の徒弟で高音のソプラノの美しさで知られるピイマアは、一方で、竪琴師ノ主工舎の厄介者でもあった。はしっこく、いたずら好きのピイマアには誰もが手を焼いていたが、師補となったメノリにはよくなついていた。ピイマアは次の祭りのために彼の声に当て書きされた歌を歌うため猛練習を続けていた。しかし、こともあろうにその直前、彼は声変わりをはじめてしまったのである。
 もう歌は歌えない。もしかすると竪琴師ノ工舎を追い出されるかも知れない。しかし、竪琴師ノ長ロビントンは、ピイマアの情報収集能力と機転に目をつけ、一縷の不安を持ちつつも、彼をロビントンの影の徒弟とすることにした。表向きは太鼓師ノ徒弟として情報伝達手段である太鼓を学ぶこととなった。太鼓師はパーンの世界では通信士の役割を果たしていたのである。太鼓のビートで情報を伝え、それをのろしのように必要なところに送るのである。城砦間の緊急事態や医師の派遣など情報は様々であった。もちろん、竜騎士が情報を伝達する方が早く確実であるが、本来糸胞からパーンの大地と人々を守るのが竜騎士の仕事であり、日常では太鼓師の情報伝達が欠かせないのである。もっとも、ごく最近では火蜥蜴が竜と同じようにある程度人の指示を理解し行動することが分かってきたので、ごく一部であるが火蜥蜴が情報を運ぶことも起きるようになった。しかし、やはりやはり太鼓による情報伝達はパーンの中近距離通信手段であるのだ。それもまた情報伝達者である竪琴師の仕事のひとつであった。
 いたずら者として知られてきたピイマアは、太鼓師ノ徒弟となり、他の徒弟たちと新たな訓練を受け始める。ロビントン師の期待もあり、新たな道として真剣に取り組むピイマア、しかし、ピイマア本人が築いてきた悪名が彼を苦しめる。ピイマアははげしいいじめに会うことになる。
 少年から青年に変わるとき、生活の場が不安定になるとき、少年は道を間違う。その時、身近な大人や年上たちの存在と対応、信頼こそが鍵だ。

 さて、物語は「白い竜」の頃と並行して進むので、「白い竜」では語り尽くされなかった出来事が種明かしのように明かされていく。ジュブナイルと位置づけられているけれど、ぜんぜんそんなことなくって、主人公が少年から青年期である物語というだけで、立派に大人も読めるエンターテイメントSFファンタジーである。かつて植民され、苦難の時とともに人類社会から隔絶し、技術を失い、その地パーンの生態系とともに独自の文化、文明社会を築いてきたパーンの人々の暮らしを少年ピイマアの目を通して楽しめる作品である。

 さて、この後は邦訳されている
 竜の貴婦人 (1983)
 ネリルカ物語 (1986)
 竜の夜明け (1988)
 竜の反逆者 (1989)
 竜の挑戦 (1991)
 竜とイルカたち (1994)
 竜と竪琴師 (1998)
 最年少のドラゴンボーイ (1973)「塔のなかの姫君」所収
 パーンの走り屋 (1973)「ファンタジイの殿堂 伝説は永遠に 2」所収
 を読むことにしよう。
 長編「Red Star Rising」(1996)「The Skies of Pern(2001)」はこのまま訳されることはないのだろうなあ。英語かあ。

竜の歌い手

DRAGONSINGER

アン・マキャフリイ
1977

 パーンの竜騎士シリーズ邦訳5作目、「竪琴師編」第2作は、前作「竜の歌」に続いて、半円海ノ城砦太守の娘であったメノリの物語である。様々な出来事の末に竪琴師ノ主工舎で竪琴師の徒弟として暮らし、修行することになったメノリ。はじめての女性の徒弟、皆が憧れる火蜥蜴を7匹も連れている惑星パーンでも特別な女性。しかも竪琴師ノ長ロビントン直属の徒弟として特別視される存在。目立つことといったらない。竪琴師ノ主工舎にも女性がいないわけではない。女人ノ長のシルビナ、厨房の料理人アブナ、女性寮の管理人である小舎ノ長のダンカといった大人の女性のほかに、各地の城砦から音楽の基礎を学びに来た女性の学生たちもいる。また、同じ徒弟として学んでいる同世代の少年、青年たちもいる。
 もともと各城砦は支配階級と労働者階級の構図が固まっており、また、各工舎は専門職のギルドとして厳格な専門性に基づく徒弟制度が確立していた。そこに突然「異物」が入ってきたのである。早速悪質ないじめや妬み、さらには竪琴師の専門家(工師)、竪琴師として各地に派遣されることも多い師補たちからも決していい顔はされない。
 メノリも自分が子どもの頃から教わってきた技術や自分がつくった歌などが果たしてこの主工舎でどのレベルのものか計りかね、不安でしょうがない。しかし、実際に各工師の試験を受けてみると、メノリが持つ技能と才能の特異な高さは誰にも疑いようのないものであった。
 ますます妬み、そねみ、いじめはひどくなっていく。
 メノリが最初に友人になったのは年下の少年で徒弟であり、いたずら者のピイマアと、厨房の下働きのカモのふたりである。かれらはメノリの火蜥蜴にあこがれ、火蜥蜴に餌をやる手伝いができるのがなにより嬉しく、とくにピイマアはメノリの才能も素直に認め、メノリの親友となっていく。しかし、メノリは、火蜥蜴の(専門家?)として、火蜥蜴の卵をもらい受け孵化と感合をいまかいまかと待ち望むロビントン師と、師補のセベルの卵の世話をやきながら、はじめての場所ではじめての専門教育を次々とこなさなければならない。やはり苦悩は終わらないのだ。しかし、前作とは違う。メノリはいまようやく心の中の頑丈な蓋を開き、希望を確信にしようとしているのだ。不安のなかから覚醒する物語なのだ。これなら前作より気持ちよく読める。
 そして同時に、「竜騎士3部作」では分からなかったパーンの人々の暮らしや社会、問題が徐々に明らかになっていく。世界が複層化してみえてくる。これがシリーズものの楽しみでもある。いいぞ、いいぞ。