プラクティス・エフェクト

プラクティス・エフェクト
THE PRACTICE EFFECT
デイヴィッド・ブリン
1984
 コメディSFというか、スラップスティックSFなのかな。天才物理学者が、時空を超えて異世界をつなぐジーヴァトロンを開発。地球に似た世界とつながることができた。ロボット探査機を送り込んだが、異世界と地球をつなぐ帰還装置が故障。それを修理するために主人公の科学者デニスが送り込まれることとなった。
 その世界が地球と根本的に異なるのは、プラクティス・エフェクト、すなわち「訓練効果」とでも呼べる効果である。道具やモノを適切に使えば使い込むほど、その形状や機能は進化していく。逆に使わずに放置すれば、その機能は退行し、劣化し、崩壊していく。
 そのように書くとP・K・ディックの作品世界を彷彿とさせるが、ディックのように主人公らの世界が崩壊するのではなく、徐々に世界の秘密が明らかになっていくので、主人公自身はしっかりしたものである。また、異世界の人々も、プラクティス・エフェクトは「自然な物理法則」なので、何の不思議も持たない。だから笑えるのである。
 デイヴィッド・ブリンといえば、「スタータイド・ライジング」をはじめ、「知性化」シリーズで有名だが、本書は少し傾向を異にしている。「キルン・ピープル」あたり少し近いかも知れない。
 さて、プラクティス・エフェクト、これいいねえ。何世代も使い込む道具が、すばらしい機能を発揮する。扱いをおろそかにすると、だめになる。ここでは、「道具」で語られているが、本来、人間の「技能」はそういうものでなかろうか。代々知恵と技術を伝承して、その知恵と技術は深められていく。料理でも、山仕事や畑仕事でも、音楽でも、スポーツでも、毎日の継続と練習、訓練で、その技術は高まり、おろそかになれば、ダメになっていく。
 最近、冗談ではなく、やったこともないのに「できる」と思う人や、練習をしていないのに「できる」と思う人を見かけるようになった。もちろん、以前からいたのだろうし、やったこともないことを「できる」人もいるだろう。しかし、傾向として、訓練や練習、とりわけ身体を使った「身体で覚える」ことを厭ったり、ばかにする人が増えているように思えてならない。
 道具は使わなければさびるよ。ホント。
(2010.11)

天空のリング

天空のリング
SINGULARITY’S RING
ポール・メルコ
2008
 地球の周りにはリングがある。人類が建造した最大の構造物。60億人の人類がそこに暮らし、リングのインターフェースによって、人工知能とともに接続した人類全体とつながって「共同体」を形成していた。「相乗的な人間/機会知性」である。その夢のような世界は、やがて悪夢に変わる。接続していなかった地球上に住む人たちとって、リングと接続していた人類は皆死んでしまったのだ。突然に、あっという間に。残された人たちの多くは、彼らが特異点を迎え、海王星軌道のすぐ先に「裂け目」をつくり、そこからどこか遠く、時空の彼方に向かったと考えられていた。
「共同体」が行ってしまった後、世界は混乱し、立ち直るためには長い時間を要した。世界は再び立ち直るが、人工知能を含め、様々な技術が失われていた。その中で、世界の発展の中心を閉めたのが、ポッド達である。ふたりで、3人が組となり、手首のパッドから放出される化学物質の「におい」によって思考や記憶、感情を共有し、「ひとり」の思考体を形成する。ひとつの頭に2つの身体、3つの身体、である。もちろん、ひとりひとりも思考し、感情を持ち、記憶し、行動するが、彼らは近くにいてこそ、真の知性体であり、存在になれるのである。集合知性体である。
 主人公、アポロ・パパドブロスは、この世界でもめずらしい5人組のポッドである。宇宙探査のために特別に集められ、育てられた5人組ポッド達のひとつ。最終選抜期間のまっただ中にあった。
 本書「天空のリング」は、主人公、アポロを構成する5人のそれぞれの「ひとり語り」で物語が語られる。ひとりであり、5人でもあるが故の表現方法。力持ちで優しい大男のストロム、アポロの「言葉」であり、フロント役の女性メダ。世界を数学で見ている女性のクアント、宇宙空間や無重力での作業ができるよう、足が手のように身体改変して生まれた男性のマニュエル、それに、アポロの「心」というか、精神的統一を司る、メダの一卵性双生児モイラ。この5人それぞれの性格と、行動。アポロとしての行動。うーん、深い。
 よくこんなこと考えつくよな。ヴァーナー・ヴィンジの「遠き神々の炎」では、音で共同知性体を構成する犬に似た集合知性体が登場するけれど、それの人間版だ。
(2010.08.25)

ハンターズ・ラン

ハンターズ・ラン
HUNTER’S RUN
ジョージ・R・R・マーティン&ガードナー・ドゾワ&ダニエル・エイブラハム
2007
 人類は宇宙に進出した。ところがどっこい、宇宙は弱肉強食の世界。強力な異星人の助けで、人類は人類が生息可能な惑星への植民を続けてきた。そんな植民星サン・パウロは、入植2世代目に入ったばかりの辺境の惑星。厳しい自然環境の中で多くの者が命を落とし、生活は厳しい。ラモン・エスペポはフリーの探鉱師。未開の地に入って、有望な鉱脈を探すのを生業にしている。数カ月の間、辺境の中の辺境をさまよい、運が良ければ金づるを持って帰ることになる。金を持ち帰れば、王様亭で酒を飲む。喧嘩をする。暴力的な彼女と喧嘩をしては、愛し合う。シンプルかつ悩み多い人生。
 植民星サン・パウロは異様な興奮に包まれていた。人類のパートナーたる異星種族エニェが、その巨大宇宙船団の予定を繰り上げて訪問するというのだ。この植民星を去るたったひとつの手段でもあり、彼らがもたらす様々な交易品などの期待もある。
 そんな喧噪の中で、ラモン・エスペポは、エウロパ人を殺してしまう。なぜ、彼を殺したのか? それすら思い出せない酩酊状態の中で…。
 未開の山に逃亡したところで、植民星サン・パウロに潜む異星種族に捕まってしまう。彼らの秘密を持って逃亡した人類を探せ、というのだ。そのために異星種族のひとりとつながれ、サン・パウロの密林をさまようはめになる。
 ハードボイルド、逃亡劇、そして、SFならではの設定。
 それにしても痛い。作家3人がそろいもそろって主人公に冷たい。いじめて、いじめて、いじめぬく。まるで修行なのか。
 解説にも書かれていたが、マーティンの「フィーバー・ドリーム」にも似た密林の川旅が描かれる。よくよく好きなのだろう。たしかに趣深い。
 本書「ハンターズ・ラン」はもともと1977年にドゾワがアイディアを出し、それをマーティンと共著するつもりでいたが、なかなかうまくいかず、20年ほど放置、その後、エイブラハムが加わって、ようやく完成に至った作品である。30年分のエッセンスがたっぷりつまったこの作品を楽しむといい。
(2010.08.20)

量子宇宙干渉機

量子宇宙干渉機
PATHS TO OTHERWHERE
ジェイムズ・P・ホーガン
1996
 多元世界解釈に基づくパラレルワールドもののSF。と書くと、とても古典に見えるがタイトルは「量子宇宙干渉機」と20世紀後半風。読み方によってはモダンホラーにもなりそう。本書の中に書かれている「現代の21世紀」は、同じくホーガンによる「創世記機械」と同じような世界。全面戦争の危機、政治家、国家、軍による支配。科学者は、自由な科学ができず、政府や軍の指揮下に置かれる。その中で、清く、正しく、美しい、科学が科学であることを信じる主人公の科学者が登場する。正しいことに直情的なところも、「創世記機械」の主人公によく似ている。
 パラレルワールドに精神を一時的に転移できる技術が確立した。似ている世界であれば、わずかだけ違う世界に、ほんのわずかだけ異なる「自分」がいて、その「自分」と精神がすり替わってしまう。その間、「違う世界」の「自分」は存在しなくなる。押し出されるのか、押し込められるのか、転移した側が勝ってしまう。
 全然似ていない世界もある。そこでも、転移することができる。名前や姿が違っていても、「自分」である「類似体」である。もちろん、「類似体」のいない世界もある。そこには転移ができないだけだ。
 全然似ていない「遠い」世界をいくつもさまよううちに、自分の世界よりも恐ろしい世界もあれば、理想的な世界もある。科学者が、自由に自分の思う研究ができる世界。政治や軍が力を持っていない世界。隠し事のない情報がすべて公開される世界。
 もし、転移中に、転移装置に何らかのトラブルがあれば、そのまま精神は転移したままになる。つまり、世界を完全に移動することができるのだ。
 理想の世界を見つけた主人公は、その世界への「脱出」を考える。
 でも、その世界での「自分」はどうなるのだろう。そして、自分の世界を見捨てていいのだろうか。
 ホラーだ。
 相変わらずのホーガン節炸裂。軍は嫌い、秘密主義嫌い、政府の干渉嫌い、放っておいてくれたら、科学者はもっと豊かな研究ができるのに! ってなもんだ。
 そういう単純なところを押しても読ませるのがホーガンの力業。その点、さすがである。
(2010.08.06)

アッチェレランド

アッチェレランド
ACCELERANDO
チャールズ・ストロス
2005
(06年ローカス賞受賞作品)
 途中、読んでいてジョン・C・ライトの「ゴールデン・エイジ」の関連かと勘違いしちゃった。作家違うじゃん。アメリカとイギリスだし。自分に駄目出し。そうか、「シンギュラリティ・スカイ」や「アイアン・サンライズ」の人か。
 内容としては、シンギュラリティもの。インターネットの拡張とソリッドな計算能力の飛躍的向上、集積によって知性の覚醒(自意識の誕生)が起き始める。データ化されたイセエビ達にも、それは起きる。
 知性の覚醒が次々に起き、計算能力が年々飛躍的に向上していく。ある臨界点を超えると、その文明を生み出した人類が理解できない仮想上の知性達が現実に大きな影響を与え始める。それは、スローな生身の知性には理解不能な事態になるだろう。
 それが嫌なら、そして機会が与えられるのならば、あなたもアップロードされればよい。生身ではなく、仮想空間に生きるということだ。アップロードまでいかなくても、その途中段階には、脳の外部拡張など様々な手段が待っているだろう。機会が与えられれば、の話だが。
 さて、時は21世紀はじめ。ひとりのコンサルタントがいる。膨大な情報をかみ砕き、必要な人に、必要なアイディアを授ける。インターネットとリアルの世界で世界を変える結節点になる男マンフレッド・マックス。彼はそれで食べている。しかし、対価をもらうわけではない。アイディアは無償。富を授け、代わりに様々な「お礼」によって生きている。航空会社からは無料のチケット、ある団体からはホテルの宿泊代など。彼はほとんどお金を使わずに世界を旅することができる。そして、彼の動向は、世界のギーク達の知るところにある。情報相互交流こそが彼の源泉だからである。
 彼の願いは、シンギュラリティを起こすこと。世界を変えること。そのために彼は日々、世界を旅する。
 話は変わるが、先日「究極の豆腐」というものを食った。豆腐のこく、大豆の風味がしっかりしていて、実においしかった。よく見ると、豆腐といっても、植物油や大豆抽出物などが入っていて、大豆とにがりでこしらえた「豆腐」ではなかった。もちろん、大豆もにがりも使っているのだから、豆腐2.0といったところかも知れない。本当の豆腐では出せないほどのこくと風味なのである。
 確かに「究極」であろう。豆腐であって、豆腐でなく、豆腐でなくて、豆腐なのである。
 私の五感はこれを「おいしい」と感じ、「豆腐」と感じる。
 でも、この「豆腐」を自分で作ることはできない。
 豆腐の味わいとはなんだろう。品種、水、作り方、場所、気分、空気によって味わいは変わるだろう。「究極」は条件を選ばない。
 つまり、伝統や手作りに基づいた味わいとは、与えられた条件の中の感じ方である。
 2.0とは、条件を解除した場合ということになる。
 問題は、それをよしとするかどうかである。
 生身ならば、何かを食わねばならぬ。
 何かを食うためには、何かを殺す、獲る、育てる、保存するなどなどの行為が必要である。
 自然環境と、歴史と、生理条件とに育まれた文化とその文化によってつくられた自然環境、歴史、生理条件、そして文化。相互に、循環的に変化していきながら、生活文化、生活技術が蓄積される。その技術は、今日の科学技術と違って、空間的汎用性がなく、時間的汎用性はある。つまり、そこでしか使えない技、知恵である。そこまでは、1.0であり、その条件を解除すると、何でもできるようになる。
 味わいだけでない。それは、快感、感情、あるいは幸せな気分までも該当するであろう。
 シンギュラリティがもし起きるとして、私は何を選ぶことができるだろう。
 幸せになれるのに、わざわざ幸せになるかどうか分からない状態を選ぶだろうか?
 そうありたいものだが、どうしたいのだろう。
 そういうことを考えさせる作品であった。基本的には、家族の愛憎の物語なのだけれどね。
(2010年7月24日)