氷上都市の秘宝

氷上都市の秘宝
INFERNAL DEVICES
フィリップ・リーヴ
2005
「移動都市」「略奪都市の黄金」に続く、移動都市シリーズの第三弾。遙かな未来、最終戦争の後、世界は姿を変えてしまった。都市は無数のキャタピラによって移動するようになった。移動都市に変わった理由はひとつ。巨大な都市が、小さな都市を「食い」その資源を奪って都市を維持するようになったからである。
 前作から15年、「氷上都市の秘宝」は、前作までの主人公トムとヘスターの娘レン・ナッツワーシーに話を移す。時は流れ、世代は変わる。トムもヘスターも15年分年を取り、生活も、性格も、心配事も、楽しみも変わっていく。ロストボーイも、15年経てば、15年分年をとる。変わらないものもある、ヘスターのトムへの執着は変わらない。ペニーロイヤルのいい加減さも、もちろん変わらない。
 レン・ナッツワーシーは、世界のことなど知らない。人が15年すると変わり、また、変わらないことも知らない。彼女が知っているのは、自分が住んでいる場所のこと。短い夏、長い冬、せまい世界、世界のすべての人がレンを知っており、世界のすべての人をレンは知っている。小さな小さなコミュニティー都市。動かない都市。アンカレジ。
 学んだ歴史は、言葉だけのこと。世界が争いの絶えない故に、都市が移動している、そんな単純なことも体験に基づかない知識でしかない。だから、知らない。  レンは、知ることになる。
 世界の厳しさを、父と母の物語を。
 レンの物語が、今からはじまる。
 そして、トムとヘスターのもうひとつの物語も。
 21世紀のジュブナイルは、こんな感じなのだろう。
 インターネットや携帯電話といった情報ツールが当たり前になり、地球規模の環境問題や政治、経済問題が、生活に直結することを「実感」できるようになった現在、子どもたちはどこかで一気に世界を知ることが必要になる。物語としてではなく、体験として。
 もちろん、人間の成長とは、知識を得、体験し、経験を蓄え、知恵に転じていくことであり、成長過程で、世界観を変える、あるいは、世界を認識する時期がある。自分と身の回りだけで世界が成り立っているのではなく、世界には、受け手にとって無条件の悪意としか見えない存在や状況も存在する。それを受け止めつつ、世界の一部として存在することを把握する。これは、20世紀でも、19世紀でも変わらない。
 21世紀のジュブナイルの違いはひとつ。確固たる守り手の不在である。主人公である子ども(たち)が、世界観を大きく変えるとき、そこには確固たる守り手が存在する。たいていは大人であり、親であったり、被後見人であることが多い。大人は、その世界にすでに位置を確立しており、ぶれることがない。ゆえに、主人公である子ども(たち)は、物語の最初と最後で自分の変化を確認することができる。しかし、今日の物語では、確固たる守り手すら相対化されてしまう。彼らもまた、変化し、成長し、ぶれ、悩み、決断を繰り返すのだ。主人公である子ども(たち)と何ら変わることはない。年を取り、経験を積んでいるだけで。
 現代の子どもは大変だよなあ。 (2010.05.15)

白鹿亭綺譚

白鹿亭綺譚
TALES FROM THE WHITE HART
アーサー・C・クラーク
1957
 霧の都ロンドン、その裏通り、テームズ川が少しだけ見える場所にパブ白鹿亭がある。毎週水曜日になると常連の科学者や編集者、作家のたぐいが集まり、いつものように誰かの話に耳を傾ける。それは世界中にいるマッドサイエンティストのとっておきのエピソード。音を完璧に消す装置を発明した結果は…、動物の行動をコントロールできるようになると…、脳波を記録する装置は…、究極の軍事コンピュータは…、世界制覇を妄想した科学者は…、熱帯で見つかった奇妙な植物の正体は…などなど。
 歴史の陰に失われていく変わり者の科学者と、その驚くべき発明の数々。
 クラークだけが知っている、地球の科学界の真実。
 SFがユーモアやウィットなどと両立する訳がない!
 だからここに書かれていることは、掛け値なしの真実だ。
 でなければ、SFが荒唐無稽さと両立することを、あのまじめなクラークが証明することになってしまうではないか!
 そんなはずはない。
 断じてない。
 高校の頃だなあ。洗練された連作短編というものを読んで、ため息をついたのは。
 今読んでも、まだおもしろい。
(2010.05.15)

第五惑星の娘たち

第五惑星の娘たち
THE GIRLS FROM PLANET 5
リチャード・ウィルスン
1955
 マレイ・ラインスターの「第五惑星から来た4人」(1959)は、子どもの頃読んだのだが、こちらの「第五惑星の娘たち」は初読である。古本屋さんで入手したのである。読みたかった1冊であった。「第五惑星から来た4人」の方は、未来からの訪問者が、冷戦状況の世界に波紋を投げかける物語であったが、「第五惑星の娘たち」は、宇宙からの来訪者であり、女性の社会進出を「風刺」する物語である。
 舞台は20世紀末、政治、経済をはじめ、あらゆるところで女性が権力を握り、男性の力は衰えていた。そんな風潮を嫌った男たちの一部は、テキサス州を「男の州」として、古き良き、男の時代を生きていた。そこにやってきたのが、「宇宙から来た美女たち」である。
 今、こんな本を出したら、えらいことになるだろうなあ。
 笑えるのが、解説の最後である。翻訳・出版されたのは、1965年。私が生まれた年、45年前。あくまでその当時の話であることを斟酌いただきたいのだが、「考現学的にいうと、日本はだいたい10年遅れてアメリカの流行に追従しているそうだが、もしそうだとすれば、21世紀の初めには、日本にも女性支配の時代、男性の女性か時代が到来するかも知れない。SFファンのみならず、邦家の行く末を案ずる憂国の士にも本書をすすめるゆえんである」とある。そういう時代であった。
(2010.05.10)

宝石世界へ

宝石世界へ
THE JEWELS OF ELSEWHEN
テッド・ホワイト
1967
 中学生の頃に買ったSFのうちの1冊である。
 長時間勤務を終えて家に帰るため地下鉄に乗った中年警官アーサー・フィカラと、傷つき疲れ切った若い娘のキムは、ひょんなことから、別世界の地球に放り込まれる。生き残り、謎を解き、元の世界に帰る。冒険はふたりの間に恋を芽生えさせるには十分であった。
 疲れたとき、傷ついたとき、ここではないどこかへ行きたいと思うことはないだろうか。そういう思いが現実になったとき、人はどうするだろう。ファンタジーの定番なのだが、主人公が中年警官というところがよい。中年と言っても、今の私よりも10歳は年下なのだ。中学生の頃は、この主人公が20歳も年上だったというのにね。
 私はどこを旅しているのだろう。
(2010.05.02)

明日を超える旅

明日を超える旅
JOURNEY BEYOND TOMORROW
ロバート・シェクリイ
1962
 30世紀に残るジョーンズの旅行記の記録である。21世紀、ジョーンズはアメリカ人の両親の仕事で、太平洋上に浮かぶ一小島に育った。その島に他のアメリカ人はおらず、父の死後、父の仕事を太平洋電力会社からの要請で引継、25歳まで働いていたが、事業が停止され、彼は首に。彼は恋人を置いて、アメリカに旅立つこととした。そして、ジョーンズの物語がはじまる。そのタイトルだけでも頼もしい。
 ジョーンズ旅に出ること
 ラムとジョーンズ、会見のこと
 国会調査摘発委員会
 いかにジョーンズは裁かれたか
 ジョーンズとワッツと警官の話
 ジョーンズと三人のトラック運転手
 精神病院でのジョーンズの冒険
 ジョーンズはいかに教え、なにを学んだか
 ユートピアの必要
 いかにしてジョーンズは政府機関の一員となったか
 オクタゴンでの冒険
 ロシアの話
 戦争の話
 いかにしてラムは陸軍に入隊したか
 アメリカからの脱出
 旅路の終わり
 二十世紀がいかにばかばかしいことの連続であったか、軽く楽しませてくれる。
(2010.05.02)