ユービック スクリーンプレイ

ユービック スクリーンプレイ
UBIK THE SCREENPLAY
フィリップ・K・ディック
1985
 1969年に出された「ユービック」に、映画化の話が持ち上がり、ディックが一気に書き上げた「もうひとつのユービック」あるいは、「解題:ユービック」が本書である。ディックの作品は、初期にはストーリー立てが破綻して読みにくく、後期には哲学や精神世界すぎて読みにくいのだが、ちょうどその間に、ちょっと肩の力を抜いて書いてくれると凡人にとてもわかりやすくなる。
 なるほど、こういうことを言いたかったんだ。
 ぜひ、「ユービック」と並べて読みたい1冊である。
 さて、2010年の年末年始に、まとめて「ユービック」「ユービック スクリーンプレイ」を読んだのだが、今はもう3月も半ばである。とても忙しくて「読書感想文」を書く暇がとれなかったのだ。反省。
「ユービック」が邦訳されたのが、昭和53年、1978年。私が買ったのは第4刷で1984年である。人生で一番SFを読んでいた時期かも知れない。「ユービック スクリーンプレイ」は2003年4月に邦訳出版されている。この「読書感想文」をはじめる以前のことである。訳者はどちらも浅倉久志氏。さる2月14日に79歳で亡くなられている。
 早川書房、創元社ともに社告を出し、多くのSF者がブログなどで追悼しているように、浅倉氏の訳がなければ、日本のSFの中興はなかっただろう。読みやすく、翻訳を感じさせない訳。理想である。私の日本語脳の構造に少なからず影響を与えた方である。
 人は死ぬ。しかし、何らかの形で生き続ける。
 ユービック。
 合掌。
(2010.3.22)

ユービック

ユービック
UBIK
フィリップ・K・ディック
1969
「みなさん、一掃セールの時期となりました。当社では、無音、電動のユービック全車を、こんなに大幅に値引きです。そうです、定価表はこの際うっちゃることにしました。そして-忘れないでください。当展示場にあるユービックはすべて、取り扱い上の注意を守って使用された車ばかりです」
 というリードからはじまる本書「ユービック」。
 舞台は、「1992年6月5日の夜」にはじまる。登場人物は、ホリス異能プロダクション所属の超能力者による企業などの被害を防ぐ、ランシター合作社のメンバーたち。超能力を無能力化したり、反能力で防ぐことができるのだ。そして、もうひとつの舞台は、安息所の半生者たち。死んですぐ、冷凍し適切な処置をすることでその脳活動を残すことができる。長いゆるやかな夢のような世界に存在し、時折、現実の遺族から呼び出されてはコミュニケーションをとる。
 ランシター合作社のメンバーは、ある策謀によって事故に巻き込まれる。社長のランシターが死に、メンバーたちは不可解な現象に遭遇する。硬貨の顔がランシターに代わり、タバコが、エレベーターが、どんどん古い物に変わっていく。急速に時代をさかのぼるかのような動きが起きる。現実が、現実を失い、時間をさかのぼっていく。
 そして、ユービック。それは、薬? それはスプレー缶? 何?
 果たして、ランシターは生きているのか? 死んでいるのか?
 果たして、自分たちは生きているのか? 死んでいるのか?
 安息所の半生者というシステムが、彼らに混乱を与えていく。
 疲れ切ったときに読むといい。現実感を失いかけているときに読むといい。今の時代のように、人間のミスや余裕、あそびを許さない中で、殺伐としているときに読むといい。
 現実のあやうさを思い知ることができるから。一度思いっきり現実を解体し、そうして、もう一度現実に戻ってきて、足を地面に踏みしめるといいのだ。
 ユービックは意外と身近なところにころがっている。
(2010.01.14 )

クリスタル・レイン

クリスタル・レイン
CRYSTAL RAIN
トバイアス・S・バッケル
2006
 惑星ナナガダ。農業と漁業と手工業が中心の人類の惑星。ジョン・デブルンは記憶喪失の男。どこから来たのか、何をしていたのか、知るものもおらず、自らも知らず、ただ、特殊な技能を持っていた。彼は、土地の者となり、かつて北に行き、腕を失った。そして、妻と息子と鋼鉄の鉤の左手を得、漁師となり、絵をたしなみ、日々を過ごしていた。この惑星の中心はキャピトルシティ。市長がおり、ラガマフィン隊が町を守っている。敵はウィキッドハイ山脈の向こうにいるアステカ人たち。アステカの生きた神の下、生けにえとなる人間の生きた心臓を捧げる儀式を行う。そのアステカ人の侵入を防いでいるのはマングース隊。戦いは剣と銃と大砲と、船と飛行船。19世紀である。
 カーニバル当日、アステカ人たちが史上空前の大襲撃をはじめた。ジョンははからずも無事だったが、妻子はそれぞれにアステカ人の襲撃に合う。アステカ人たちは首都キャピトルシティをめざして大軍を進める。圧倒的な兵力差と、生きたまま心臓をえぐる残虐さになすすべもないキャピトルシティの人たち…。
 惑星ナナガダにいるのはれっきとした人類。彼らは植民者たちである。アステカの神々は、同じ惑星ナナガダに来た異星人であろう。アステカの神々は、ジョン・デブルンの持つ秘密を持ち帰るよう二重スパイのオアシクトルに命じる。どこからともなく現れ特殊能力を持ったペッパーと名乗る人間もジョンのゆくえを追っている。ペッパーは、ジョンの息子をアステカの侵略から守り、ジョンのゆくえを知る。
 そして、妻子をアステカに殺されたと信じたジョンは、アステカ人に一矢を報いるため、マングース隊隊長で旧知のハイダンに頼まれ、父祖の時代の兵器を求めてふたたび北への船旅に出る。そこには、オアシクトルとペッパーの姿も。
 首都に迫るアステカ軍、ジョンを巡る不可解な動き、父祖の兵器の正体とは。
 ゴシック・スペースオペラというか、破滅後の世界物語というか、新手のスペースファンタジーというか。
フィリップ・リーヴの「移動都市」シリーズや、カール・シュレイダーの「気球世界ヴァーガ」シリーズを思わせる巧妙な設定の世界である。ヴァーチャル世界ではなく、リアル世界設定というところがいいね。
(2009.10.31)

最後の星戦 老人と宇宙3

最後の星戦 老人と宇宙3
THE LAST COLONY
ジョン・スコルジー
2007
 第1作、「老人と宇宙」のジョンが帰ってきた。しかし、彼は緑色をしていない。新しいコロニーで、妻と子とともに平和な日常を送っている。仕事は小さな村の監査官。まあ、もめごとの調整役といったところ。口の汚い秘書のサルヴィトリとのかけあいと、面倒な村人の対応を除けば何事もない。その彼の元に、元の上司がやってきて、別のコロニー開拓を率いて欲しいという。これまで、植民はすべて地球から送られてきた。しかし、植民星が二次植民の権利を求めてきたのだ。とはいえ宇宙の植民星はほぼすべてどこかの異星種族に押さえられており、新たな植民星の発掘や譲渡(奪い取り)は容易ではない。ある異星種族より「譲られた」植民星に10の人類植民星からそれぞれ同数ずつを出してこの譲られた星「ロアノーク」を開拓することとなった。文化も、価値観も、歴史的背景も異なる10の植民星出身者をたばね、成功させること、この政治的にも困難な課題を最高責任者である「行政官」として引き受けさせられ、妻、子とともに、第二のふるさとを離れることになった。
 そうして、頭を痛めながらも移民船に乗ってロアノークに到着したが、そこは、予定されていた「ロアノーク」ではなかった。
 偽ロアノークは、宇宙規模の陰謀、策謀、作戦に巻き込まれ、すべての電子機器を使用禁止に追い込まれる。偽ロアノークの植民者たちとジョンの家族は、偽ロアノークの自然環境、人類の属するコロニー連合、さらには、コロニー連合よりもはるかに強力な異星種族連合であるコンクラーベを相手に生き残ることができるのか?
 ということで、今度は「三国志」みたいなものである。「三国志」のおもしろさは、司令官(王)と将軍たちの個性と知恵比べたる戦略にあるといってもいいだろう。二者関係ならばたいていの場合は大が勝つ。しかし、三者関係になると、一番弱いはずのものが大を覆すことも可能になる。だから「三国」を語る必要があるのだ。コロニー連合とコンクラーベの戦いとして語ればじつにつまらないものになるだろう。力の差が歴然で、お話しにならないのだ。しかし、ジョンとロアノークの存在がそのすべてを変える。
 第1作は、老人版「宇宙の戦士」、第2作は「フランケンシュタイン」というか、SF、怪獣、特撮映画と小説のオンパレード、そうして、第3作は「三国志」。絶妙のストーリー展開、博学、博識、かつマニアックな作者の力量に感銘。
(2009.10.31)

マラコット深海

マラコット深海
THE MARACOT DEEP
コナン・ドイル
1929
 先日、本屋で「マラコット深海」が売られているのを見かけた。手元にあるのは1976年の第38版。初版が1963年である。まだ売り続けられているとすると、いったい第何版なのだろうか。手元の本は、表紙さえないので、いったいいくらで買ったかさえ分からない。薄い本なのでたぶん、200円前後ではなかろうか。中学生の頃だから、安かったから買ったというのが本当のところだろう。コナン・ドイルといえば、シャーロック・ホームズシリーズだが、私はアルセーヌ・ルパン派であったので、読んではいたけれど、ホームズはあまり好きではなかった。そのドイルの作品である。いま、あらためてあとがきを読むと、この「マラコット深海」がドイルの遺作であるという。彼は4冊の空想科学小説を書き残し、このうち「マラコット深海」以外は同じ主人公の作品群である。
 ストーリーは簡単で、未知の世界である深海にマラコット博士と「ぼく」サイアラス・ジェイ・ヘッドリー、それにメカニックのビル・スキャンランの3人が、深海探査船に乗りこんで調査に向かう。巨大なカニのような生物に襲われ、あえなく深海に落ち行く3人。しかし、そこには、かつてアトランティス文明を築いた人たちが生き残って暮らしていたのだ! そこで出会った数々の驚異。そして、その顛末は地上にも伝えられることとなった。
 コナン・ドイルは、第二次世界大戦前夜、大恐慌前夜に亡くなったのだな。夢と希望にあふれている。地球に「未知」があふれていた時代の作品である。
 しかし、本作品が発表されてから80年、私たちは地球のことを分かったような気になっているが、実は深海はまだまだ未知の世界である。海だけでない、月だって知らないことだらけだ。月の裏側に「水」があることはつい先頃確認されたばかりである。簡単に「冒険」はできないけれど、フロンティアはまだあるのだ、そんな気持ちにさせられた。
(2009.10.10)