時間的無限大

時間的無限大
TIMELIKE INFINITY
スティーヴン・バクスター
1992
 この宇宙にはジーリーという超種属がいる。ジーリーを除いては、人類のほか、あまたの知的種属があり、支配、侵略、通商、友好、同盟など、お互いの様々な関係を構築し、ある種属は滅ぼされ、ある種属は忘れ去られていた。
 宇宙に進出した人類は、あっというまに、スクィームという先進種族に発見され、支配されるが、スクィームの支配は長く続かず、人類はスクィームの支配から抜け出し、新たにクワックスに出会う。当初友好と見られていたクワックスだが、再び人類はクワックスに支配され、長きの支配下種属として苦渋の日々を続けていた。
 あるとき、クワックスの目をかいくぐって、一群の人間たちが逃亡する。
 1500年前、宇宙に進出し始めたばかりの人類は、ある実験を行った。それは、ふたつのつながりをもつワームホールのひとつを相対効果が出るように加速し、ひとつを1500年の先に運ぶことで、1500年の時空を結ぶという計画であった。
 その1500年後のワームホールを待って、クワックスもスクィームも、宇宙の牙を何も知らない人類の元に逃亡した未来の人類。しかし、彼らは過去の人類にクワックスの危機を伝えることもせず、木星近傍で独自の計画を持って何かを行っていた。
 はたして彼らの目的は? そして、クワックスは過去の人類まで支配しようと来るのであろうか? ワームホールタイムマシンを計画した天才科学者マイケル・プールが、この謎を解きほぐすために未来の人類に接近する。そこには…。
 ジーリー・クロニクルのはじまり、はじまり、である。マイケル・プールの名前ぐらい覚えて帰ってください。
 本書「時間的無限大」は、当時の最新宇宙論をたっぷりとちりばめたハードSFである。
 宇宙は何次元? ワームホールを使ったタイムマシンは可能? ブラックホールを操れたら何ができる? 観察者問題をつきつめていったら、宇宙はどうなる? みたいなガジェットが満載。楽しいよ。
 それにしても、ジーリーだのヒーチーだの、宇宙には超種属が居て、人類には想像もつかない何かをするのだね。
(2009.08.09)

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを
GOD BLESS YOU, MR.ROSEWATER
カート・ヴォネガット・ジュニア
1965
 そうかあ、本書「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」が書かれたのは私が生まれた年かあ。つまり、今から44年前。読んだのが二十歳の時、1985年。バブル経済直前の大学生である。「逃走論」とか、「ニューアカ」とか、「新人類」とか、なんだか社会全体が浮かれていて、学術方面もかなり浮き浮きしていた、そんな時代である。
 そうすると、こういう作品がもてはやされて、読むことになる。村上春樹や村上龍の時代でもある。ところで、本書にはSF作家「キルゴア・トラウト」が初登場する。キルゴア・トラウトの作品がいくつか紹介されたり、主人公のエリオット・ローズウォーターが、SF大会に酔っぱらって登場し、演説するシーンがある。それをもってSFとすれば、本書はSFであるが、どう考えても、本書「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」はSFではない。でも、早川文庫SFから出ている。なぜなら、カート・ヴォネガット・ジュニアの読者は、カート・ヴォネガット・ジュニアをSF作家として読み、日本ではSF作家として評価されているからである。もし、SF作家として、早川文庫SFから出ていなかったら、本書を読むことはなかったであろう。よかったのか、悪かったのか。
 SFでなければ、ここでいろいろ書き連ねることは、おかしいのだが、カート・ヴォネガット・ジュニアをSF作家として位置づければ、SF作家の作品として書いてもおかしくはない。書かないのも変になるから。
 まあ、そういうことはどうでもいいことに分類されるわけだが、世の中のたいていのことは、どうでもいいことに位置づけられる。たとえば、いま、私は、自宅のメインパソコンがクラッシュしてしまい、なんとかOSを復旧させようとあの手この手を試しつつ、サブのノートパソコンでこれを書いているのだが、もし、パソコンがクラッシュしていなければ、別の仕事をしていたであろうし、別の気分でいられただろう。さらに、どうもハードディスクがクラッシュしているようで、復旧がうまくいかず、OSをクリーンインストールして再構築するか、今はあきらめて新しいハードディスクを購入するかの選択が近づいているような気がしている。
 こんなことは、世の中よく起きていることで、便利になったのだか、不便になったのだか分からない気持ちになるが、総じて言えば便利になったのかも知れない。便利になったからと言って幸福になったのかと言えば、必ずしもそうは言えないわけで、豊かな国日本の国民の何割かは確実に生活が苦しくなっており、あまり日々幸せとは言えない人もいる。それでも、日々笑ったり、泣いたりはしているわけで、人間はどんな状態でも生きていける(はずだ)。
 持つもの、持たざるものに関わりなく、他者と関わりを持つことで、生きていける。大金持ちのエリオット・ローズウォーターは、他者と関わりを持つ何かになりたかった。そういう物語である。SF。ローズウォーター財団というものはおそらく架空の存在だし、SF作家キルゴア・トラウトが誕生した意味では、本書はSFである。そういうことにしておこう。
(2009.08.09)

デューン 砂漠の異端者

デューン 砂漠の異端者
HERETICS OF DUNE
フランク・ハーバート
1984
 1985年、冬。前作「砂丘の神皇帝」が出てから1年後に、デューンシリーズ6編目となる「砂漠の異端者」が翻訳された。レト神皇帝が崩御してから1500年が過ぎた。デューン「砂の惑星」から約5000年の歳月が流れた。既知宇宙の人々は、暴君レトのくびきが取れたかのように広く未知の宇宙を開拓する大離散と、社会的混乱による大飢饉の時代を経ていた。砂の惑星アラキスは、ラキスと呼ばれ、かつてハルコンネン家の惑星であったジェディ・プライムはガムーと呼ばれていた。
 協会(ギルド)、ベネ・ゲゼリット、トライラックス、イックスは健在であり、既知宇宙にはさらに新たな勢力が進出し始めていた。それが、「誇りある女たち」である。彼女らは、大離散から戻ってきた勢力のひとつで、ベネ・ゲゼリットとトライラックスの技術を併せ持つような勢力であった。ラキスの香料メランジを凌駕するトライラックスの人工メランジの存在と、誇りある女たちへの恐怖が、ベネ・ゲゼリットとトライラックスを近づける結果となる。
 一方、ラキスは再び砂の惑星へと戻り、暴君レトのかけらを内包した砂虫がかつてのように砂の海に生きていた。そこに、ひとりの少女が現れる。砂虫とのコミュニケーションを図ることができる娘シーアナである。それはラキスの僧侶たちにより、また、ベネ・ゲゼリットによって予言されていた娘。神の復活の兆しとなる娘であった。
 一方、ベネ・ゲゼリットは暴君レトと同様に、トライラックスよりダンカン・アイダホのゴーラ(クローン)を買い入れ、彼を育てていた。ダンカン・アイダホのゴーラがかつての自らの精神と記憶を取り戻すには、先代レト侯爵とのある会話と緊張状態が必要となる。ベネ・ゲゼリットは、アトレイデの血筋をしっかりと取り入れ、そのための人材までも育てていた。
 暴君レトとベネ・ゲゼリットによって多くの人々の身体、精神能力は5000年前の人たちが想像しないほどに向上し、一部は超人と呼べるほどになっていた。ダンカン・アイダホをめざめさせ、シーアナとつがわせることこそが、ベネ・ゲゼリットの復興の次の目標となっていた。
 そこに立ちはだかる誇りある女たち、さらには、同盟者でもあるトライラックスとの緊張。
 これまでとは異なる物語が、5000年の歴史を背景に今はじまる。
 ということで、前作「砂漠の神皇帝」に続き翻訳され、買って読んだのだが「ふーん、これ誰だっけ? 何が起きていたんだっけ」といった感じで大河ドラマの前を思い出せずに、ダンカン・アイダホの苦悩がよく分からず、出てくる登場人物の位置づけも見えず、放りだした記憶がある。そのためか、自作であり、フランク・ハーバートの最後のデューンシリーズとなった「砂丘の大聖堂」を買うことはなかった。「砂丘の大聖堂」が出た頃は、すでに社会人になっていて、日々ものすごく忙しく、たまに本屋に行っても、その日の気持ち次第でSFを買わずにいることもあった。「砂丘の大聖堂」を見かけたのは、当時広島のバスセンターに併設していたそごうか、バスセンターの中にあった紀伊国屋で、手にとってあらすじを読み、「ま、いいか、前のを読み返さないと分からないし」とそっと戻したのを覚えている。後悔。大後悔。今となってはどうしようもない。
 さらに、「砂丘の大聖堂」後、フランク・ハーバートは亡くなり、息子のブライアンが、今、この続編を書いたそうであるが、日本で翻訳される見込みはない。デューンシリーズを訳していた矢野徹も亡くなり、このまま日本では「デューン」が再評価される日はこないのであろうか。
 もったいない。今読んでもおもしろいのに。
 5000年だよ! しかも、デューンの宇宙史には、書かれていない1万年以上の人類の歴史があるというのに。あああ、誰でもいいからブライアンの続編を訳して。そして、デューンシリーズを一度全部再版して、ね、早川書房様。
 SF滅亡の危機だけど、こういう作品は残していってもらいたいものである。
(2009.08.09)

デューン 砂漠の神皇帝

デューン 砂漠の神皇帝
GOD EMPEROR OF DUNE
フランク・ハーバート
1981
 それが出たとき、私は目を疑った。大学生協の書店にデューンシリーズの第4部となる「砂漠の神皇帝」が並べられていた。それは、慣れ親しんだ石森正太郎のイラストではなく、新しい体裁となっていた。大学1年の冬。ちょうど車の免許を取ろうと教習所に通っていた頃のことである。寒い冬で、私は体調を崩し気味だった。
 当時はまだ下宿していたので、本も実家からそれほど持ってきてはおらず、デューンの1~3部は忘却の彼方にあった。そもそもざる頭の私である。
 おそるおそるページをめくると、そこにはまったく私の知らない砂の惑星が横たわっていた。3500年の時が過ぎ、しかし変わらずレトが皇帝であった。その姿はもはや人間とは言えず、そこに知った顔はいなかった。いや、ただひとり、猜疑心に満ちたダンカン・アイダホだけが時代を超えて、かつてのデューンの記憶をつないでいた。
 読んで、狐につままれたような気分になったことを覚えている。「砂漠の神皇帝」を正当に評価し、楽しく読めるようになったのは、すべてが私の手元にそろい、心落ち着けて「砂の惑星」から順番に読んでからであった。それまでには長い時間が流れた。せいぜい10年か15年ぐらいのことである。
 3500年の未来。そこには緑豊かで、水に困らない、川さえ流れているアラキスがあった。前作「砂丘の子供たち」の最後で、砂鱒との共生を果たし、超人的な能力を得たレトは、正しくポウルの跡を継ぎ皇帝となった。それから3500年。レトは、水の惑星に変わりつつあるアラキスの湿気を厭う砂虫に近づいていた。彼は、ポウルが成し遂げられなかった長期の平和「レトの平和」を作り出し、完璧な神聖独裁を既知宇宙に敷いていた。その権力の柱は、やはり香料メランジである。砂漠をほとんど失ったアラキスで、レト神皇帝が保管し、大公家をはじめ、それぞれの勢力が隠し持っていたメランジを没収し、その分配を行うことによって絶対的な権力を持っていた。同時にレト神皇帝の未来を見る力、レトを神とする女性のみで成り立つ親衛軍フィッシュ・スピーカーの存在が、かつての皇帝軍であるサルダウカーや、ポウルのジハドを起こしたフレーメンをしのぐ恐ろしさがあった。女性ゆえの絶対的帰依と精神的な強さが発揮され、その頂点としてダンカン・アイダホが掲げられていた。何度もゴーラ(クローン)として再生させられ、最初の死の記憶を思い出させられるダンカン・アイダホの存在は、デューン世界へのアンカーとも言える。愛と死と、正義とアトレイデへの忠誠。それこそがダンカン・アイダホ。
 そしてアトレイデ家。神皇帝は、ベネ・ゲゼリット以上に慎重に血統を強化し、アトレイデ家、コリノ家、ハルコンネン家、さらにはダンカン・アイダホの血を混ぜてきた。そうして生まれたアトレイデの官僚こそが、レト神皇帝のもうひとつの力でもあった。
 レトはなぜ3500年もの間、大規模紛争の抑制と人の移動の制約、文化・文明の拡張の規制を続けてきたのか。その偽りの平和をレトは喜んでいたのか? レトは、数々の予言を残す。遠い未来の人類の子孫に対しての言葉を残す。それは、「レトの平和」後に広がる人類の力を予言したものであった。
 レト神皇帝の治世を描く、異色の物語、それが「砂漠の神皇帝」である。
 それにしても、驚いた。
 まあ、注意深く「砂丘の子供たち」を読んでおけば、こうなることは予言されていたのだが、フランク・ハーバートは最初からこういう物語を考えていたのだろうか? フレーメンの聖なる希望であった緑と水の惑星となったアラキスは、しかし、フレーメンにとってのユートピアとはならなかった。もはやフレーメンすら死語であり、レト神皇帝によって「博物館フレーメン」としてその形をわずかに残すのみである。変わり果てた登場人物たち。しかし、それぞれに動機があり、愛があり、死がある。世界と個人の関わりがある。やはりデューンである。
(2009.08.05)

デューン砂丘の子供たち

デューン砂丘の子供たち
CHILDREN OF DUNE
フランク・ハーバート
1976
「デューン」初期3部作の第3作目である「砂丘の子供たち」。そのタイトル通り、ムアドディブのふたりの子どもが主人公となる。父レトの名をもらったレトと、双子の娘ガニア。物語は、前作から9年が過ぎた。ふたりの子どもたちは9歳となるが、生まれながらに過去の彼らの血統にいるすべての人たちの人生と記憶を持つベネ・ゲゼリットの言う「忌まわしき者」またはレトをしてクイサッツ・ハデラッハ、ガニマをして生まれながらの教母としていた。砂漠へ去り、死んだと思われるムアドディブに変わって、折衝として統治を行うのは、ムアドディブの妹であるエイリア。クローンとして生まれ変わるとともに、ある特殊なきっかけによって死までの記憶を取り戻したゴーラであり、メンタートであるダンカン・アイダホを夫とし、古き良きフレーメンの指導者であるスティルガーを側近としながらエイリアは統治者として振る舞っていた。
 しかし、エイリアは、魔女集団ベネ・ゲゼリットが恐れていたとおりの「忌まわしき者」となりつつあった。「忌まわしき者」それは、過去の記憶的存在であるものに支配された肉体のこと。過去の血統の記憶的存在を、その声を、叫びを、ささやきをコントロールし、自らを律することができなくなったもの。そんな「忌まわしき者」の統治をベネ・ゲゼリットは恐怖していた。ベネ・ゲゼリットだけではない。フレーメンだった者たちが、フレーメンのジハドにより信仰と服従を求められた既知宇宙の者たちが、アトレイデ家に恨みを抱き、その治世の転覆を願っていた。そして、追放された皇帝シャッダムの孫ファラドウンをしてコリノ家の復活を、ベネ・ゲゼリットの復興を、旧体制を取り戻す陰謀が進行していた。
 一方、エイリアもまた、自らの内なる声により子どもたちを使っての陰謀を企んでいた。
 スティルガーは、フレーメンの誇りとムアドディブへの誓約をもって、ダンカン・アイダホはアトレイデ家に対する忠誠をもって、すべての陰謀からふたりの子どもたちを守ろうとしていた。
 だが、誰も、レトとガニマを真に理解してはいなかった。彼らは、彼らを利用しよう、守ろう、殺そうとする人々とは違う、彼ら自身の計画を持っていた。それは、ムアドディブがなそうとしてできなかったことであり、人類の未来を賭したものであった。
 かくして、デューン「砂の惑星」「砂漠の救世主」「砂丘の子供たち」は、ポウル・ムアドディブ・アトレイデの父レト公爵の死にはじまり、息子レトの決断によって幕を下ろす。ハルコンネン男爵の陰謀によって幕を開け、ハルコンネンの陰をもって幕が下りる。
 3つの作品のうちで、ダンカン・アイダホの死と再生と再びの死が語られる。
 数多くの複線を残しながら、物語はここでひとつの終結を見た。
「砂丘の子供たち」三部作の最後は、昭和54年1月に10日違いで連続して刊行されている。1979年のことである。中学校2年生から3年生になるころのことであった。当時は、もう何のことやらである。あらすじを追っていたに過ぎないような気がする。最後の方は、何が起きているのかさっぱりである。買ったけど、「砂の惑星」のようなインパクトはなかった。ひとつ言えるとすれば、「あ、ムアドディブ、死んでいなかったんだ」ぐらいのものである。まだ、愛憎のなんたるかも知らない14歳の冬であった。
 その後、おそらく高校生の頃に1度読み直しているはずである。
 次に「デューン」に再開するのは、大学1年生の冬。「砂漠の神皇帝」が突如目の前に表れた時である。学生ぼけですっかり「デューン三部作」のストーリーを忘れていた私の前に、皇帝レトが姿を見せ、三部作でなじんでいた石森章太郎(当時ノは入っていない)イラストではないことに驚かされた。その話は、「神皇帝」にて。
(2009.08.02)