楽園の泉

楽園の泉
THE FOUNTAINS OF PARADISE
アーサー・C・クラーク
1979
「軌道エレベーター」を地球上につくるためには何が必要だろう。もし、事故があったとき、その事故を最小に防ぐにはどうしたらいいだろう。果たして、地球に軌道エレベーターをつくることは価値があるのだろうか?
 すでにSFの基本アイテムとなった「軌道エレベーター」について、そのアイディアと現実感をはじめてきちんと形にしたのが本書「楽園の泉」である。もうひとつ、チャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」が同じ年に発表され、邦訳もされているが残念ながら私は読んでいない。
 もはや日本のアニメでもおなじみになっており、多くの人に概念だけは知られるようになったと思う。現実には、素材だけでなく、軌道上の人工衛星の問題や設置場所、環境影響、事故などのリスクの大きさから「近未来」というわけにはいかないであろう。ただ、重力の井戸の底から毎度毎度大きなエネルギーをかけて大気圏外の軌道上に出るというのは実にしんどい話であり、理屈としてはスマートである。
 さて、本書「楽園の泉」は、まさしく軌道エレベーターをつくるだけの作品である。主な舞台は22世紀中葉。建設場所は、現実よりはちょっと位置が変わっているスリランカの霊峰である。本書では、クラークらしく科学と宗教について語られたり、地球外文明との接触、地球温暖化による影響なども盛り込まれ、楽しく読めるよう工夫が凝らされている。
 本書「楽園の泉」の舞台となるスリパーダ、ヤッカガラの山肌を僧侶が裸足で歩く姿は、とても美しい。クラークはこの美しさと破壊の美しさをどのように頭の中で整理しているのだろう。
 それにしても、軌道エレベーター物語は、それで完結してもよかったのではないかと思う。どうして、地球外文明との接触についても語ってしまったのだろう。クラークだからとしか言いようがない。
(2008.09.30)

ディファレンス・エンジン

ディファレンス・エンジン
THE DIFFERENCE ENGINE
ウィリアム・ギブスン&ブルース・スターリング
1991
 霧の都・ロンドン。産業革命によって生まれ変わったロンドンは、世界の中心として科学技術と陰謀と希望と絶望のうずまく街であった。私たちが知っている歴史の教科書とは違う、もうひとつのロンドン。私たちが思っている以上に現代に近く、現代に連なる過去。本書「ディファレンス・エンジン」は1855年の回想にはじまり、出版された1991年に真の幕を開ける作品である。  スチーム・パンク。
 80年代、SFはサイバーパンクの時代を迎えた。インターネット社会の先にある外挿された未来をサイバーパンクの旗手たちは縦横無尽に旅し、我々読者の前に提示した。人が、社会が、世界が変容する近未来。現在の延長上にある理解しやすく、想像しがたい世界。その提示に、人々は熱狂し、やがて来るべき、明るくも暗くもないただの世界をかいま見た。しかし、サイバーパンクの旗手たちは、それで満足してはいなかった。むしろ、不満だったのだろう。提示された人と社会の変容について、読者は深く考えず、むしろガジェットや文体に魅力を感じているのではないかと。
 そうして、ギブスンとスターリングは、もうひとつのサイバーパンクを思いつく。それが、スチーム・パンクである。
 人と社会の変容とは、実は現在の現実のことなのである。それは組み換えられ、再構成され、分解され、よどみ、流れつつ、そこにある。そのことを知らしめるべく、彼らは過去に介入をはじめた。
 蒸気機関でできたコンピュータが紡ぎ出す私たちの社会と良く似た違っている世界。
 私は、そこでどんな生活をしているだろうか?
 私は、イギリスやヨーロッパの近代史をよく知らない。そのために、どこまでが私たちの知る歴史で、どこからがもうひとつの歴史なのかが分からない。それだけに、おもしろさは半減しているのだろう。本書「ディファレンス・エンジン」をちゃんと読もうと思うならば、まず、ヨーロッパ産業革命期の歴史を学ぶところからはじめなければならない。
 迫ってくるなあ。だから避けていたんだ。スチーム・パンクを読むのは。
(2008.09.28)

過ぎ去りし日々の光

過ぎ去りし日々の光
THE LIGHT OF OTHER DAYS
アーサー・C・クラーク&スティーヴン・バクスター
2000
 ISS(国際宇宙ステーション)は、老朽化したスペースシャトルと衝突したあと2010年に放棄された。宇宙開発は停滞していた。2033年、小惑星にがよもぎが発見される。同時に500年後、地球に衝突することが確認された。すでに、地球温暖化による気候変動がはじまっており、人類は不安とあきらめと、雑然とした享楽の中に生きていた。
 数年後、アワワールド社社主のハイラム・パターソンはそんな時代に画期的な発明を行った。ワームホールによる遠隔地の映像情報の取得である。タイムラグなし、相手側の送信装置なし。ただ「ワームカム」装置に向かい、座標を検索し、特定し、追尾するだけ。秘密やプライバシー、かくしごと、はかりごとのすべてがこのときより無と化した。
 その情報を最初にかぎつけたのがFBIであり、最初の大口顧客となったのがアメリカ政府であることは何の不思議もない。
 やがて、ワームカムは人々に知られることとなり、装置は小型化し、パーソナルコンピュータのように普及していく。世界が、人類の価値観が変わっていく。
 そうして、ワームホールとワームカムの技術開発はよりすすめられ、やがては「過去」を見ることが可能になっていく。時間と空間はワームホールにとっては特に差のあるものではない。未来を見ることはできなくとも、過去を見ることは可能になっていく。それもまた世界を、人類の価値観を変えるものになる。
 あらゆることが観察可能になったら?
 あらゆることが現在および過去に向かって観察可能になったら?
 このふたつの技術的外挿と、「500年後に地球がなくなるとわかったら」という社会条件の外挿。
 それが、本書「過ぎ去りし日々の光」である。
 アーサー・C・クラークらしい、率直な技術の革新と社会の変化。
 スティーヴン・バクスターらしい、壮大な人類の変化。
 まったくの古典SFである。だから、安心して読める。そして、安心していろんなことを考えることができる。
 サイバーパンクではなくても、近未来の人類の変化を書くことができるのである。
 あらゆることが観察可能になったら?
 あらゆることが現在および過去に向かって観察可能になったら?
 さて、あなたは何を見つけに行くだろうか?
 500年後、あなたが死んだ後のそう遠くない未来に地球の生態系が完全に破滅すると分かったら?
 さて、あなたは何をするだろうか?
 インターネットや携帯電話(情報端末)の普及による過去10年の変化と、今行っていることをふまえながら、想像してみたい。
(2008.09.08)

第七の封印

第七の封印
WYRMS
オースン・スコット・カード
1987
 昔ながらの古本屋さんを見かけると、ちょっとだけ立ち寄って、何か掘り出し物がないかどうか探してみる。3冊100円というコーナーに古びた本書「第七の封印」をみつけた。カードの作品は「エンダーのゲーム」シリーズのほかは、一部しか読んでいない。オースン・スコット・カードの宗教観が強く出てくると読みづらい気持ちになるからである。本書の邦題は「第七の封印」。もろ宗教的タイトルである。そこで敬遠していたのだが、1冊だけハヤカワSF文庫が棚で日に当たっていたので、ついつい救済してしまった。ほかに選ぶものもなく、1冊だけを買い求めると、「1冊でも100円」とのこと。黙って100円を支払う。
 さて、原題は「WYRMS」。読み終わってから調べてみたのだが、古い言葉で、虫、大きな芋虫のような虫、ドラゴン、大きな蛇みたいな意味があるらしい。「ワーム」の古い綴りのようなものかもしれないが、ドラゴンと訳してある物もあった。このあたり、語感と語彙に日本語とのずれがあって悩ましい。「WYRMS」が訳しにくい単語でもあるし、邦題を「第七の封印」とつけた気持ちは分かるのだが、もし、「WYRMS」に該当する日本語があって、それが邦題になっていたら、もっと理解しやすい作品であっただろうし、宗教的だ!と構えることもなかったかもしれない。私がタイトルに先入観を持ちすぎるのかも知れないが。実際、カードの宗教観がたっぷり入っている作品であることは間違いないが、読んでおもしろかったのも事実。
 さて、昔々遠い昔のこと、宇宙船コンケプトアン号に乗った人類が惑星イマキュラータに降り立った。伝説によると、船長が狂ってしまったという。惑星イマキュラータはとても変わった惑星であったが、鉄などの金属がほとんど採れなかった。人類はそこで生き延び、国をなし、古来人類の宗教が移ろいながらも、人々は宗教心篤く生き、惑星の生態系を変え、繁栄していった。
 国は王国となり、あるときは統一され、あるときはいくつもの国に分かれ、それでも人々は生きていた。ピース卿は大国・七国王のオルクに仕える外交官/暗殺者である。しかし、彼の父はかつての王であり、オルク王はピース卿の父を暗殺して王になった男であった。オルク王は、その才覚によりピース卿を殺すより手元に置いておく方が国の安定になることを知っていた。ピース卿には、13歳の娘ペイシェンスがいた。ペイシェンスもまた、その忠誠を常に疑われながらも、父のピース卿とともに外交官/暗殺者としてオルク王に仕えていた。
 しかし、ペイシェンスは、正当な王の後継として、また、伝説の宗教的救い主であるクリストスを生むべく約束された「第七かける七かける七代の娘」として多くの人々の隠れた信仰と敬愛の対象でもあった。
 ピース卿の死によって、ペイシェンスは自らの運命と立ち向かうこととなる。343世代前に予言された彼女の運命とはなんなのか?真実なのか? オルク王の刺客から逃れ、ペイシェンスは自らの運命と立ち向かうために惑星イマキュラータを旅し、すべての秘密の源であるクラニングスに向かうこととなる。旅の途中で人間や亜人間の連れを見つけ、やがて彼女は惑星に隠された大きな秘密と罪に向き合うこととなった。
 この惑星イマキュラータは実に不思議な惑星である。人類が持ち込んだ動植物やもともとイマキュラータにいたと目される動植物は、その動植物を研究し、観察するものの意志によって自ら品種改良していくのである。その不思議な交感の原因は不明なままに、まるで人類をイマキュラータが迎え入れてくれるような状況に人々は慣れていた。すでに、343世代、数千年が過ぎており、人類の知恵や知識は惑星イマキュラータの現実に沿った形で変わっていたのである。しかし、この惑星イマキュラータの生態系と動植物の変異こそが、大いなる秘密であった。
 ペイシェンスの旅は、この秘密を解き明かし、人類と惑星イマキュラータが真に合一するためのものであった。惑星イマキュラータの秘密とは、人類が抱えてしまった業とは?
 本書「第七の封印」と同時期に書かれたカードの作品に「死者の代弁者」(1986)がある。「エンダーのゲーム」の直接の続編であり、エンダーが成長し、生きるために必要な場所を探す旅に出る。ここで、カードは惑星ルジタニアを登場させ、そこのきわめて種類の少ない生物群でできた惑星生態系と、その惑星の生命と人類のコミュニケーションについての物語を書き表した。
 本書「第七の封印」はもうひとつの「死者の代弁者」である。もしかしたら、惑星イマキュラータにエンダーが行くことになったかも知れない。もちろん、惑星ルジタニアの生命や生態系と、惑星イマキュラータのそれは大きく異なっているが、人類と非人類および惑星生態系との対話=コミュニケーションのあり方はとても近いものを感じる。
 そこで語られているのは、人類と他の生命体や生態系との対話の可能性である。
 このふたつの作品「死者の代弁者」と「第七の封印」はいずれもカードの倫理観、宗教観が強く出ている作品である。しかし、だからといって作品としての価値を減じるものではない。ここに描かれたふたつの惑星のふたつの生命のあり方は、まさしくセンス・オブ・ワンダーである。「エンダーのゲーム」を読み、「死者の代弁者」「ゼノサイド」と進んだ人は、私のように先入観で敬遠することなく本書「第七の封印」にも手を伸ばしてみて欲しい。
(2008.09.08)

遙かなる地球の歌

遙かなる地球の歌
THE SONGS OF DISTANT EARTH
アーサー・C・クラーク
1986
 2008年、地球上のすべての政府に渡された「太陽系内反応についての若干の覚え書」は、太陽系の終わりを予言する科学報告であった。太陽の内部に変調があるという。世界の終わりは、すくなくとも1000年後と予想された。
2553年、人類は最初の播種宇宙船を宇宙に出す。ロボットと凍結胎児、慎重に選択された人類のライブラリや生物を乗せた船である。2786年、アルファ・ケンタウリAの惑星から最初の播種計画から成功のシグナルが到着する。20隻以上の播種船が様々な太陽系を目指していった。その後、2700年には凍結胎児ではなく遺伝情報と各種装置、ロボットを運ぶようになった。その惑星のひとつ水と島の惑星サラッサでは、人類の末裔たちが自ら新たな社会を築き日々の暮らしを過ごしていた。限られた陸地を最大限有効に活用するため、自ら人口規制を敷いて人類の生存を確実にするため生きる人々。その歴史は700年になる。
 その惑星サラッサに、恒星船が到着する。知的生命体とのファーストコンタクトの相手は、地球からやってきた人類であった。
 3500年、太陽系最後の日を近くに迎え、人類は最後の科学技術的ブレークスルーに間に合い、量子駆動を実現し、近光速船の実用化と冷凍睡眠の技術を手に入れた。
 3600年代になり、恒星船による人類の最後の大移住がはじまる。それは本当になんとか間に合ったのであった。彼らは、太陽系外から太陽系の最後の日を目にし、新たな惑星を目指してサラッサに立ち寄ったのである。
 同じ人類でありながら、ふたつの異なる道を歩んできたサラッサ人と最後の地球人たちの日々が、クラークの優しい筆致で描かれる。
 美しい海を生きるサラッサ人は、クラークにとっての理想の人々なのかも知れない。
 クラークが、チャールズ・シェフィールドの「マッカンドルー航宙記」(1983)で登場した量子駆動を受けて、恒星間ラムシップの可能性を広げたのが本書「遙かなる地球の歌」である。いよいよ、人類は科学的な理論をベースにして限りなく光速に近づくアイディアを手に入れたのである。
 そうそう、先頃読んだ「量子真空」(アレステア・レナルズ 2002)も、ほぼ光速まで近づいていた。「第二創世記」(ドナルド・モフィット 1986)も、同じ方法で銀河系をまたいでいたなあ。
 私たちの細部には、私たちが制御できない信じられないエネルギーが波打っているのだ。
 そして、私たちのはるかに広く大きな時空では信じられないエネルギーが激しくうごめいている。
 その間にいる私たち。そして物質の構造体としての人間。不思議ねえ。
 海の波音でも聞きに行こうかしら。
(2008.08.24)