言の葉の樹

言の葉の樹
THE TELLING
アーシュラ・K・ル・グィン
2000
 美しい物語である。ル・グィンの「ハイニッシュユニバース」シリーズに属し、2000年に発表された「言の葉の樹」は、文化/言語をテーマにした文化人類学的考察に満ちた作品であり、心洗われる佳作である。
 舞台は、惑星アカと惑星地球。主人公はインド系カナダ人で宇宙連合体エクーメンの調査員として惑星アカに滞在する女性サティ。
 サティが育った頃、地球では神政主義政府ユニオンによる全地球規模の思想統制の時代が続いてきた。エクーメンから地球育ちの使節ダルズルが送られ、ダルズルを神聖視したユニオンの指導者たちは、ダルズル=神の命を受けてユニオンを解体しかつてのような地域ごとの民主主義的政治体制に戻ったが、ダルズルを神聖視する限り、世界にはダルズル/反ダルズルの争いが終わることはなかった。それは、思想統制の反動であるかも知れない。そんな混沌の地球で生まれ育ったサティは、エクーメンの調査員/使節として宇宙を飛び回ることを夢見て育ち、それを現実にした。
 そうして、惑星アカに派遣された。しかし、その惑星アカは、エクーメンとの接触によって、それまでの言語、文化、習俗をすべて否定し、アカ人たちが宇宙に進出することだけを至上命題とする科学技術信奉の独裁企業的政治体制となっていた。サティにとって、それはユニオンを彷彿とさせるものであったが、より徹底し、アカ人は本を焼き、言語を変えていた。
 エクーメンの教育機関から惑星アカまでの旅の間にサティは惑星アカの言葉、文化を、文献ベースで覚え、話すことができるようになっていた。しかし、その言葉を話す者はおらず、その習俗を体験することさえできない。「こんにちは」「ありがとう」さえも違うのである。あたかも、異星人であるサティだけがもともとの惑星アカの言葉や文化を知る唯一の存在であるかのような気持ちにさえさせられる。
 そのサティに、それまで許されなかった高地源流地域オクザト-オズカトでの調査が許されることになった。辺境にいけば、もしかするとかつての言葉や文化の片鱗を知ることができるかもしれない。サティの心は躍った。
 そうして、サティはオクザト-オズカトの人々に出会い、白く塗りつぶされた壁の下に浮かぶ象形文字を発見し、それを読める自分に気づき、出会った人々の導きによって惑星アカの「語り」の秘密を少しずつ学ぶことになる。それは、サティのそれまでの人生とそれからの人生を変えていった。
 私たちは道具としての言葉を使う。日本語、英語、中国語、スペイン語、ポルトガル語、トルコ語、ドイツ語、ヒンドゥー語、ウルドゥー語、韓国語、朝鮮語、インドネシア語、マレー語、フィリピノ語、タガログ語、イロンゴ語…。言葉は単独では生じない。たとえば、インドネシア語とマレー語はきわめて近い類縁関係にある。インドネシア語は、マレー語をベースにして建国時に作られた言葉である。フィリピノ語もそうである。スペイン、アメリカの影響を受け、地理的には中国、マレー系の影響を受けた諸島国家フィリピンは、ルソン島のタガログ語をベースにフィリピノ語を共通語にしているが、島ごとにさまざまな言葉がある。国に共通語があったとしても、山ごと、集落ごと、あるいは地域ごとに言葉が異なり、意思の疎通を難しくしている「国」はたくさんある。日本国では日本語が共通語となっているが、それも、中国、朝鮮、東南アジア等の影響を受けながら独自に発展し、形成されてきた言葉であり、歴史の中で汎用化されてきた言葉である。現在でも、地方ごとに「方言」があり、単語の意味や用途はそれぞれの文化で違いを持つ。
 言葉はコミュニケーションの道具であると同時に、思考の前提となる。思考の限界を形作るものと言ってもいい。使う人がいなければ言葉は死ぬが、言葉を使う相手がいなければ言葉は意味をなさなくなる。言葉とははかなく、美しく、恐ろしく、大切なものである。
 ル・グィンは言葉とその背景にある人/文化/社会のあり方についてSFやファンタジーの手法を使って人々に視点や視座を提示してきたが、本書「言の葉の樹」はタイトルそのままにテーマを取り上げ、わかりやすく解きほぐしている。
 よくわからないままの憎しみや断絶ばかりを経験している現代において、本書の提示する意味はとても大きい。人は、言葉を交わす限り、コミュニケーションできるのである。相手の言葉を知る、そこからしかコミュニケーションは進まないのである。
 多くの人に読んで欲しい作品である。
ローカス賞受賞
(2007.12.24)

銀河遊撃隊

銀河遊撃隊
STAR SMASHERS OF THE GALAXY RANGERS
ハリイ・ハリスン
1973
「宇宙兵ブルース」のハリイ・ハリスンがお送りする、スペースオペラの一大傑作が、本書「銀河遊撃隊」である。「スカイラークシリーズ」をしのぐ知性と行動力に満ちた主人公たち! 信じられないほどの新たな発見で宇宙に飛び出し、ベムを退治し、美女を救い、虐げられた異星人を救出する正義! 「レンズマンシリーズ」をしのぐ宇宙戦争の数々。正義と悪の真の決着をつけるときが来た! 宇宙に生まれたのは「銀河遊撃隊」。その驚くべき兵力、戦力をもっても戦えないほどの強大な力に、宇宙的知性が、宇宙的能力を使って銀河遊撃隊をサポート、そして悪は葬り去られるのである!
 わずか1冊で、スカイラークシリーズ、レンズマンシリーズばかりではなく、あらゆるスペースオペラのすべてを読み通すことができるすばらしい作品が、本書「銀河遊撃隊」である。
 それだけではない。今まで秘密とされていたスペースオペラの真実がすべて明らかにされている。なぜ、異星人は英語を話すことができるのか? どうやって氷詰めになった美女は復活するのか? 大発見はどうやって行われるのか! 業界がこれまで明かさなかった真実がそこにある。
 1973年、ウォーターゲート事件に代表されるように、世界の真実を暴くことが求められていた時代だからこそ世に出ることができた作品である。
 あまりにもすごい作品であるが故に、そのほかのスペースオペラ作品群が売れなくなることを危惧し、出版社は絶版を決意! それでも、昭和55年に初版を発行し、昭和60年には6刷を数えてしまった。今や、まぼろしの作品として手に取るのも危険視されている禁断の書でもある。
 私はある収集家が誤って氏の収集作品(整理番号がマジックで記入されていた)ものが、大手の古書店に流れ、あまつさえその危険性に気づかなかった古書店員が100円+消費税にて放出していたのを発見し、震える手で購入したのである。
 ところが、である。2005年に、表紙を変えて再版されているのである。表紙には現代的な若い娘さんの絵が描かれている。作品紹介は、「傑作ユーモア・スペースオペラ」としている。なるほど、そういうかわしかたがあったか。真実を冗談として隠す手法は今に始まったことではない。まして、時代は1970年代以上に真実を隠しやすくなっている。大量の情報を流すことによって、情報の質を相対的に低下させ、散逸させるのである。
 危険な作品である。心して手にするように。
(2007.12.8)

所有せざる人々

所有せざる人々
THE DISPOSSESSED
アーシュラ・K・ル・グィン
1974
 ハイニッシュ・ユニバース。ル・グィンが紡ぎ出した宇宙。かつて宇宙航行種属だったハイン人は様々な惑星に植民していた。しかし、ハイン人は一度衰退し、その間に植民惑星の種族達は惑星に適応し、それぞれの歴史を紡いでいた。地球人もまたハイン人の末裔であった。やがてハイン人は復興し、ゆるやかな貿易と種族間の交流がはじまる。そうしているうちにハイニッシュ・ユニバースを特徴づける新たな技術が誕生する。その名はアンシブル通信。どんなに物理的に離れていても即時に通信できるシステムである。
 本書「所有せざる人々」は、そのアンシブル通信が生まれる前の時代、恒星タウ・セティの二重惑星ウラスとアナレスを舞台にした物語である。
 ウラス人たちは、ちょうど20世紀の地球と同じような社会体制にあった。超大国と小国、資本主義を中心とした貧富の格差の大きな社会である。それを嫌い、限りない自由を求めた人達は、オドー主義者としてアナーキスト革命を起こし、荒涼とし、わずかな食料生産方法と鉱物資源しかもたない月「アナレス」への移住を達成した。言語を変え、貨幣を捨て、政府を認めず、厳しい生活環境の中で独自の社会を作った。そうして世代が過ぎ、ひとりの男が生まれた。
 その男、アナレス人物理学者シェヴェックが「所有せざる人々」の主人公である。彼は、若い頃から時間と空間に関する物理学について天才的な才能とカリスマ的な人間的魅力を持ち育ってきた。しかし、アナレスが当初目的としたオドー主義から離れつつあることに危機感を持ち、また、自らの理論を完成させるための研究資料を求めて、彼はアナレス人としてははじめてウラスを訪問することとなった。アナレス人シェヴェックの目からみるウラスの社会、人の異質さと共通点。そして、アナレスで感じ続けてきた違和感と安心感。時間軸をウラスの今と、ウラスに至るまでのアナレスでのシェヴェックの幼少からの歴史を交互に描きながら、ふたつの社会とひとりの人間を描き出そうとする。
 シェヴェックの哲学を一言で表するならば「苦悩こそが人々を結束させる」である。愛ではない、苦悩である。愛は憎しみに変わることもあるが、苦悩は、苦痛は人々にあまねく共通する。
 本書「所有せざる人々」は、ベトナム戦争でアメリカが撤退し(1973)、第四次中東戦争などでオイルショックが起こり、ウォーターゲート事件でニクソン大統領が退陣(1974)の時代に書かれ、発表されている。二十世紀社会の価値観がゆらぎ、第二次世界大戦を通じて確立したかのように思われた社会のあり方、家族のあり方、性のあり方が、もう一度ゆらぎはじめたときに発表された作品である。その視点の鋭さゆえに、各方面から批評され、深読みされたという。本書「所有せざる人々」は、SFというジャンルの持つ力を存分に発揮し、社会に影響を与えた作品のひとつであろう。それが作者の意図であろうとなかろうと、この作品は一人歩きをした。
 さて、二十一世紀を迎え、本書が発表されてから30年以上経った。
 シェヴェックが喝破した苦悩を人々は見ないようするふりが得意になったようである。結束したくないから見ないようにしているのか、苦悩そのものを否定したいのか。そう言っている私も苦悩から逃れよう、逃れようという意識ばかりが先に立つようになっているのだが。
 本書「所有せざる人々」で描かれるシェヴェックの物語は、共感する、しないにかかわらず、なにがしかの影響を読む者に与えるであろう。その物語の力は、今も決して古くない。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞作品
(2007.12.8)

火星の長城

火星の長城
GALACTIC NORTH and DIAMOND DOGS, TURQUOISE DAYS
アレステア・レナルズ
2002,2006
アレステア・レナルズの短編集、「レヴェレーション・スペース1 火星の長城」である。レナルズといえば、「啓示空間」「カズムシティ」の、長大長編2作品が先に翻訳され、弁当箱SF作家としてSF読みの手首を鍛えてくれている。とにかく長くて本筋を忘れそうになる長編であり、プロットやアイディアはおもしろいのに読み通すのが大変という困ったエンターテイメントSF作品である。なにぶんにも、終わり近くなるまでどこにストーリーを持って行こうとしているのかが分からないのである。どう読んだらいいのかが分からないのだ。きっと単純に字面を頭の中で絵に変えて楽しめばいいのだろう。評価はまっぷたつに分かれ、かのSF読みである吾妻ひでお氏は一刀両断に切り捨てておられた。私は時間つぶし作品としてそこそこの評価をしているが、正直なところ、本書「火星の長城」は買うまでに時間がかかり、買ってから読むまでも時間がかかってしまった。レナルズにおびえていたのかも知れない。
 ところが、である。レナルズは短編向きの作家ではないのか? おもしろいじゃないか。
「啓示空間」「カズムシティ」と同じ宇宙史であるが、本作品の最後(時系列としても最後)に収録されている「ダイヤモンドの犬」(2001.08)がイエローストーン星の融合疫前後の時代を扱っていることをのぞけば、上記2作品と直接のつながりはない。登場人物も別である。ひとつひとつの作品は、限られた登場人物で主人公もはっきりしており、主人公の苦難や報われぬ想いなどをそれぞれの宇宙史的舞台の上でていねいに書いている。しかも、中短編なのでぶれがない。導入でいきなり舞台設定に飲み込まれ、展開に次ぐ展開の上で最後にきれいな、時に悲しいオチがある。すっと物語の終わりと予感を感じさせてくれる。読んでいて気持ちがいい。この短編を一通り読んでから、短編の宇宙史の延長上にある長編として「啓示空間」や「カズムシティ」を読めば、もっと読み手としての視点も定まってこれら作品を読めたかも知れない。それくらい、短編としておもしろいのである。
 人類は、宇宙進出の過程で3つの大きな種属に分かれつつある。連接脳派、ウルトラ族、無政府民主主義者である。まず、脳にインプラントを埋め込み、埋め込んだ人々の間で精神をネットワークさせて超精神の大きなひとつの生命体のような生き方を選んだ連接脳派が生まれる。それに対し、地球では保守的な純粋精神連合が彼らと対立し一度は連接脳派が火星の居留地に行動を制限されてしまう。一方、サイボーグ技術とバイオエンジニア技術により、脳へのインプラントを使用しながらも連接脳派のように個を否定することはせず個は個として生きる道を選んだのが無政府民主主義者である。彼らの中で商人として星間船に乗り込み、身体を機械化し変化していったのがウルトラ族である。純粋精神連合は歴史の舞台から姿を消し、これら変容した人類が宇宙で新たな人類の歴史を築いていく、そのはじまりの物語群でもある。
 どの作品でも、主人公は自分の価値観や行動規範と異なるものを目の前にして「とまどう」。この異質な価値、規範、状況との出会いとそれによるとまどいこそがSFのおもしろさにつながるものである。SFの王道を行くような作品群。とりたてて新しいプロットなどはなくても、円熟した物語として純粋に楽しむことができる。
 どれかひとつを上げることも難しい。
 本短編集のために書き下ろされた「ウェザー」(2006)は、ウルトラ族の「若い」星間船船員と、仲間からはぐれてしまった連接脳派の「少女」の種属を超えたものたちの心の交感を描いた佳作である。
 アレステア・レナルズをはじめて読むならば、短編集から手をつけることを強くお勧めしたい。
(2007.12.01)

ゴールデン・エイジ3 マスカレードの終焉

ゴールデン・エイジ3 マスカレードの終焉
THE GOLDEN TRANSCENDENCE
ジョン・C・ライト
2003
「E・E・スミスをめざしたのだが、哲学的思考がつい入り込んで脱線してしまった」との作者のコメントが訳者あとがきに載っていた。まったくである。舞台装置をよく考えると、その通りであった。かたや太陽系においては戦争が存在せずありとあらゆる存在形態が許され、その存在と知的活動を謳歌する第七精神構造期「黄金の普遍」があり、かたや白鳥座X-1においては、第五精神構造期に植民し、銀河中心ブラックホールの無尽蔵なエネルギーをもって独自の豊かな世界を構成していたはずがあるときにそのすべての活動が停止したとしかみえなくなった「沈黙の普遍」があった。「黄金の普遍」は、次の千年期に向けてほぼすべての知的活動体がそのリソースを一時的に集結する「超越」の時期となっていたが、その陰に「沈黙の普遍」の密やかな侵略の陰があった。主人公のフェアトンのみがその存在を確信し、自らが作り上げた宇宙を股にかけることが可能な宇宙船「喜びのフェニックス」を取り戻し、「黄金の普遍」からも「沈黙の普遍」からも逃れて新たな旅立ちを模索する。しかし…。
「ゴールデン・エイジ」の第3巻は、1巻、2巻では見られなかった想像を絶する宇宙規模の戦いが繰り広げられる。それは精神と精神の戦いであり(アリシアとエッドールを思えばいい)、宇宙のエネルギーとエネルギーの戦いでもある。まさしく、E・E・スミスの「レンズマン」シリーズを彷彿とさせる。
 ただ、作者が自らコメントしたように、そこに「哲学的思考」が入り込み、話をややこしくする。ただでさえ、「人間」の定義が難しく、「死」の定義が難しい未来の話である。「現実」とか「仮想」といったことさえ、本書の定義によるところの「第三精神構造期」にある我々とはまったく異なる概念となっている。そこに「善」とか「戦争」といった概念が入り込むのである。もう、こりゃ、何が何だかの世界である。
 とにかくややこしい。
 もしかするとあと10年もすると、この「ゴールデン・エイジ」に書かれていることが軽く理解できる程度になるのかもしれないが。
 さて、ストーリーは、第1巻、第2巻を読み続けてきて「よかった」と思える内容である。もちろん最後はハッピーエンドが待っている。そこのところは間違いなくハッピーエンドである。アメリカ人らしい終わり方である。アメリカ人らしいというのは、ハリウッド映画的と言ってもいいけれど。
 とにかくシーンはさらに派手になるし、より人間くさくなる。もし、第1巻、第2巻を読んでいるのならば、ぜひ懲りずに読んで欲しいまとめかたである。
 それにしても、読む方も大変な作品だった。こういうことを書けるってすごいなあ。そして、こういうのを出版するアメリカって国もすごいなあ。素直にそう思う。
(2007.11.11)