ポストマン

ポストマン
THE POSTMAN
デイヴィッド・ブリン
1985
 我が家には「ポストマン」がたくさんある。別に望んで増えたわけではない。いつの間にかこうなってしまった。最初は「ポストマン」である。次は「ポストマン」(改訳版)で、最後はDVDの「ポストマン」となる。
 小説の「ポストマン」は、どちらも同じハヤカワSF文庫で、翻訳者も同じ方であるが、映画化を期に表紙が映画とタイアップしたものとなり、内容も「改訳」された。
 改訳の理由は定かではないが、たしかに旧訳のものと比べると言葉が変わっている。まあ、誤訳なども減ったのだろうし、訳もこなれたのだろうと思う。今回は、「改訳版」の方を再読した。
 内容は、破局後の人類再生ものである。ラリイ・ニーヴン&ジェリイ・パーネルの「悪魔のハンマー」や、ウォルター・ミラーの「黙示録3174年」などに見られる、人類が破局的な状況を迎えてしまい、科学技術や文明が崩壊した中で、少しずつ再生にむかって行くという中の物語である。
 本書「ポストマン」の舞台は北アメリカ。破局の原因は世界戦争。核を中心にした世界戦争とその後の暴力的な集団破壊行為により、アメリカの文明は完全に崩壊した。核の冬とまではいかないまでも気象は激変し、電力、通信などのインフラと航空機、自動車、鉄道などの輸送は途絶、多くの生物と人命が失われ、人々は小さな集落ごとに自給的な生活を送っていた。破局から13年が過ぎ、人々は生きていくのに必死だった。文化も文明も失われたままである。
 ひとりの放浪者がいた。集落に行き、ひとり芝居をしながらなんとか糊口をぬぐっている男である。崩壊前の世界を夢見、秩序ある世界の再生を誰かが実現しないかと願う男であった。男は、盗賊集団に狙われ、持ち物をほぼすべて失う。そして、山の中で、一台の朽ちた車とミイラ化した運転手を見つける。その運転手が着ていた服は、合衆国の公務員、郵便配達夫の制服であった。彼は、戦後に殺されたようである。戦後数年たってからも、離れて存続する人々の間を結び唯一の連絡手段である郵便を届け続けていたのだ。
 彼は、その郵便配達夫の制服と残された郵便物を手に、生き延びるため、別の集落を訪ねた。そこで、彼は歓迎を受ける。「郵便配達夫」の制服と帽子の故に。それは、文明再生の夢と希望の象徴でもあった。秩序社会の象徴となった。
 そして、男は生きていくために壮大な嘘をつきはじめ、嘘は徐々に世界を変えはじめた。
「悪魔のハンマー」が1977年で、本書が1985年。偶然かも知れないが、「悪魔のハンマー」でも、郵便配達夫が重要な役回りをする。インフラが崩壊したとき、「通信の自由」を保証するもっとも素朴な公共サービスである郵便はその意味を問われるのではなかろうか。
 郵便。それは、人と人とをつなぐメッセンジャーである。公共性の高い仕事として、世界中どんな場所でも、たとえ紛争の場所であっても、その意味と価値は高いとされる。実際の歴史や世界の中では賄賂や汚職、あるいは、戦時下での検閲など暗部も多いが、「通信の自由」の確保は、人類の社会的な知恵として、あるいは、その社会の成熟度を示すものとして大きな指標となる。たとえば、今のアメリカでの盗聴法やエシュロンシステムなどは、「通信の自由」を大きく阻害するものであるし、インターネットの普及による紙の郵便の必要性の低下などは今日的なインフラの質の変化を示すものであろう。しかし、それでも、「郵便」には、何かがある。それは、第三者を介して間接的に届けられるメッセージという意味であろう。この第三者を信用していること、これが郵便に込められた意味である。郵便は社会が安定している、信用に足ることを図らずも伝えているのだ。
 実は、「ポストマン」を再読したのは、「キルン・ピープル」を読んで、デイビッド・ブリンという作家は、よくよく主人公を苦しめ、いじめ、迫害し、贖罪させようとするなあ、と思ったためであった。本書「ポストマン」の主人公ゴードンが結構ひどい目に遭いながらも決してあきらめないキャラクターであったことを思い出し、「キルン・ピープル」の主人公である私立探偵と比べたくて読んだのであった。
 ところが、読み始めてすぐ、社会の変化に気がついた。そう、2007年10月1日より、日本の郵便制度は大きく変わったのである。公共サービスとして公務員が行っていた郵便サービスがなくなり、民間事業者のサービスと変わったのである。
 本書「ポストマン」はアメリカの公務員である郵便配達夫の物語であるが、そのまま日本に当てはめてもよかった。しかし、今の日本ではもはや「ポストマン」に書かれているような公共サービスは望めない。同じようなサービスでも、責任の所在が異なることは大きな意味を持つのである。公共サービスから私的企業の公的サービスに変わったということは、公共を支える人々の手から、私的企業を支える市場の手に、権限が移ったことを意味する。人々の手と市場の手は似ているようだが異なるのだ。
 再読しながら、時代の変化を感じるのは今に始まったことではないが、しみじみと、郵政民営化の持つ本質的な意味について考え、今の社会のひとつの側面に恐怖するのであった。
(ローカス賞受賞作品)
(2007.10.7)

果てしなき河よ我を誘え

果てしなき河よ我を誘え
TO YOUE SCATTERD BODIES GO
フィリップ・ホセ・ファーマー
1971
 1970年代に翻訳されたSFって、タイトルが凝っている。原題を忘れて、作品のイメージや文中の言葉を使ってすばらしいタイトルを生み出す。本書「果てしなき河よ我を誘え」もそんな作品のひとつである。まるで文学作品かいといった感じである。そのせいか、私は買わなかったんだよなあ。ハヤカワSF文庫で1978年に出されているのだから、中学生。そのころにはちょっと早かったし、高校になったときに限りある財政力では本書を選ぶことはなかった。残念。ということで、2007年になって、ようやく古本屋にて出会うことになったのだ。まったく、こちとらもう40歳をとうに過ぎてしまったよ。
 さて、主人公は、1890年に死んだリチャード・F・バートン。「千夜一夜物語=アラビアン・ナイト」の翻訳者として知られる冒険家である。このほか、2008年に死んだアメリカ人の作家や、ずっと昔に死んだネアンダール人やナチス・ドイツの大物や、人類がはじめて出会った異星人まで登場する。
 目が覚めたら、そこは知らない惑星。人類の始祖から、21世紀初頭に滅ぶまでのうち360億人以上が、ひとつの惑星のひとつの果てしなき川のそばで目を覚ました。みなすべて裸で無毛。そして手首には特殊なカップがあった。このカップを川のそばに設置されている岩のような装置に置けば、1日の必要な食料などが物質移動か生成によって中に入っている。だから食に困ることはない。そして、その惑星で一度死んでも、ふたたびよみがえらされ、真の死を迎えることもないようである。
 はたして、ここは天国か、地獄か。あるいは、なんらかの実験なのか?
 死んだはずが目覚めさせられたバートンは、地球に似ていて、地球とは違う世界であらゆる時と場所の人類達とは果てしなき世界で生き抜き、旅をし、そして、自分がよみがえらされたこの世界の正体をあばこうとひとり戦いをはじめた。
 壮大なリバーワールドシリーズの幕開けである。
 本当に壮大。ラリー・ニーブンの「リングワールド」やダン・シモンズの「ハイペリオン」に連なるような壮大な物語である。なるほどねえ。こういう作品だったんだ。
 この世界では死ぬことができない。いや、死ぬことはできても、必ず翌日には目覚めさせられる。そして、目覚める場所は、死んだ場所ではない。リバーワールドの別の場所である。ネタバレになるが、そこで主人公のバートンは、てっとりばやく世界を旅する方法として、「死ぬ」ことを思いつく。死ねば、別の場所で目覚めるからである。なんとまあ、辛い移動手段であろうか。本作「果てしなき河よ我を誘え」を読んだのは、デイビッド・ブリンの「キルン・ピープル」を読んだ直後だったので、死を記憶する生のあり方というものについて考えさせられることとなった。
 一般的に、死は不可避なものであり、恐怖の対象であり、同時に、憧憬の対象でもある。「死んでしまえばおしまい」というのは、恐ろしさでもあり、救済ともなるからだ。その両者が共存するのは、生者が自らの死を知ることができないからである。死は常に他者に起こるものであり、自らの死を知ることはできない。死ぬまでの苦しみや、死ぬような恐ろしさは味わえるかも知れないが、死は不可知である。自らの死は不可知でも、他者の死を知ることはできる。なんと死とは不思議なものであろうか。  しかし、フィリップ・ホセ・ファーマーの「果てしなき河よ我を誘え」やデイヴィッド・ブリンの「キルン・ピープル」では、自らの死を知ることができる。記憶することができる。そして、何度も違う死を迎えることができる。いや、できると書いたが、したい/したくないという意志によっても可能であり、事故や殺害など自らの意志によらない死も含まれる。いったい、人は死の記憶に耐えられるものだろうか? いくつまで耐えられるのだろうか? 自らの生の継続がかなうと知っていても、死を恐れずにすむのだろうか。
 うーん、わくわくするような怖さがあるなあ。
(ヒューゴー賞受賞作品)
(2007.10.02)

キルン・ピープル

キルン・ピープル
KILN PEOPLE
デイヴィッド・ブリン
2002
 近未来。人々は、アバターを世に送り出し、仕事をさせ、用事を済まし、自分は真にやりたいことだけに集中して生きていた。アバターを送り出すのはインターネットの仮想世界ではない。現実の世界である。そのアバターは手軽なクローン。1日限りの命を持つクローンである。クローンは陶土でできていて、命を吹き込まれ、焼かれてエネルギーを注ぎ込まれる…。
 近未来、科学的・技術的ブレークスルーが訪れた。人間には固有の定常波があり、その定常波が世界に対する認識や記憶、人格を統合しているのである。定常波を正しくコピーすることができれば、あとは生きるためのエネルギーを持ち、筋肉と脳に該当する機構性を持つ人型をこしらえればよい。ユニバーサルキルン社は、特殊な陶土を使って人型を安価にこしらえ、定常波をコピーしてその波とともに陶土をかちかちではなくふっくらと焼き上げることでエネルギーを注ぎ込み、1日の命と、原型たる人間の記憶、知識、人格を一定程度持った複製が誕生する。彼らは1日の命を与えられた複製の身体で過ごし、そして、その経験や記憶は原型に書き戻すことができる。つまり、人間は1日で2日分、あるいは、複数の複製人間をこしらえれば、何日分もの経験を行うことができる。たいくつなことでも、危険きわまりないことでも、原型の人間自身は何をしなくても経験することができるのだ。もちろん、忌まわしい記憶やあまりにも退屈な記憶は統合する必要もない。複製人間の記憶を併合しなければいいだけである。そして、複製になった側も、目覚めるとともに命令を受ける必要もない。なぜならば、複製もまた本人の定常波を受け継ぐものであるからだ。本人そのものの人格であると言っていい。問題は、どっちで目覚めるか、だけだ。原型か、複製か。そして、どちらも本人であるのだ。ただ、複製は1日限りの命であるというだけ。
 この技術的ブレークスルーは社会を根本から変えた。たとえば、インターネットは「通信」「データベース」など、21世紀初頭の使われ方を超えることがなくなった。本物の人格のままに、仮想人格と同様の経験ができ、それを自分のものとして記憶できるのならば、なぜ、わざわざ仮想人格をこしらえる必要がある? どんな過激な体験も、どんな演劇的体験でも、現実に味わうことができるのに。そこで、インターネットの仮想人格は一部のネットオタクのものとなった。同時にロボット技術も廃れてしまう。面倒な命令や指示とメンテナンスが必要なロボットに対して、複製は命令も指示もいらない。放射能汚染のエリアでも、火災の現場でも、戦争でさえも、恐れずに(スリルと興奮はそのままに)飛び込んでいけるのだ。しかも、複製体は自分自身の姿である必要もない。それぞれのシーンに適応した姿や能力を持つ複製体に自分を焼くことができるのだ。
 肉体労働は複製体の仕事となり、犯罪集団は、少数の原型が焼いた複数の「自分」を使って犯罪を行うことに慣れ、警察や私立探偵の仕事は変わっていく。警察は、原型たる人間への傷害や殺人しか扱わなくなる。複製同士の犯罪行為は、もはや公的社会管理の範囲を超えてしまったのだ。そこで、私立探偵の仕事が増えることになる。また、面倒にもなる。現実の世界に複製体、しかも、1日しか命をもたない複製体があふれているのである。
 そんな社会で起こるまか不思議な犯罪に対して、私立探偵アルバート・モリスは自らの高い複製生成能力を活用し、高性能な複製をいくつも使いながら違法複製業者らを追いつめていく。その能力から注目をあつめ、ユニバーサルキルンの創設者らがアルバート・モリスに接触してきた。行方不明になった天才研究者を捜して欲しいという。その陰には重大な陰謀と犯罪があったのだ。いくつもの危機にさらされながらアルバート・モリスは真実を突き止めていく。
 小器用なSFストーリーテーラーであるデイヴィッド・ブリンが、「人形」使いの社会を描き出した画期的な作品である。ジャンルとしては、SF・ハードボイルドになるだろうか。また、クローンや仮想人格など「もうひとつの自分」をテーマにしたものと言ってもいいだろう。さらに、ネタバレの要素が含まれるが、ちょっと「人類の変革」ものも入っている。「幼年期の終わり」や「ブラッド・ミュージック」にみられる、あれ、である。といっても、本筋はあくまでSF・ハードボイルド。主人公の私立探偵が痛めつけられても、痛めつけられても、くらいつき、だまされ、それでも真実を追求しようという作品である。なにせ、複製と原型含めて、何度も殺され、苦しめられ、苦しみ、痛み、死ぬような目にあうのである。ふつうの私立探偵よりももっともっと高い「耐久性」が求められる主人公である。痛いなあ、辛いなあ。えらいぞモリス君。
 ブリンは、主人公を苦しめて、苦しめて、苦しめぬく傾向がある。無宗教だといいつつも、キリスト教における救世主の苦しみを主人公に体現させているかのようである。
 その苦しみの分だけ、主人公が超人化してくるから、やはり救世主願望があるのだろう。
 そのアイディアと展開力に脱帽。一読の価値はある。
 ところで、自分がこの時代に生まれ、複製を使いこなす能力があったら、何をしていますか?
(2007.09.28)

白い竜

白い竜
THE HOUSE DRAGON
アン・マキャフリイ
1978
 パーンの竜騎士シリーズの初期3部作のトリを飾るのが本書「白い竜」である。惑星パーンには色とりどりの竜がいる。しかし、白い竜はただ1匹しかいない。しかも、この白い竜と感合した竜騎士は、ルアサ城砦の若い太守ジャクソムであった。竜騎士は竜とともに大巌洞に暮らし、竜騎士としての訓練を受けなければならない。それが掟であった。そして、城砦は太守を抱かなければならない。太守のいない城砦は別の城砦の太守が子息らを送り込むことになる。前作で困った立場になった少年ジャクソムは、周囲の画策の末に、太守のまま竜を自らの城砦に迎えてともに育つことが許された。それは白い竜が長く生きながらえないと思われていたからである。また、太守ジャクソムの後見人として元竜騎士で竜を死によって失い、その後、ギルド織物ノ長まで努めたリトルがいたことも要因のひとつであった。さらに、ジャクソムは、もっとも名誉あるベンデン大巌洞の洞母レサが指名したルアサ城砦の正当な跡継ぎでもあったからである。レサは、本来は唯一の正当なルアサ城砦の後継者であったが、竜騎士になる条件として誕生したばかりのジャクソムに太守を譲ることを求めたのである。
 さまざまな重荷と力関係の中で育たなければならないジャクソムと白い竜ルース。周囲の思惑をよそに、白い竜ルースは小柄ながらも立派に成長し、ジャクソムもまた若き太守として立派な青年になりつつあった。もちろん、ジャクソムにとっても竜ルースにとっても、竜騎士として惑星パーンを襲う糸胞との戦いを望んでいたが、太守としての役目がそれを阻んでいた。青年特有のはやる気持ちと自尊心がジャクソムを突き動かしていた。
 そこに、大事件が起こる。ベンデン大巌洞の洞母レサの女王竜が産んだ女王竜の卵が何者かに盗まれたのだ。
 中世的世界からの脱却を目指しつつあった世界は、想像もできない犯罪が行われたことに震撼し、その動きを止めた。
 そんななか、青年ジャクソムは白い竜ルースとともに活躍し、そして、成長していくのであった。
 青年成長物語であるとともに、いよいよ惑星パーンの竜騎士、領主、ギルドという中世的社会体制と科学技術の停滞が壊れようとしはじめる。世界は変わり始める。そのことに深い不安を持つもの、伝統が壊れるからと怒りを持つものがいる。また、その変革に期待し、未来を見据えて動き始めるものもいる。白い竜を持ち、太守となったジャクソムは、その変革期を象徴する存在である。だから、うとまれる。だから、きつく扱われる。彼だってひとりの若者であり、悩める青年に過ぎないのだが、人々はそれを許さない。人々は、それぞれの視点でジャクソムを見る。あるものは友人として、あるものは育てなければならない愚かな若者として、あるものは伝統破壊を象徴する敵として、あるものは子として、あるものは自分では果たせなかった思いを果たすものとして…、大変な重荷の中で、それなりに成長するジャクソム君。なかなか、作者の愛が込められていてよい。
 それに、なるほど、1巻から2巻、2巻から3巻と竪琴師ノ長ロビントンの存在が大きくなることがわかってくる。これはその後の巻の楽しみである。
(2007.09.20)

竜の探索

竜の探索
DRAGONQUEST
アン・マキャフリイ
1971
 たった今まで気がつかなかったのだが、この原題って「ドラゴンクエスト」なんだ。おおお。ドラクエだ。私はやらなかったのだが、友人がはまっていたなあ。1986年にドラクエがファミコン用ソフトとして発売され、ドラクエ2が1987年1月なので、ちょうど大学4年の頃である。友人が社会人になって1年目の多忙な時期にふらふらになりながら復活の呪文をメモで書き留めていたのを覚えている。
 っと、そういう話ではなかった。こちらは、パーンの竜騎士シリーズの2作目「竜の探索」である。数百年前に人類は惑星パーンに入植した。しかし、その後、星系を楕円に回る惑星が近接すると、その惑星から糸胞と呼ばれる有機物を食い尽くす生体が雨のように惑星パーンに降り注ぎ、人々とその植民地を焼き始めた。植民者達は、彼らの科学技術を使っていこれに対処。テレポーテーション能力を持ち、鉱石を口に含むことで火を噴くことができる竜に似たパーンの生物を遺伝子操作によって巨大化させ、空に糸胞があるうちに焼きつくすようにした。この「竜」を操るのが竜騎士達である。竜騎士は、植民者のうち、共感能力やテレパシー能力を持つものが選抜され、訓練されたものたちであった。また、そのほかにもいくつかの対策をとっていたが、長年の糸胞との戦いと、惑星がパーンを離れた後の平穏な時代の繰り返しのうちに、人類の科学技術は忘れ去られ、中世のような領主とギルドと騎士による社会ができていた。
 前作「竜の戦士」では、400年ぶりに起こった糸胞の襲来に、わずかに残っていた竜騎士や、400年の長きにわたって伝説や掟を信じてきた一部の領主、ギルドの長らによって、初期の対応がはかられるまでの非常時の歴史が語られた。
 本作は、それから7巡年(惑星パーンの公転周期)後の世界が語られる。7巡年前、竜騎士の名声と名誉は最高潮に高まり、竜騎士は自信と誇りを持って糸胞との際限なき危険な戦いに挑んでいった。しかし、危機が日常になれば、状況は変わってくる。竜騎士と領主、ギルド間の不満、竜騎士間の不満や意見の齟齬は高まり、ついには、竜騎士同士の刃傷沙汰が起こってしまう。そのことに衝撃を受けたリーダー達は、なんらかの対応に迫られる。時同じくして、糸胞の来襲が予想した周期と異なりはじめた。パターンを読めないなかで、竜騎士は疲れ、領主達はさらに不満を募らせる。そこに、大昔の伝説の技術の一部が発見された。危機の中の安定が不安定へとかわり、やがて変革の時を迎える。
 アン・マキャフリイの中で、本作は大きな転換点になったと思われる。パーンの竜騎士は、本作の発表をもって本格的なシリーズとなり、壮大な惑星パーンの人間と竜の物語となった。SFであると同時に、ファンタジーであり、どちらから見てもおもしろく、かつ、奥行きを感じさせる物語のタペストリーが編まれることになったのである。いわゆる大河ドラマである。マキャフリイには、「歌う船」シリーズや「九星系連盟」シリーズなどがあるが、この「パーンの竜騎士」シリーズほど長く、思い入れ深く描かれている作品群はない。もちろん、第一作の「竜の戦士」の元となった中編がなければ本シリーズは誕生しないわけだが、これがひとりの主人公を超えて多くの登場人物達が複雑に絡み合いながら物語を織るのは本書からであると言ってもいい。感慨深い作品である。
(2007.9.20)