銀河パトロール隊

銀河パトロール隊
GALACTIC PATROL
E・E・スミス
1937(1950)
 レンズマン。その言葉の響きは、ウルトラマンやウルトラセブン、マグマ大使、キャプテンウルトラ、仮面ライダー、鉄腕アトムや宇宙戦艦ヤマトを何よりも楽しみにしていた少年にとって、名前だけでもどきどきするフレーズであった。
 私が最初にSFと出会ったのは、おそらく「ぽんこつロボット」(古田足日)で、その後、「宇宙ねこの火星たんけん」(ルースブン・トッド)あたりだと思う。その後、田舎の城跡公園の中にあった小さな公立図書館や古い小学校の図書室で岩崎書店やあかね書房、ポプラ社、講談社などのジュブナイルを読みあさり、SFに耽溺していった。
 このときに、レンズマンシリーズには出会っている。ただ、「三惑星連合軍」と、レンズマンシリーズのストーリーがごちゃごちゃになっており、何種類かあったが、何となく似ているけれど違うストーリーであった。それでも、探し回っては読んでいたのだから、レンズマンの語は心にしっかりと刻み込まれていた。
 そして、小学校5年生の時に転機が訪れる。はじめて文庫本という存在を知ったのだ。大人向けの文庫本というジャンルに、SFがあるではないか。しかもたくさん。そのことを知ったときには興奮で眠れなかったほどだ。
 そうして、親に頼んで注文してもらったのが、本書「銀河パトロール隊」にはじまるレンズマン・シリーズである。当時は、「三惑星連合軍」までしか出ておらず、シリーズ6冊であった。田舎の本屋には在庫はほとんどなく、この6冊が2回か3回に分けて、順番ももばらばらに届いたことを覚えている。そう、我が家まで本屋が本を届けてくれていた時代である。古いなあ。届く度に、その間のストーリーに思いをめぐらせながらも間が届くのを待ちきれずに読んでいた。墓場に面した2階の自分の部屋で繰り返し読んでいた。全巻揃ったときには、朝まで一気読みをして翌朝辛かったことを覚えている。
 そういえばこの頃から、授業中に寝て、夜更かしをするようになったなあ。その癖は、大学を卒業するまで抜けなかった。今でも明け方まで本を読んでいることがある。
 最初に読書で徹夜したのも、このシリーズだった。
 もし、小学生のうちにこのシリーズを読むことがなかったら、これほどまでにSF漬けの人生にはならなかったであろう。
 当時の私は今よりももっと馬鹿だから、なぜか知らないが表紙をはがしてノートに貼りつけたりしており、最初期に購入した文庫本に表紙は残っていない。そして、よせばいいのに、内表紙にSFの購入通し番号を振ろうとしていた形跡がある。ちなみに、本書「銀河パトロール隊」は栄えある1番が万年筆によって振られている。もちろん、本はぼろぼろ、手あかと染みのついたおどろおどろしい紙の束になっている。
 1966年5月に、小西宏訳によって完訳された創元版は、その後確実に版を重ね、私の手元にある1976年版は29版となっている。また、2002年には、小隅黎訳による新訳シリーズとして同じ創元より発行されている。このほかにも、シリーズ1巻の「銀河パトロール隊」は、ハヤカワで井上一夫、角川で小笠原豊樹訳があるという。
 私は、小西訳のシリーズを何度となく読み返している。おそらく10回はくだらないのではないだろうか。馬鹿である。
 実は、4年ほど前にも1度全シリーズを小西訳で読み返していた。そのときには、感想を書き連ねる「行」を自分に課していなかったのだが、その後、何を思ったか、この海外SF感想を書くようになってしまった。読み返したばかりだったので、なかなか手が伸びない。そこで、小隅黎訳の新シリーズを読むことにした。
 やはりいい。レンズマン。どっちの訳も好きです。
 キムボール・キニスン、レンズマン候補生学校をかつてない成績で首席卒業し、レンズマンになったばかりのルーキーである。
 レンズマンが身につけるレンズとは、誰も姿を見たことのないアリシア人により与えられるもので、人類や宇宙の宇宙の通常の知性体の理解が及ばない物質でできており、身につけたものが生きている限り輝き続けるが、死んだり、別の者が着用しようとすると完全に分解し、着用しようとした者を殺してしまう存在である。認識票であり、レンズマン同士が思念で通信を送る、どんな言語も自動翻訳するなど「思考」に関わる存在でもある。
 アリシア人にレンズをレンズを与えられたものは、人類、非人類に関わらず銀河社会の正義と公正の執行者である銀河パトロール隊の中心的存在として宇宙海賊や麻薬商人たちと闘うのである。
 宇宙は広い。しかし、無慣性航法(自由航行)によって光速の壁は簡単に超え、銀河中を飛び回ることができる。しかし、自由航行ができるのは銀河パトロール隊だけではない。謎の宇宙海賊ボスコーンもまた、強大な軍事力を持ち、銀河社会を脅かしていた。
 そして、今、ボスコーンは銀河パトロール隊をしのぐ力を持ち、銀河社会の宇宙貿易は壊滅の危機にあった。キムボール・キニスンは特命を受け、ボスコーンの宇宙海賊船の力の秘密を解き明かすために、新造戦艦ブリタニア号を発進させた。
 謎が謎を呼ぶ強大な敵、キニスンが遭遇する苛酷で奇妙な惑星と、そこに住む異星人の特徴ある姿や行動は、スペースオペラならでは。さらには、光年単位で行われる激烈な宇宙戦、敵の基地に単身乗り込み活躍するキニスンの知略、そして、大河小説につきものの美しく力強い美女。主人公のキニスンも、ただ頭がよく、力が強く、かっこいいだけではない。あるときは、命からがら脱出し、入院先では暴れ回り、人間くささを見せつける。
 だからこそ、彼が単身、命がけで銀河社会のために、無謀とも思える作戦を展開するときに、読者はキニスンに肩入れをすることになる。
 永遠のヒーロー。
 あら探しをする小説ではない。1930年代に、銀河を駆け回ることができたのだ。
 その想像の羽に感謝である。
 ちなみに、80年代に日本ではアニメ化されているらしい(見てない)が、どうして、ハリウッドが映画化しないのだろう? シリーズ後半の思念戦などもあるから、映像化しにくいのかなあ。「指輪物語」も映画化したことだし、そろそろ誰か挑戦しないかなあ。
 このシリーズばかりは、ぜひハリウッドで、監督にも俳優にもCGにも巨額を投じて無茶苦茶やってくださいな。
 QX?
(2007.04.01)

アイアン・サンライズ

アイアン・サンライズ
IRON SUNRISE
チャールズ・ストロス
2004
 人類文明からシンギュラリティ(特異点)を迎え、エシャトンが誕生した。生みだした人類には計り知れない知性を持つ存在エシャトンは、人類の存在する宇宙で時間・空間を超えて自らの目的を持った作為を行う。シンギュラリティを迎えたとき100億人いた人類の90億人は、時空を超えた宇宙の荒っぽいテラフォーミングされた世界にばらばらに放逐された。そして、姿なきエシャトンの統べる世界で、それぞれに独自の世界を作り、やがて地球の人類と再び遭遇した。人類はエシャトンによって短い期間で宇宙の多くに存在する生命体となっていたのだ。
 前作「シンギュラリティ・スカイ」では、多くの人類世界の中でも超保守・封建的な世界が軍事的な暴走をはじめ、それを主人公・地球国際連合多星間軍縮常設委員会の特別査察官・大使館づき武官のレイチェル・マンスール大佐がなんとか解決しようとするアクションハードSFである。さらに、もうひとり、誰かの指揮の下に動いているとみられるマーティン・スプリングフィールド技師とレイチェルの不思議な恋愛ストーリーでもあった。
 本作「アイアン・サンライズ」は、レイチェルとマーティンの時間軸で前作「シンギュラリティ・スカイ」の直後に幕を開ける。レイチェルが前作で使った多額の費用が違法ではないかという監査が入ってしまったのだ。
 ということで、続編のような趣だが、独立した作品でもある。
 何人かの主要登場人物の中で、主人公と言えるのは、ウェンズディこと、16歳のちょっと切れ気味な女の子。黒ずくめ、無造作な黒髪、青白い顔、親も学校も退屈も嫌いな独立独歩が信条。いじめられても、嫌われても、親に文句を言われても、自分がやりたいことをやる。ま、協調性っていうのはゼロだけど。
 4年前に惑星モスコウの太陽が突然暴発し、モスコウは一瞬にして崩壊。4光年先のコロニーにもその衝撃波面が近づきつつあった。ウェンズディが育ったコロニーは全員が避難を開始。ところが、ウェンズディはとんでもないトラブルに巻き込まれてしまう。
 そのトラブルは、人類世界の新たな脅威のはじまりでもあった。
 太陽の中心部に鉄のコアが人工的に作り出され、それにより太陽が暴発する。その科学的な表現と、それによって起こる星系の崩壊、人類の受難。
 その筆力と想像力には舌を巻いてしまう。
 そこだけでもおもしろいのだが、ウェンズディやレイチェル、あるいは、フリーの戦争ブロガーやウェンズディにとっての「敵」であるリマスタードの変な社会など、その世界設定やキャラクターもおもしろい。さらに、ネズミ型の旅行チケットが案内役兼セールスマンとなって喋りまくるなど、小物にも凝っている。前作「シンギュラリティ・スカイ」では、ハードな宇宙アクションと唐突な専門用語で読む方も大変だったが、今作「アイアン・サンライズ」は、ウェンズディという少女が主人公ということもあってとても読みやすくなっている。
 とにかく、本書はおもしろい。おすすめ。
 それにしても、エシャトンという超知性体のいる存在は、読みようによっては顕在化した神の世界である。この神は、自分の都合を忘れない。エシャトンの禁忌を犯すものには、その世界を崩壊させるという罰さえも与えかねない。エシャトンが選び、エシャトンのために働いたものには、現世的な利得を与える。小さな奇跡である。エシャトンをたたえる必要はないが、エシャトンとともに宇宙に存在することは、エシャトンがいないよりもまあよい世界であることもある。難しい問題だが、エシャトンは人類を嫌ってはいない。むしろ、人類を助けている。それも、実はエシャトンの都合でもあるのだが。
 神が顕在化したハードSF。
 人工知性体の超越的存在化というのは、SFに神が宿る作品群を生み出すことになるのだろうか。
 そういえば、ヴァーナー・ヴィンジの「遠き神々の炎」「最果ての銀河船団」には超越的存在が出てくるし、「マイクロチップの魔術師」も特異点ものだなあ。「マイクロチップの魔術師」って1981年かあ。
 アーサー・C・クラークは、「高度に発達した科学は魔法と見わけがつかない」って言ってたけれど、特異点を迎えた存在は、神と区別できないのかなあ。
 あ、本書はエンターテイメント作品です。難しいこと考えずに、SFの醍醐味を味わえる楽しい作品。長くても、長さを感じさせません。
(2007.03.31)

去年を待ちながら

去年を待ちながら
NOW WAIT FOR LAST YEAR
フィリップ・K・ディック
1966
 戦争、ドラッグ、時間と空間の混乱という舞台設定。人工知能を積んだタクシーが主人公たちととんちんかんながら人間くさい会話を交わし、スクラップにされるべき不良品として選別された疑似生命体が、技術者によって救われ、カートとして動くだけの能力を与えられ、都市にはなたれ生きていく様…。混沌としたいかにもディックワールドらしい作品である。名作とは言えない。駄作ではない。作者名を伏せて書かれていても、それがディックの作品であることは間違いなくわかる、そういう作品である。
「去年を待ちながら」
 簡単にストーリーをまとめておくと、西暦2055年、地球は星間戦争に巻き込まれていた。恒星間探査の結果、人間に良く似たリリスター星人と出会い、同盟関係になったところで、リリスター星人の宿敵で昆虫に似たリーグ星人との星間戦争に荷担することとなってしまったのだ。国連事務総長のジーノ・モリナーリは、巨大企業TF&D社の支援を受けてリリスター星人の法外な要求をはねのけながら、なんとか地球を守ろうとしていた。しかし、彼の体調は思わしくなく、TF&D社の社長の専属人工移植医のエリック・スイートセントは国連事務総長の治療のために派遣されることとなる。
 一方、エリックの妻でアンティーク・デザイナーのキャシーは、エリックとの不和もあり、極秘のドラッグJJ180を体験してしまう。JJ180は、この戦争を終わらせるために開発された致死的な幻覚ドラッグだったのだ。そして、人によっては、パラレルワールドの別の時間軸を体験する力を一時的に与えることのできるドラッグでもあった。少しだけ歴史の違う過去や未来を体験するドラッグは、1回の服用で確実に中毒させ、連続服用しなければ死を、連続服用してもいずれは死をもたらす毒薬でもあった。
 果たして、この戦争は終わるのか。地球人は生きのびることができるのか。キャシーの命は救われるのか。
 ということで、世界は多重性を持ち、人はそもそも多重性に生きていくなかで、主人公の人工移植医は、その多重的な生き方に絶望しつつ、簡単で大切なことを学ぶのだった。
 別に、啓蒙されるようなないようではない。
 あいかわらず、主人公は状況に振り回されるだけで、状況そのものではない。
 失敗もする。挫折もする。うかれもする。
 それでも、読み終わったとき、何かに涙する。
 ああ、ややこしい。
(2007.03.26)

ザップ・ガン

ザップ・ガン
THE ZAP GUN
フィリップ・K・ディック
1965
 西暦2004年。地球はふたつの勢力に二分されていた。西側陣営であるウエス・ブロックと、東側陣営である人民東側(ピープ・イースト)。相互の戦争は終わることなく、人々は、自陣の勝利を確信して日々を暮らしていた。
 それぞれの陣営には、兵器ファッション・デザイナーとなる霊媒(ミーデイアム)がひとりずつおり、常に画期的な兵器のモチーフを、トランス状態による「どこかから」読み取り、それを実際の兵器にしていた。西側陣営の人々は、自陣の兵器ファッション・デザイナーをヒーローとあがめ、彼が生み出す究極兵器に心を躍らせた。ラーズ・パウダードライは、そんな西側陣営唯一の兵器ファッション・デザイナーである。少なくとも、彼が死ぬか能力を失うまでは、唯一無二の存在である。
 しかし、世界には秘密があった。
 世界は、絶滅兵器を知っていた。そこで、1992年に両陣営は秘密会合を開き、その後は本物の絶滅兵器が作り出されることはなかったのである。人類は絶滅を回避し、それは兵器ファッション・デザイナーとそれに連なるものたち、軍などの一部の秘密として保持されていた。
 そんな世界に危機が訪れる。本当のエイリアンとおぼしき衛星が地球に登場したのである。もはや究極兵器をつくる能力を持たない人類は、この危機に愕然とする。そして、兵器ファッション・デザイナーへの期待を人々は寄せる。
 ラーズ・パウダードライは、このまがいものに満ちた世界で、まがい物の頂点として君臨しながら、どこかでまがい物ではない自分を求めている。
 はたして、ラーズ・パウダードライは自分自身が本物だと言えるトランス状態を迎え、エイリアンに対抗することができるのだろうか。
 本書「ザップ・ガン」を簡単にまとめるとそういう話である。ディックの世界ではよくある設定で本当は戦争は終わっているのに、体制を維持するために2大勢力が戦争は続いているかのように人々をたぶらかしているあたりは「最後から二番目の真実」と共通する要素である。そのたぶらかしには、広告や映像などメディアが十分に使われている。「最後から二番目の真実」では、そのあたりが中心軸に置かれていたが、本書「ザップ・ガン」では、あんまりそういう中心軸はない。訳者の大森望氏もあとがきで書いているが、なんと言っても「兵器ファッション・デザイナー」であり、トランス状態でどこからか兵器のネタを拾ってきて、現実にするというのだから、出てくる兵器がすごい。「ゴミ缶爆竹」「洗羊液隔離剤」「市民情報歪曲弾」「精神剥奪ビーム」。もうアメリカンコミックの世界でしょ。
 でもって、ちゃんとそれぞれの武器としての設定が書いてあったりする。
 で、ちゃーんと、そういう兵器でいい理由も登場する。
 そして、最後に登場する究極兵器は、ディックならではの兵器である。
 もう、これは書きたくて書きたくてしょうがないのだけれど、人間の共感能力を信じながらも、世界が真実の姿をなかなか表さないことを知っているディックらしい兵器が出てくる。
 同じようなアイディアは、ディックの短編でも出てきているし、長編でも見られる。
 いわゆる、視点の遷移というやつだ。
 夢を見ている自分を見ている自分、とか。
 何者かに追いかけられて逃げているつもりが、いつの間にかおいかける側になっている、とか。
 今ならばグーグルアースみたいなもので、地球全景からずずーっと自分の住んでいる場所まで縮尺を拡大していって、ついには、今自分が座ってパソコンを見ているその背中まで見てしまっていて、両方の視点に入ってしまう、とか。
 ディックの作品にはこういう視点の遷移が多い。
 くるよ、ぐっと。
 この作品が1965年に書かれているのか。42年前ですよ。皆様。私が生まれた頃ですが、そんな頃から、そういう視点の遷移を、現実の世界のこととして書いてきたのが、ディックなのだ。
 コンピュータ、インターネットによって、グーグルアースだけでなく、シミュレーションゲームや、今度PS3で発表されるというHOMEのような仮想現実社会みたいなのが実現する前から、ディックはその奇妙さ、楽しさと忌まわしさを知っていたのである。
 2004年に、戦争は終わっておらず、陣営も崩れてしまったけれど、ディックの世界から私たちが脱しているとは言えない。
 くわばら、くわばら。
(2007.03.21)

宇宙の操り人形

宇宙の操り人形
THE COSMIC PUPPETS
フィリップ・K・ディック
1956
 ディック最初期の作品「宇宙の操り人形」である。執筆されたのは、1953年とされており、最初のSF作品のひとつである。作品としては、長編というよりも中編といった方がいいぐらいで、私の手元にある朝日ソノラマ版、ちくま文庫版のいずれも他の短編を合わせて所収している。
 朝日ソノラマ版は1984年「地球乗っ取り計画」を同時所収して発刊された。ちくま文庫版は、1992年、朝日ソノラマ版に「地底からの侵略」と「奇妙なエデン」を加えて復刊されたものである。
 子どもの頃、引越してしまった故郷の小さな町ミルゲイトに妻を連れて帰郷しようとしたテッド・バートンが主人公。ところが、彼の記憶にある公園も通りも店もない。彼の両親を知っているものもいない。過去のことを聞いても、誰も彼の記憶を共有するものはいない。過去の新聞を開いたとき、彼は衝撃を受けた。テッド・バートンは子どもの頃、感染症で死亡していることになっていた。彼は自分の記憶が偽物なのか、この町がおかしいのか、真実を求めてひとりミルゲイトにひとつだけの下宿屋に投宿することとした。
 やがて、彼は、自分の記憶が正しく、この町の真の姿が隠されていることを知る。そして、彼の記憶の力が真の姿を現実にとどめる力となることを知り、真の世界を現実に呼び戻そうとする。
 しかし、どんな存在が、ミルゲイトの真の姿を隠し、にせのミルゲイトを作ったのか、その理由をテッド・バートンは知らなかった。
 ディックは、晩年に向かうにつれ「宗教色」を強めていくのだが、最初期の本書「宇宙の操り人形」で、すでに、ゾロアスター教が登場し、善なる神と悪なる神の終わりなき永遠の戦いを作品化している。また、ストーリー紹介したように、現実と記憶の違い、真実の世界と隠された世界など、ディックワールドとも言うべき世界が展開され、そのなかで主人公が「よりどころ」を求めてあがく姿が描かれている。
 そういうディックの世界観が荒々しく、かつ素直に書かれている作品である。
 本書「宇宙の操り人形」を単独の作品として読めば、雑なホラー作品となるのかも知れない。ただ、ディックの作品を多く読んで、ディックの世界と、私たちが住む現実について考えたいと思ったとき、本書はよい道しるべになるであろう。
(2007.03.20)