宇宙の操り人形

宇宙の操り人形
THE COSMIC PUPPETS
フィリップ・K・ディック
1956
 ディック最初期の作品「宇宙の操り人形」である。執筆されたのは、1953年とされており、最初のSF作品のひとつである。作品としては、長編というよりも中編といった方がいいぐらいで、私の手元にある朝日ソノラマ版、ちくま文庫版のいずれも他の短編を合わせて所収している。
 朝日ソノラマ版は1984年「地球乗っ取り計画」を同時所収して発刊された。ちくま文庫版は、1992年、朝日ソノラマ版に「地底からの侵略」と「奇妙なエデン」を加えて復刊されたものである。
 子どもの頃、引越してしまった故郷の小さな町ミルゲイトに妻を連れて帰郷しようとしたテッド・バートンが主人公。ところが、彼の記憶にある公園も通りも店もない。彼の両親を知っているものもいない。過去のことを聞いても、誰も彼の記憶を共有するものはいない。過去の新聞を開いたとき、彼は衝撃を受けた。テッド・バートンは子どもの頃、感染症で死亡していることになっていた。彼は自分の記憶が偽物なのか、この町がおかしいのか、真実を求めてひとりミルゲイトにひとつだけの下宿屋に投宿することとした。
 やがて、彼は、自分の記憶が正しく、この町の真の姿が隠されていることを知る。そして、彼の記憶の力が真の姿を現実にとどめる力となることを知り、真の世界を現実に呼び戻そうとする。
 しかし、どんな存在が、ミルゲイトの真の姿を隠し、にせのミルゲイトを作ったのか、その理由をテッド・バートンは知らなかった。
 ディックは、晩年に向かうにつれ「宗教色」を強めていくのだが、最初期の本書「宇宙の操り人形」で、すでに、ゾロアスター教が登場し、善なる神と悪なる神の終わりなき永遠の戦いを作品化している。また、ストーリー紹介したように、現実と記憶の違い、真実の世界と隠された世界など、ディックワールドとも言うべき世界が展開され、そのなかで主人公が「よりどころ」を求めてあがく姿が描かれている。
 そういうディックの世界観が荒々しく、かつ素直に書かれている作品である。
 本書「宇宙の操り人形」を単独の作品として読めば、雑なホラー作品となるのかも知れない。ただ、ディックの作品を多く読んで、ディックの世界と、私たちが住む現実について考えたいと思ったとき、本書はよい道しるべになるであろう。
(2007.03.20)

虚空の眼

虚空の眼
EYE IN THE SKY
フィリップ・K・ディック
1957
 1959年、ベヴァトロン陽子ビーム偏向装置が故障し、電子工学者のハミルトンは妻のマーシャをはじめ、他の7人の見学者らとともに、磁場と放射線のエリアへと投げ出されてしまった。
 そうして、8人は1959年の別の世界で目覚めることになる。そこは、第二バーブ教の神が支配する世界だった。この神は怒りの神であり、呪いの神でもある。同時に、救済の神であり、奇跡の神である。呪いはただちに現実となり、天罰はすぐに現世にもたらされる。怪我をすれば奇跡によって直すこともできる。神は現実に存在し、人々を見ているのだ。当然、異教は呪われる。
 第二バーブ教の世界であることを除けば、ハミルトンがそれまで生きてきた現実のアメリカ社会であることに変わりない。同じ同僚がいて、飲み屋があり、家がある。ただ、仕事の内容は変わり、世界の価値観は変わっていた。
 その世界の原因は? それをつきとめ、ハミルトンたちが第二バーブ教の世界を脱したあとに、また別の世界が広がっていた。どうやったら本当の現実に戻れるのか? 本当の現実に戻るまでにはどれだけの別の世界を過ぎなければならないのか?
 誰かの妄想のような世界であっても、ハミルトンはごく普通の人間として、愚かであると同時に賢い。人間として守りたいこと、守りたい考え、守りたいものを失うまいと絶望的な戦いを続ける。なぜ。なぜならば、それがハミルトンだから。普通の人間だから。
 本書「虚空の眼」では、第二バーブ教の世界を含む3つの忌まわしく、おどろおどろしく、そして、滑稽な世界が描かれ、同時に、「現実の世界」も描かれる。その「現実の世界」は、1950年代のアメリカの姿である。第二次世界大戦後、アメリカと旧ロシアであるソ連(ソヴィエト社会主義人民共和国連邦)による冷戦は、1950年の朝鮮戦争に発展し、核開発競争へとつながった。これと平行する形でアメリカ国内は、赤狩りが横行し、「共産主義者」「共産主義シンパ」に対してアメリカ中で密告と不信がうずまく事態を生んだ。
 誰も信じることのできない世界、真の裏切り者を捜すことができず、裏切らない裏切り者を捜し出しては告発する魔女狩りの世界である。
 ディックは、現実の世界と3つの妄想的な滑稽な世界を描くことで、現実の世界が行き着く先をあばきだし、同時に人間の希望を書き出した。
 笑いながら哀しくなり、恐怖を覚えながら笑うことができる。
 それが、ディックのすごさである。
 ディックが意識しているかどうかは別として、誰もがディックのこの才能を疑わない。
 初期作品として、本書「虚空の眼」は、いかにもディックらしい傑作である。本書はもっともっと高く評価されてもよい作品だ。そう、書かれて半世紀が過ぎ、しかも、作品の舞台は1959年という大いなる過去であるのに、この作品はまったく古くさくないのだ。
 傑作である。
 さて、私の手元にある「虚空の眼」は大瀧啓裕訳のサンリオSF文庫版。1986年7月が発行日になっている。本書「EYE IN THE SKY」は、1957年にアメリカで発表され、その2年後の1959年にはハヤカワSFシリーズで「宇宙の眼」として、中田耕治訳で出版され、その後、1970年のハヤカワ書房世界SF全集に収められていたという。なんとも早い翻訳である。それだけ本書はSFとしてインパクトの大きな作品と言うことであろう。
 ディックの長編では日本にはじめて紹介された作品でもある。早くから注目されていたということで、80年代のディックブーム以前にディックは日本でも読者を得ていたということか。
 その後、サンリオSF文庫が絶版になり、1991年に創元SF文庫で大瀧訳のものが再掲されている。しかし、このサンリオ版には、創元版には掲載されていない「解説」がある。それは、ブライアン・W・オールディスによる1982年に発表されたディック追悼文「フィリップ・K・ディック まったく新しい未解決の問題」である。”今宵わたしたちはよろこび祝うために集まっています。嘆き悲しむ理由はありません……あまり沈みこむ必要はないでしょう。死ぬというようなことは人間にはありふれたことなのですから。”の一文ではじまるオールディスのディックという存在への80年代らしい総括は、今読んでも泣ける。そう、その通り。ディックが見極め、私たちに警告し続けたように世界は進んでいる。ディックはこの現実の世界の恐怖を味わうことなく、無限の世界に行ったのである。
 そして、現実の世界に生きる者たちは、ディックの警句に時折目を覚ましながら、目を覚ましたままで生きるのは辛いと、目を閉じて日々を過ごすのであった。
 読まない方が幸せかも知れないが、読んで生きる方がずっと楽しいから。
 だから、傑作である。
(2007.03.14)

いたずらの問題

いたずらの問題
THE MAN WHO JAPED
フィリップ・K・ディック
1956
 ディック3作目は、1956年発表の「いたずらの問題」。1992年に創元SF文庫より大森望氏による翻訳として登場。名作である。この時分、サンリオSF文庫の再刊や新訳が創元、ハヤカワによってなされていた。いい時代である。
 この未来。
 1972年に戦争が終わる。
 1985年革命が道徳再生運動の創始者ストレイター大佐によって起こり、世界がモレク(道徳再生)の世界と化していく。
 1990年、ストレイター大佐のモニュメントの型ができる。
 2085年、革命後100年に主人公アレン・パーセルが生まれる。
 そして、舞台は2114年。アレン・パーセル29歳。地球。モレクの社会で、アレン・パーセルは妻とともにベッドを広げたらそれだけで一杯になる狭い部屋に暮らしていた。職業、新興調査代理店の創業者社長。彼が暮らす部屋は、彼の両親らが積み重ねてきた地位の結果として得たものであり、この道徳的な世界では高い地位を占める証でもあった。朝になればベッドは消えて、キッチンが自動的に壁からあらわれる。最小の空間、最小の生活。機能性と道徳的行動だけが求められる社会。広告も、看板もない。
 調査代理店は、パケットと呼ばれるモレク企画をテレメディア局に提出し採用してもらう会社である。新たな道徳的価値を映像やコピー、イベントとして社会に導入することを生業にしていた。アレン・パーセルは、その中でも最後発であり、大手とは違って自らのアイディア=新しいモレクの新しい形での提案を強みにしていた。それこそが、アレンの持つ「特殊能力」でもあったのだ。
 しかし、アレンには悩みがあった。ある日、気がつけば、ストレイター大佐の歴史的モニュメントに赤いペンキと電動ノコギリのようなものを使っていたずらをしかけていたらしいのである。なぜ、自分はそのようなことを行ったのか? 自分自身に自信を持てなくなっていくアレン。まして、そのことがばれれば、非道徳的存在として彼の親から積み上げてきた今の地位をすべて失うことになる。
 一方で、アレンには、新たな社会的地位が政府機関より提示される。
 これを受けるべきか? しかし、自分の精神には不安がある。
 彼は、この社会に暮らせず、外の植民星に向かうような人たちに向けて開業している精神医のもとを訪ねることにした。そして、そこでアレン…。
 本書「いたずらの問題」は、初期の作品の中でも、もっとも分かりやすい筋立てかもしれない。そして、もっともディックの理想的な人間像がはっきり出ている作品かも知れない。ディックは、このアレン・パーセルのような人物でありたかったのではなかろうか?
 トラブルもない代わりに楽しみもない、人々への配慮が行き届く代わりに生き生きとした活動もない、そんな道徳的社会。この社会に適応できなければ、地球を離れて植民星に行けばいい。そこには、道徳にしばられない「自由」な世界が待っている。しかし、道徳的生活は望めない。道徳的世界はつまらない。何かが足りない。なんだろう。
 そう、アレン・パーセルのような存在である。「いたずらの問題」なのだ。
 ディックは喝破する。
「いたずら」、つまりは、社会的な価値観とのずれの表出は、ユーモアを生む。いや、ユーモアを持つものこそがいたずらを演出することができる。
 トリックスターの存在。
 それが道徳的な社会に欠けた存在である。
 トリックスターでありたい。
 強い意志を持ち、人間くさく、他人と自分のことを考えることができ、それでいて社会に対しては大胆なトリックスターでありたい。
 それが、ディックなのではなかろうか。
 晩年(50代だったが)のディックは宗教的な物言いに転じていくが、この初期の作品群を読むと、ディックの小説家としての視点のおもしろさがよく見えてくる。
 ディックの作品群の中で、「いたずらの問題」は素直でストレートな作品である。
 名作だと思う。
 ま、大森望訳も読みやすさの理由のひとつなのだけれど。
(2007.03.08)

ジョーンズの世界

ジョーンズの世界
THE WORLD JONES MADE
フィリップ・K・ディック
1956
 2002年、世界はジョーンズの時空に飲み込まれた。1994年、戦争が終わり、世界は相対主義のもとに平穏に過ごすこととなった。戦時中、世界は大きくふたつの勢力に別れ、互いに核を使用していた。破壊と主義のぶつかり合い。その果てに、相対主義が生まれた。「真実」を声高に押しつけてはいけない。核戦争によるミュータントも含めて誰もがそれぞれに生きていくことを認めなければならない。しかし、その相対主義を守るために秘密警察が連邦世界政府の元に置かれ、絶対的真実を人に訴えるものを取り締まり、強制労働させていた。
 1995年、若き秘密捜査官ダグ・カシックが、カーニバルで「個人の占いはお断り」と看板を出した男を発見する。その男こそ、ジョーンズである。
 ジョーンズは、戦時中の1977年、アメリカ中西部で生まれた。1年先を常に経験し、同じ体験を2回繰り返さなければならない運命の元にある唯一の男である。彼は、未来をすでに起こったこととして語る。連邦政府が秘密にしていた「漂流者」という宇宙生命体についても警告したのがジョーンズである。
 未来の真実を語るジョーンズであったが、秘密警察は彼を逮捕したままにおくことはできなかった。なぜならば、それは事実であり、事実を語ることを法律で禁じることはできなかったからである。
 ジョーンズは、自ら定められた時の流れに沿って、教会をつくり、勢力を広げ、ついには、連邦世界政府を倒して自らが権力者となっていく。ジョーンズは常に1年先までを知っていたから、彼にとっては困難なことではなかったのだ。そう決まっていただけのこと。
 ジョーンズの存在を「発見」した、ダグ・カシックは、その後も、ジョーンズの勢力に取り込まれていく妻のニーナとともにジョーンズの世界に翻弄されていく。
 もうひとグループ、ジョーンズの世界に翻弄されそうになっていた存在がいた。7人の地球の生態系では暮らすことができず、政府の研究機関がつくった「避難所」と呼ばれる独自の大気、状況の中だけで生きることのできる「新人類」である。彼らはひとつの希望でもあった。
 ディックの長編には、登場人物にとって当たり前だと思っていた世界/生活が実はまがいもので、本当の世界は違ったものという図式を持つものが多い。シミュラクラ、擬態、まがいもの、にせものに汚染されていき、本物だと、真実だと思っていることが、次第にゆらいでいく。そのなかで、登場人物の幾人かは、時に自分でもおもいもよらない勇気というか、人間らしさを発揮し、そのときできることを、ただ行う。なぜそれをやったのか、自覚のない登場人物も多いが、それによって物語は展開し、それまでのシミュラクラ、擬態、にせもの、まがいもの、あるいは世界は一変する。それは物語上の本当の世界かもしれないし、物語上のもうひとつのシミュラクラ、擬態、にせもの、まがいものかも知れないが、間違いなく、世界はそのありようを変える。
 本書「ジョーンズの世界」は、1年先を体験し続けるジョーンズという存在によって、1年先の未来が「確定する」ことにより、「今」が揺らいでしまう。わからないはずの「今」と「次の瞬間」が、ジョーンズという存在によって当然起こるべき1年前のできごとになってしまうのだ。しかし、ジョーンズ以外の人々にとって、1年先は未来であり、今と次の瞬間は不安定なままである。だから、ジョーンズ以外の人々にとって、ジョーンズの存在を知ること、関わることは、安定した世界の崩壊となる。
 なんとまあ。
 もちろん、ジョーンズにとっても、1年先より「先」は分からない。だから、本当は、世界は大きく変わっていないのだが、人々はそれでも大きな影響を受けるのだ。
 本作「ジョーンズの世界」は、1956年に発表されたもので、ディックの長編としては第2作という位置づけになっている。初期の作品は、物語に文章的破綻や論理的破綻が少なく、その分だけ理解しやすい。特に本書は、1年間の先を知ることができるジョーンズという座標があるだけに、とても分かりやすく、また、その周辺で繰り広げられる物語も比較的単純である。
 それだけに、ディックの世界に対する怒りや不安とともに、人や人類に対する希望がはっきりと書かれていて、ディック入門書としてはおすすめの作品である。
 そうそう、体制や人々の思想の流行なんて、10年も時間をおけば簡単に変わるのだ。
 だから、もし、今、辛い時期であるとしても、じっと我慢することも大事だ。
 もし、今、すてきな社会だと思っていたら、どこかに「まがいもの」が潜んでいるに違いない。そのことは自覚しておいた方がいい。
 ま、そういうことで。
(2007.03.04)

星からの帰還

星からの帰還
POWROT Z GWIAZD
スタニスワフ・レム
1961
 フォーマルハウトへの宇宙探査隊が地球に帰還した。ハル・ブレッグ、パイロット。30歳のときに探査隊に参加し、現在、40歳。しかし、地球では127年が過ぎていた。
 世界は一変していた。
 もはやだれも宇宙に関心を持つものはいない。
 平和で、豊かで、誰も何も傷つけず、おだやかで、恐怖を味わうこともない新たな社会、新たな人間、あらたな地球がハル・ブレッグの前にあった。
 彼は旧人であり、野蛮人であり、猛獣か珍獣であった。そして、おだやかでやさしい社会においては、彼は自由でもあった。
 宇宙は厳しいところだった。生と死は常に隣り合わせ、多くの乗組員を目の前で失った。友人を、仲間を、厳然とした宇宙の厳しさの中であきらめ、捨てなければならなかった。そうして、彼は生きて帰ってきた。しかし、そのことを悲しむ人も、喜ぶ人もいない。ただ、彼らは迎えられ、この社会にとけ込むよう手助けされるだけの存在に過ぎなかった。
 失った仲間への漠然とした罪悪感は、この新しい人々と接するほどに深まり、顕在化していく。なんのために旅立ったのか? なんのために死んだのか? なんのために帰ってきたのか?
 彼は生を女に求め、同じく帰還した友は宇宙に求めた。
 スタニスワフ・レムは、本作「星からの帰還」で、現在に内包される未来の形を鮮やかに描き出し、現在の社会の方向性に内包する人間の変質の問題を鋭く切っていく。1961年、冷戦にともなう米ソ宇宙開発競争のまっただ中で「東側」のポーランドに住むレムが、米ソという体制の違いに関わらず共通して持っている社会の問題を喝破した作品である。当時の延長上には主人公のハル・ブレッグが参加したような宇宙探査計画があった。より遠くに人類の(あるいは体制の)版図を広げること、そのためにはより大きな計画、より深い科学、より高度で重大な技術と重厚な産業が必要とされていた。
 この延長上に、星から帰還したハル・ブレッグたちがいる。
 そして、科学、技術の急速な発展は、思わぬ方向に人類を導く。個人と社会の安全への志向、個人と社会の安定の追求…、本作品では生物学的解決による人類の攻撃性/恐怖の除去と、旧世代との世代交代、安全技術の高度化による安心できる社会の達成によって安全と安定による社会を築き上げた。それが、ハル・ブレッグたちが帰ってきた社会である。
 それは、人間や社会に対する価値観を変えるものとなる。
 宇宙に行くことが、論理的に理解できない社会。
 人や自分を殺したり傷つけることがないかわりに、リスクを冒さない社会。
 または、限られた人やロボットにのみ、リスクを冒させる社会。
 はて、どうだろう。本作「星からの帰還」が書かれてまもなく半世紀、世界はどうなっているだろうか? 科学は、技術は、そして、社会は。
 レムの洞察力には恐れ入る。
 あと50年したら、もう一度読んでみたい。
 って、生きていないか?
(2007.03.01)