時は乱れて

時は乱れて
TIME OUT OF JOINT
フィリップ・K・ディック
1959
“男の名はレイグル・ガム。独身、46歳。アメリカの一地方都市で、この男のことを知らぬものはいない。新聞の懸賞クイズ『小さな緑の男は次にどこへ行くか?』に毎日毎日勝ち続けている男なのだ。時は、1959年。(中略)そこで見た新聞の日付は1997年5月10日、なんと彼レイグルに関する記事が載っていたのだ(後略)”今はなきサンリオSF文庫の裏表紙に書かれている紹介文の冒頭である。
 本書「時は乱れて」は1959年に発表され、日本には1978年の夏にサンリオSF文庫から翻訳出版された。最初に読んだのは、おそらく1980年から83年にかけてのどこか。まだ、21世紀は未来だと信じていた頃のどこか。そうして、作品の舞台となっている1997年を10年過ぎてしまった2007年になって再読している。そうして、本作品のなかにあるような1997年は訪れていないようだが、別の1997年があり、今がある。あああ、自分の中の時が乱れている。
 いや、そんな話ではない。
 ん? そんな話なのか?
 自分が1959年に生きているのに、どこか、何かがずれている。そのずれ=違和感を持つようになってしまった。主人公だけでなく、居候先の妹夫婦とその子どもも、違和感を感じる。何か、本物ではない感じ。それは自分がおかしくなっているからなのか、それとも、世界がおかしいのか? 彼には分からない。ただ間違った感覚だけが自分を責める。自分がおかしいのか、世界がおかしいのか、それを確かめたいと、レイグル・ガムは切に願うようになる。もし、世界がおかしいのならば、なぜ、世界はおかしいのか? だれが世界をおかしくしているのか、本当の世界はどこかにあるのか?
 悩み、苦しみ、そして、動き出す。
 自分が何者かを知るために、自分が狂っていないことを信じるために、自分を信じるために。
 自分が存在している世界に違和感を持つということは、そして、その違和感を持つ自分を信じるということは、世界の方が間違っているということなのだ。自分が本来属しているところは別にあるということなのだ。
 その悩み、苦しみ、行動は、滑稽であり、哀しく、そして、身につまされる。
 そんなずれや違和感を持ったことはないだろうか?
 そうして、自分自身がおかしくなったのでは、いや、ただ疲れているだけだと思ったことはないだろうか?
 もしかすると、自分は何かの舞台の上に立ち、その脚本に沿って、定められた演出通りに演技をしている存在ではないかと感じることはないか?
 そして、あなたは望んで、その舞台に立ったのではないか? ただ、そのことを思い出せないほど演技に魂を入れ込んでいるだけではないのか?
 初期のストーリー展開に破綻がなく、「わかりやすい」結末、筋立ての作品群の中でも、本書「時は乱れて」は、群を抜くわかりやすさでディックらしい世界を描き出す。1950年代の現実の世界やその不安を背景に、目に見える形の世界戦争、最終戦争、核戦争が物語の底流にある。その恐怖感、不安感は、現在の我々にはもはや理解できないかも知れない。しかし、目に見えない形で、戦争は進行し、人は死に、生きながらに殺され、そして存在に対する不安は増していく。それは変わらない。
 残念ながら、21世紀の今なお、ディックの作品が持つ意義は失われず、より増している。その意義とは、私たちが生きている世界の真実をかいま見る方法の提示と、希望の持ち方への提示である。
 聞けば、本書「時は乱れて」は、サンリオSF文庫のディック作品の中で、他出版社からの復刊(再訳)が行われていない数少ない作品のひとつだそうである。
 一日も早く早く復刊し、多くの方に読んでいただきたい。
(2007.02.28)

高い城の男

高い城の男
THE MAN IN THE HIGH CASTLE
フィリップ・K・ディック
1962
 時は1962年。第二次世界大戦後15年後のサンフランシスコ。先の大戦は1947年、アメリカに分割協定線が引かれ、幕を閉じた。アメリカの太平洋側諸州は日本、大西洋側はドイツが実効支配するもうひとつの1962年。サンフランシスコには輪タクが走り、日本人の趣味はアメリカの戦前の文化物を収集することであった。
 ドイツは、化学重工業を発展させ、アフリカでの大量虐殺を覆い隠すかのように、月、火星、金星へと宇宙開発の道を突き進んでいた。しかし、ボルマン首相の健康不安説がささやかれ、ゲッベルス博士が首相になるのではないかと、政争の予感に満ちていた。一方、日本はドイツとの間の緊張の高まりを感じながらも「大東亜共栄圏」建設のために彼らなりの論理を押しすすめていた。
 サンフランシスコ第一通商使節団代表の田上信輔は、ドイツの同盟国スエーデンからプラスチック事業の交渉という名目で来訪するバイネス氏をつつがなく迎えるべく心を砕いていた。彼は、言葉通りの人間ではなく、なんらかのスパイであり、日本とドイツの関係にとって重要な情報をもたらす人物かも知れないのだ。田上は易教の易を立てて道を占った。
 ロバート・チルダンはアメリカ美術工芸品商会を経営し、アメリカの古物を日本人に売りさばいていた。田上氏は上顧客のひとり。そして今、若い日本人の夫婦を客として迎え入れることができ、新たな商機が開かれようとしていた。一方で、彼は自分が取り扱っていた商品の一部が「まがいもの」であることを知り、驚愕する。
 フランク・フリンクは仕事を失った。妻に逃げられ、仕事を失ったが、サンフランシスコを離れるわけにはいかない。彼はユダヤ人であることを隠して生きているから。もし、ユダヤ人であることが分かれば彼はドイツに引き渡され、そして殺される。それを防げるのは日本政府だけなのだ。フランクは易を立てて道を占った。
 ジュリアナ・フリンクは柔道の教師としてコロラド州キャノン・シティでささやかに、しかし、時にゆきずりの男に身を委ねながら生きていた。今、トラックドライバーの助手でイタリア系のジョー・チナデーラと出会い、彼と新たな旅に出ることにした。彼は手元に「イナゴの身重く横たわる」という一冊の発禁書を持っていた。著者はホーソーン・アベンゼン。高い城に住む男である。発禁にしたのはドイツ政府。なぜならば、その本はドイツと日本が敗戦した世界を書いているからだ。日本では話題になっただけだが、ドイツ政府はアメリカの北部、日本側に住む作者を殺そうとやっきになっていた。この本の作者に会いに行こうかと、ジュリアナは易を立てて道を占った。
 もし、日本とドイツが支配する世界になっていたとして、世界は今よりもよくなっていただろうか? 人々は今よりも幸せで、賢く生きていただろうか。
 もし、クリントン政権のあと、2000年の大統領選挙で民主党のアル・ゴアと、共和党のジョージ・ブッシュ(Jr)のフロリダ州の選挙結果の不透明な結果がゴアに傾いていたら、2001年の「911」は起こらなかっただろうか。そして、アフガニスタン、イラクを巻き込み、対立を表面化、激化させた「テロとの戦い」は起こらなかっただろうか。
 起こらない21世紀を迎えたからといって、人々は互いに争わず、幸せに、賢くなっていっただろうか。
 答えはない。
 決定稿もない。
 ただ、今を生きるのみである。
 さて、本書「高い城の男」は1962年に発表され、もうひとつの1962年を舞台にした作品である。そのため、当時の米ソ冷戦状況、宇宙競争、核軍拡といった政治状況や、プラスチック産業など石油化学産業、自動車産業の急速な発展などの時代的な背景を受けて書かれている。そのことを理解しながら読むのと、時代性を話して読むのでは受ける印象は大きく異なるであろう。
 また、本書では、ドイツはあいかわらずユダヤ人虐殺、アフリカ人虐殺など人種的な差別と圧政を敷き、一方日本は人種的な差別がありながらもそこまではひどくなく、一種の公正さを持っているように書いてある。この本を読む際に、日本人である「私」が陥りやすい罠がそこにある。本書「高い城の男」は、ひとつの小説に過ぎず、たまたま設定として日本とドイツという戦勝支配国の中での人々の生き方を書くために両者を誇張しているに過ぎない。本書の中のドイツの位置づけを容易に日本に置き換えることは可能である。ただ、本書「高い城の男」は、アメリカ人であるディックが、第二次世界大戦中のアメリカ国内での日本人に対する人種差別政策があり、敵国であるドイツ人と日本人に対する扱いの差があったことを受けて本書のような位置づけをつけていることに注意しなければならない。
 それらを踏まえた上で、幾人かの登場人物がそれぞれの価値観から、「徳を積む」としかいいようのない行為をしていることに注目したい。人種でもなく、身分でもなく、地位でもなく、ただ人間としてできうる自分のためだけでない行為をするのだ。それがまがいものの世界に住んでいることを自覚していたディックが終生持ち続けた希望である。
 初期の作品には、ディック作品独特のめまいに似た世界観を堪能することはできないが、素直に書かれている分だけ、ディックが書きつづる「希望」のありようが分かりやすい。
 もっとも、まがいものに満ちためまいに似た世界を提示する中期、後期の作品の方が、よりささやかな「希望」に対する感動は生まれるのだが。
 疲れているときに、ディックはよく効く。
ヒューゴー賞受賞作品
(2007.02.23)

偶然世界

偶然世界
SOLAR LOTTERY
フィリップ・K・ディック
1955
 ディックの処女長編で、ハヤカワSF文庫には昭和52年、1977年に「偶然世界」として登場している。あとがきによると、いわゆる銀背と呼ばれるハヤカワSFシリーズで「太陽クイズ」として訳されていたものを改題したものである。私は、銀背とは縁がない世代で、ちょうど銀背が終わり、ハヤカワのSF文庫が白背と青背の入り交じっていた時代に海外SFの文庫を読みあさりはじめた。ディックは、私が高校生になり、高学年の頃から本格的に読み始めたのだが、それはそのまま1980年代であった。そして、ディックの死の直前であった。私はディックの死と前後して、ディックにはまっていった。80年代を通して、ディックの作品は次々と翻訳され、私はその流れのままに読み続けてきた。ハヤカワ、創元、サンリオ、あるいは筑摩、晶文社…。次々と出版され、次々と読み下していった。
 いつ本書を読んだのだろうか。忘却の彼方だが、高校の終わり頃だろうか。以来、少なくとも1度以上再読している。
 処女作には、作家のすべてが込められているという。ディックの場合はどうだろう。ディック独特の破綻したかのようなストーリー展開はなく、つじつまのあった作品である。後の作品に見られる主人公や読者が底を抜けたような世界のずれに落ち込むような感覚は、まだ、ない。それをディックの最大の特徴であるとすれば、この処女作はディックらしくない。しかし、主人公が、混乱した状況の中で、人間としてできる最大の勇気あるいは決断、あるいは、公正さ、あるいは定義のしにくい「人間らしさ」を発揮するときに見せる姿は、まさしくディックの作品である。ディックが書きたいことが、本書にはいかんなく、素直に発揮されている。そして、ディックの恐るべき世界を見通す能力も、この作品にいかんなく発揮されている。
 簡単にストーリーを紹介しよう。
 舞台は2203年、地球の人口は60億人。インドネシア帝国のバタビアに世界政府の執政庁があり、執政庁とヒル・システムと呼ばれる大企業グループによってコントロールされていた。人々は、能力に応じて階級が与えられ、ヒル・システムや執政庁と誓約し、システムに従属することで階級に見合った仕事を得ることができる。このほか、世界は無数の無級人によって成り立っていた。さらに、執政庁には、執政庁のシステムを守るテレパスたちがいた。執政庁の長はクイズ・マスターと呼ばれる。クイズマスターは60億の人々からランダムに選ばれるのだ。ただし、クイズマスターは選ばれた瞬間から、次々に公的に選抜された暗殺者に狙われ続けることになる。それを交わしながら、世界を統治するのである。この仕組みこそが、世界を安定させてきた。
 長年、世界を牛耳っていたベリックが失脚し、新たなリーダーが無級者から選ばれた。ベリックは、権力を取り戻そうと策略を講じる。その策略に巻き込まれたテッド・ベントレイは、自らの欲と世界の公平さの間で揺れ動いていく。
 本書「偶然世界」は、1950年代の作品で、2200年代までにいくつかの世界戦争があったことを押さえながらも、60億人という人口を提示している。
 また、1950年代以降の消費社会の延長として、1980年代に、大量の生産物を、経済システムを維持するために破壊、焼却する事態を招くことも予見している。正しい予見である。
 そして、本書の中心的なアイディアである、ゲームによる社会という外挿につながる。消費のシステムとしてクイズ=抽選による商品のプレゼントの仕組みができ、それが自律的に拡大、発展した結果として、権力も抽選の対象となり、社会や経済が根本的に大きな変動を招くという外挿である。これは、現実の世界ではそのままには起こっていないが、十分に読者を考えさせることのできる設定である。
 そして、どんな社会、経済システムであっても、世界は公正ではなく、人間は自己の欲のなかでうごめき、システムの裏をかこうとしつづけるのだ。
 どんな普通の人でも、どんな人生であっても、その人生の中で、人はときに自分自身でもびっくりするような「なにか」を行う。しかも、自分の意志で。そして、他の誰かに、「なにか」を与えることがあるのだ。そうやって、危うい人間たちの世界は、危ういながらもなんとかなってきたのだ。その「なにか」がディックの作品に描かれており、疲れたときや、落ち込んだときに、私をはげましてくれるのである。
 ありがとう。
(2007.2.15)

火星のプリンセス

火星のプリンセス
A PRINCESS OF MARS
エドガー・ライス・バロウズ
1917
 時は1866年、バージニアの元南軍騎兵隊大尉ジョン・カーターはアパッチ族に追われてとある洞窟に入り、そこで深い眠りに落ちてしまう。そして、目覚めるとそこは火星であった。四本の腕を持つ緑色人の戦士タルス・タルカスと、地球人そっくりの赤色人で絶世の美女のデジャー・ソリスとともに果てしない冒険の物語がいま幕を開く。史上初、地球を離れ、火星に旅をした男が登場した。SFの創世記を飾るバロウズによる火星シリーズである。
 1917年! 翻訳の初版は東京創元社版で1965年! 私の手元にあるのが1978年の第41版! すごい。もう90年も前の作品なのだ。それでも、火星のジョン・カーターという名前に聞き覚えのある人はSFファンでなくても多いだろう。
 本シリーズを最初に読んだのは、ジュブナイル版であるが、岩崎書店や偕成社などさまざまなところから出されているためどれだったかは記憶にない。おそらく小学校中学年か低学年であるから、1970年代前半のことであろう。遠いなあ。
 今回約25~30年ぶりに再読してみて、その設定である時代の遠さに気が遠くなった。1860年代だって、車もない、アメリカも南北戦争がようやく終わった頃ではないか。悪いインディアン、あたりまえの奴隷制度…、くらくらする。そんな時代に、不死者であるジョン・カーターが瞬間移動して火星に行くのだ。本人の意志ではなく、危機的状況で意識を失うことで行くことになるらしい。まだ、第一次世界大戦すらはじまっていないのだ、ほかにどうやって火星に行けばいいというのだ。
 火星は、地球人類よりもはるか先の文明を持っていたが、すでに盛りを過ぎ、資源を使い果たし、大気と水も不足する中で、緑色人同士が戦争を行い、赤色人同士も戦争を行い、さらに、緑色人は赤色人を攻撃するという滅び行く中の群雄割拠の時代となっていた。そこにあらわれた超人ジョン・カーターが火星に平和をもたらし、自らは盟友タルス・タルカスや王女デジャー・ソロスの愛を得るのであった。
 なんと心を躍らせたことだったか。
 21世紀になり、本書「火星のプリンセス」は歴史的な価値をもつ「古典」となった。分析や評価の対象なのである。たとえば、物語のパターンは、不老不死のヒーローが、争いの絶えない異人種の中に愛を見いだし、平和をもたらす話であり、これはファンタジーの典型的なパターンで、のちの名作「指輪物語」(J・R・R・トールキン)の中にも同じような構図がみられる。
 その構図のままに舞台設定を宇宙に広げたことで、アメリカにおいてSFは開花する。それは、ベム&美女&ヒーローというスペース・オペラの典型を生むことになった。華やかでどぎつい表紙、単純な勧善懲悪のストーリー、そこから小説や映画のマーケットが生まれ、そのマーケットのおかげでSFはたくさんの作家を生み、内容を深めていく。
 その流れを生み出したのが本書「火星のプリンセス」である。
 一方、本作品には、20世紀初頭の複雑な人種的視点も見られる。作品の頭では、アメリカの奴隷制や(ジョン・カーターは南軍なのだ)、インディアン=悪といった現在では書かれることのない典型的な二元論と差別が表現されているが、その一方で、バロウズの生みだした火星では、主人公のジョン・カーターは緑色人と対等につきあい、お互いにその力を認め合い、有色人種の「赤色人」の美女に恋をして結ばれるのである。
 当時の価値観やそれに対するバロウズの視点が見受けられるが、このあたりも、歴史的な背景が分からなければ意味を成さないか、理解しにくいであろう。
 ファンタジーとは異なり、初期のSFは一般読者に荒唐無稽さを受け入れさせるために、伝聞や聞き語り、日記や記述の発見と掲載といった文学でも見られた形態をとることが多い。それゆえに、発表時よりもやや過去から物語がはじめられる傾向を持つ。現実の人間社会の様子を記述することになり、それが物語に時代性を残すことになる。
 そのおかげで、当時の考え方や風潮をかいま見ることができるのだが、長期に作品が残り続けるためには、このあたりが障害になることもあろう。難しい問題だ。
 ただ、1999年から2002年にかけて創元SF文庫が合本形式で再版しており、21世紀に確実に本シリーズが残ることとなったのはうれしい限りである。
 私は、火星シリーズ、金星シリーズ、地底シリーズ(ペルシダー)を揃えて持っていたはずなのだが、手元には欠番が多い。火星シリーズも半分ほどしか手元にない。やはり、合本を手に入れておくべきだろうか。
(2007.2.7)

ネットの中の島々

ネットの中の島々
ISLANDS IN THE NET
ブルース・スターリング
1988
 1990年11月にハヤカワ文庫SFとして邦訳出版された作品である。タイトルはもちろん、A・ヘミングウエイの「海流の中の島々」からのオマージュであろう。訳者あとがき「おまたせしました」と書いてあるところが、時代の空気を映し出す。本書は「ネットの中の島々」は1988年にアメリカで出版されており、約2年経たずに邦訳されたのだが、サイバーパンク・ムーブメントのひとりとして、また、コンピュータやコンピューターネットワークに対する造詣の深さや、日本の作家などとの交流の深さから知名度の高かったスターリングの作品故に「おまたせしました」だったのである。
 本作「ネットの中の島々」は当時からすれば35年ほどの近未来小説である。2023年、20世紀の遺物である大量破壊兵器や大規模な政府軍を根絶させた世界規模の軍廃後、人々が核の恐怖におびえなくてよくなった世界が舞台である。アメリカは衰退し、世界的な通貨はヨーロッパのエキュー(ECU)となっていた。ソヴィエト連邦は存続していたが、消費社会主義化し、もはや超大国ではなかった。石油資源が底をつき、原子力も規制された世界で、あらゆる通信・情報の技術複合体である「ネット」が世界を「ひとつ」にし、そのネットのおかげで世界は企業経済社会と化していた。情報が世界の真の通貨であり、多国籍企業がそれを動かしていた。そんな多国籍企業のひとつライゾームは経済民主主義にのっとった共同体多国籍企業である、利益集団ではなく個人の能力の発揮と共同体意識によって「なすべきことをなす」社員(アソシエーツ)によって成り立つ新千年期の思想に基づく企業である。
 しかし、世界には影がある。ネットを悪用し、小規模な国家を事実上乗っ取り、麻薬や薬物、通貨、情報の避難所として世界で蠢くネット海賊たちである。そして、もうひとつの影はアフリカ。前世紀から続く混乱と内戦と飢餓と破壊。ネットから切り離され、新しいことではなくなり、「ひとつ」の枠外にある大陸。
 ライゾームは、ネット海賊を崩壊させる手段として、彼らを共同させ、組織化し、表のネット社会に入ることを提起する。大きくし、システム化=官僚化することによって彼らの裏の面を失わせようというのだ。  ライゾームの社員、ローラ・ウェブスターは、夫のデイヴィッド、生まれたばかりの娘を抱えてアメリカ合衆国テキサス州ガルヴェストンの浜辺でロッジの支配人を務めていた。ロッジはライゾームのプロジェクトで、人的ネットワークの場である。彼女のロッジが、データ海賊の会議の場となった。しかし、グラナダの指導者が暗殺される。目の前で人が兵器によって殺されたことに衝撃を受けたローラは、データ海賊との調整に本気で乗り出していく。それは、グラナダ、シンガポール、そして、アフリカ大陸への真実を求める苛酷な旅の始まりであった。いや、真実が苛酷だったのだ。
 はじめて読んだときから17年が過ぎた。1988年から2023年のちょうど真ん中まで来たところでの再読である。それゆえの古さと新しさの入り交じった作品として読める。
 1988年に発表ということで、本書の1990年の訳者あとがき時点でさえ、ドイツの東西統一やソヴィエト連邦の崩壊によって、世界の設定が「古く」なってしまっている。ECU(エキュー)も、もう覚えている人、知っている人が少なくなったのではないか。通貨としてのユーロが登場する前に各国の通貨から移行するための暫定的な通貨単位(兌換基準単位)としてたしかにECUというのがあった。
「ネット」についても同様で、テレックス、ファックス、電話、ビデオ電話、録画ビデオ通信、などの渾然となったものを「ネット」としている。方向としては、コンピュータ技術による通信と放送の垣根が消え、情報の流通が簡単になった社会ということでインターネットに近いのだが、そこまでのビジョンではない。だって、1988年だもん。光ファイバーや衛星回線を活用したり、ビデオグラス(サングラス状の即時通信型ビデオカム)が出てきたり、情報端末兼電話としての腕電話が出てくるなど、現在や近未来と近いものもある。腕電話なんて、今の日本の携帯電話上位機種とそっくりで、ID確認用などの機能も持っている。
 しかし、細菌培養による単細胞タンパク質の食料「スコップ」が健康食品として普及しつつあり、健康食品マニアにとっては農業によって生産される穀物や野菜が地球環境に悪影響を与え、なおかつ、自然毒(アルカロイドなどだ)いっぱいの危険な食品であると見なされていることや、肉食への忌避感など、現実には起きていない状況も語られる。
 スコップ中心の食生活…、いやだなあ。単調だろうなあ。いや、きのこや発酵食品は大好きだが、工業的生産だと衛生管理などといって、味が単調になるだろうから。私は、自然環境から生み出されるぜいたくな動植物菌類の食品が好きだ。おいしかったり、そうではなかったり、その間の様々な味と香りと色と食感のバリエーションが好きだ。グルソーや加工食品を使えば、毎回同じ味を出すことができるが、そんなものを食べたいわけではない。同じような調理でも、少しずつ違う味、それが楽しいのだ。
 っと、食論ではなく、SF論だった。
 もちろん、過去17年の変化を見れば、これから17年の変化で何が起こるかは分からない。
 石油の高騰、バイオエタノールやバイオディーゼルに対する「地球温暖化防止、二酸化炭素削減のための」志向などをみれば、グルタミン酸ナトリウムなどを生産している多国籍化学企業が単細胞タンパク質を健康食品として出しかねない勢いであることは確かだ。
 本書「ネットの中の島々」は、データ海賊という形で、様々なものが情報化されることで、個人情報、コンテンツ、経済情報が簡単に盗まれ、悪用され、闇の流通に化することを喝破している。また、情報過多の結果として、情報対象でなくなることで、現実が「ないこと」になってしまう恐れや、情報アクセスから遮断されることで、さらなる窮地に追い込まれる地域の人々が出るという危険性も予見している。それは、新たな戦争を生むのである。
 2007年の今、まさにそういう新たな戦争に満ちた社会にいる。この新たな戦争の形態は、表面に見える軍隊の派遣やテロ、戦闘行為よりも恐ろしいことかもしれない。
 ちょっとした過去を振り返り、ちょっとしたあったかも知れない少しずれた未来を見ることで、今と、少し先を考えることができる。その原動力になる力をSFという小説ジャンルは持っている。
 登場時に物議をかもした本作品、設定が現実の歴史の動きとは異なっているが、決してその価値が失われた訳ではない。
 もし、2023年に読むことができたら、もう一度、ちょっと過去を振り返り、ちょっと未来を見てみたいと、思う。
キャンベル記念賞受賞作品
(2007.1.31)