星々へのキャラバン

星々へのキャラバン
THE QUIET POOLS
マイクル・P・キュービー=マクダウエル
1990
 2083年に初の恒星間世代船ウル号がイプシロン・エリダニへ旅立った。そして、11年後、2094年が本書「星々へのキャラバン」の舞台である。2隻目の恒星間世代船メンフィス号のタウ・セチへの出発を前に、世界は二分されていた。宇宙へ行きたいものと、留まりたいもの、に。
 宇宙時代、人類は、衛星軌道上などに一部の者たちが居を構えていた。
 地球上の人類は80億人。
 恒星間世代船で人類を太陽系外に広めようという壮大な計画「ディアスポラ事業」を立て、実現に向けて資源を注ぎ込んでいるのは超巨大多国籍企業のアライド・トランスコンである。どうやらロックウェル、エクソン、三菱などの多国籍企業がが合併してできた企業らしい。今を持って世界には国があり、国境があり、政治による統治が行われているようだが、アライド・トランスコンと例えばアメリカ政府との関係などはよくみえない。
 さて、アライド・トランスコンがその財を尽くして宇宙船を建造し、物資を送り込み、人を選び、旅立たせるのだが、その理由は不明である。
 メンフィス号に乗れるのは10000人。優先権を持っていても、選ばれるとは限らない。どうしても行きたいものたち。そして、行けないことが分かっていても、行きたくてしかたがないものたち。その一方で、行きたくないものたち、その計画自体を否定する者たちもいる。ディアスポラ事業に対し、地球の資源が収奪されていると訴える団体ホームワールドの首領エレミアは正体不明、神出鬼没の存在であるが、ディアスポラ事業に大きな打撃を与えてきた。
 エレミアを追いつめたいと望むアライド・トランスコンの警備局長ドライクの執念、ディアスポラ事業を何があろうと成功させようと全勢力を注ぎ込む長官のヒロコ・ササキ。そして、何とか失墜させたい正体不明のエレミア。さて、メンフィス号は無事に出発できるのか?
 そして、なぜ、人はしゃにむに「外」へ行きたがるのか?
 実は、そこには人類の奥底に秘められたある秘密があった。
まあ、それはともかく、20世紀の終わりにエイズによって世界の性と倫理は打撃を受け、保守化し、そして性と倫理の揺り戻しが起きた。それと呼応するかのように、経済的な理由もあって大家族=複数婚の歴史が始まる。男性2人と女性1人、あるいは2つのカップルなどが「結婚」することがおかしいことではなくなった世界である。
 主要登場人物のひとりクリスは、ふたりの女性と同居していたが、疎外感を味わいながら仕事を続けていた。田舎の父親ともそりが合わず、常に自分自身に居心地の悪さを感じている。
 クリスの心の奥を探すことで、外を求める人の業と、内へ留まる人の業、そして、人の心の闇を知り、物語に深みを増すことができる、かもね。
 本書「星々へのキャラバン」は、さらりと読める作品だけど、よくわからないんだ。いや、ストーリーや、人類の「謎」は、はっきりと書いてあるので、作品として破綻しているわけではない。おもしろいと思うよ。ただ、この作品、いや、作者のキュービー=マクダウエルの持っている理想主義というか、楽観主義みたいなものがどうにもよく分からない。
 企業の自然や環境に対する収奪行為を責めているようでいて、一方で、それが結果的に人類の必然であるといった見方もしている。エレミア側にも共感しつつ、しゃにむに宇宙に出ようとする魂にも共感する。もちろん、人間なんだからそう割り切る必要はないけれど、何が書きたいの? ってちょっと突っ込みたくもなる。とりわけ後半になると、クリス君の心の闇と葛藤みたいなものが全体をつなぐ糸になってきて、軽いのか重いのか分からなくなる。作者の持ち味なんだけど…。
 ああ、すごくリアルっぽく書いてあるのに、リアリティ感がないんだ。
 それは、2007年に再読しているからだろうか。最初に読んだのは1991年。エイズが騒がれ、インターネットはまだ普及しておらず、パソコンもスタンドアローンか、せいぜいパソコン通信の時代であり、日本はバブル経済後の円高バブルの時代で、世界的企業は環境問題や人権問題で悪とされた、善悪がかろうじてはっきりしていたものの、そろそろ崩れかけてきた時代である。
 いまもエイズは深刻だが、インフルエンザのパンデミックにおびえ、世界経済の変調におびえ、地球規模の気候変動におびえている状況下で、本書「星々へのキャラバン」のような楽観的技術論や世界観がちょっと読んでいてつらいのかもしれない。
 うーん。あと10年したら、また違った風に読めるのだろうか。
(2007.1.27)

ホワイト・ライト

ホワイト・ライト
WHITE LIGHT
ルーディ・ラッカー
1980
 りんりん。ラッカーのデビュー長編だぜい。原題は、「ホワイト・ライト、あるいはカントルの連続体問題とは何か?」だってさ。処女長編は「時空ドーナツ」なんだけど、出版されたのはこっちのが先だ。舞台は1973年10月31日、ニューヨーク州バーンコ。主人公は、ある世界ではルーディ・ラッカーかもしれない州立大学数学講師のフィリークス・レイマン。幼い娘と愛しいが喧嘩ばかりの妻、高等数学にはまったく興味のない学生、何の楽しみもない田舎町…。彼は無限について考えていた。
 無限には何種類もある、らしい。
 私が住んでいる狭い世界観の中では無限は無限にすぎないのだが、もっと大きく(あるいは小さく)世界を広く広くとらえていくと、無限は様々な顔を見せはじめる。
 無限のありさまについてカントルの連続体問題は何かを言っているらしいよ。
 そのことを解き明かしたいレイマン君は、ちょっとぼんやりさん。
 ある日、墓場で軽くあっちの世界に行ってしまう。
 そこでゴキブリのような別世界人を道連れに旅をしたり、アインシュタインやカントルやヒルベルトにも出会ったりする。そうして、なんとかこっちの世界に帰ってきた彼は、あっちの世界で得た無限の操作によって、世界を変える超物質を生み出す力を得たのだった。って、こう書くとなんかテクノSFっぽいでしょう。んなわけあるかい。
 ま、とにかく無限だよ。
 なんとなく、無限ってすごいなあ、とか、数学って変なことやっているなあ、とか、そういうことがわかったような気になるところが、ラッカーのおもしろさ、さ。
 そうそう、家族はやっぱり大切だよね、っていう話でもあったりする。
 べいべい。
 追記 ラッカーはスタニスワフ・レムの「泰平ヨン」シリーズがお気に入りだったようです。本書「ホワイト・ライト」文中にちょっとだけ出てくるのだ。
(2007.1.27)

宇宙創世記ロボットの旅

宇宙創世記ロボットの旅
CYBERIADA
スタニスワフ・レム
1967
 本書「宇宙創世記ロボットの旅」は「今はむかし、宇宙にはまださしたる乱れもなく、星はみな、満点に整然とならんで」いたころ、全能の資格を持った宙道士クラバウチュスとトルルが宇宙を旅して世界の諸問題を解決する物語である。「今はむかし」といっても、現世の我々人間にとっては遠い未来。すでに有機体の生命はなく、機械知性が進化の後に宇宙に満ちている時代のことである。
 機械知性=ロボットの星々、国々にもさまざまな王がおり、さまざまな問題を抱えている。戦いにあけくれる王、敵国の皇女に恋をした王子、かくれんぼに凝ってしまった王に、強力な獲物を狩ることばかりを追求する王、存在が高度に数学的な竜に悩む国もあれば、革命で星を追われた王もいる。この難題に取り組み、あれよあれよと解決するのがこのふたりの全能なるところである。
 1976年にハヤカワSF文庫となった短編集。
 私がもっとも好きなのは、「番外の旅」のひとつ「コンサルタント・トルルの腕前」である。平和に暮らしていた鋼眼機族のもとに機械獣がいすわってしまう。どんな兵器でも追い払うことができない機械獣を倒すのにトルルが所望したものは「紙とインク、スタンプ、丸い印章、封蝋、クリップと画鋲は入り用なだけ、受け皿とスプーン--というのは、お茶はもうもってきていただきましたからね--それから郵便配達人、それだけです」ときたもんだ。
 このロボットたちのおとぎ話から、社会批判などを読み取るのもよい。あまりに人間くさい機械たちを楽しむのもよい。とにかく、おもしろいことだけは請け合える。
 スタニスワフ・レムは、難しい作品ばかりを書いているわけではない、軽いタッチのコミカルな作品も数多くある。しかも、しっかりSFしている。
 古いからと忘れ去るにはもったいない作品である。
 ぜひ。
(2007.1.26)

悠久の銀河帝国

悠久の銀河帝国
BEYOND THE FALL OF NIGHT
アーサー・C・クラーク & グレゴリイ・ベンフォード
1990
 アーサー・C・クラークの処女長編「銀河帝国の崩壊(AGAINST THE FALL OF NIGHT)」の「続編」をグレゴリイ・ベンフォードが共著という形で発表したのが本書「悠久の銀河帝国」である。「銀河帝国の崩壊」は、その後、アーサー・C・クラーク自身の手によって「都市と星」として生まれ変わった作品であるが、名作として名高い「都市と星」以降も「銀河帝国の崩壊」は売れ続けた。そして、「続編王」ベンフォードがクラークを口説き落とし、この処女作「銀河帝国の崩壊」の続編が発表されるに至ったのだ。本書は、前半が「銀河帝国の崩壊」そのもので、後半がベンフォードによる「続編」部分である。
 前半の「銀河帝国の崩壊」については、すでに再読しているが、今回ももちろん読み直した。奇しくも2年前の1月頭に読んでおり、2年ぶりの再読であるが、ざる頭の私は翻訳者が違うこともあり新鮮な気持ちで読むことができた。
 そうして気持ちをクラークの世界に入れておいての続編である。
 遠い遠い未来、変わり果てた人類、変わり果てた宇宙。人類を中心とした未来の知性たちが黒い太陽に狂った頭脳を閉じこめていたのだが、アルヴィンが警告を無視して宇宙に飛び立ったことが影響して、狂った頭脳がいましめを解き放ち、再びこの宇宙に還ってきた。地球というほろびゆく星に自ら閉じこもり、永遠の生命を細々とつないできた人類に反して、宇宙は生命に満ちていた。アルヴィンの手によって復活させられた旧人類の女性クレイと、やはりアルヴィンの手によって復活させられたもののアルヴィンには計り知れない世界を知るアライグマ型の知性動物シーカーが、狂った頭脳による未曾有の生命の危機の鍵を握る存在として命をかけた戦いに赴くのであった。
 地球にはびこる不思議な生き物たち、様々な知性体、半知性体、宇宙空間に満ちた不思議な生き物たち。動物、植物、移動能力を持った植物、菌類、電磁的な生命、壮大な生態系を持つ群体的生命…これでもか、これでもか、とベンフォードが自由に筆を走らせている。
 重力のくびきを逃れ、空間的な制約のくびきを逃れた生命が、どのような発展をとげることができたのか、さあ、あなたも、遠い、遠い、人類中心主義とはほど遠い世界に足を運んでみてはいかが。
 と、ここからは深いネタバレを含む話になるので注意。
 アイザック・アジモフがファウンデーションシリーズで、究極の知性体として「ガイア」的なものを示したが、ベンフォードも、本書「悠久の銀河帝国」において、「ガイア」的な統合的知的生命体による宇宙の姿を示す。これは、80年代後半からのSFのひとつの特徴である。カール・セーガンによる「コスモス」おける核の冬仮説や、ジェームズ・ラヴロックによる「地球生命圏」のガイア仮説、あるいはそれ以外の地球規模の環境変動や生態系の関係性への理解によって世界や生命への視点が変わり、このようなSFがしきりと書かれるようになった。
 90年代後半以降は、地球環境問題が現実の政治・経済・科学における重要な課題となり、SFでは一定の位置づけを残しながら情報の集積と知性の位置づけに関心が寄せられるようになった。エコロジーSFは、「うんざり」されるようになったのである。
 本書もまたそんな80年代末に書かれた作品ではあるが、そこに展開される具体的で不思議な魅力あふれる生命たちの活写が、エコロジーSFとは一線を画したものとなっている。
 考えてみれば、クラークの「銀河委帝国の崩壊」は「都市と星」よりも率直に人類のあり方に対して哲学的な視点をみせた作品であった。ベンフォードは、その「人類のあり方」を「生命のあり方」にまで拡張し、思考実験をした。それこそが、クラークが続編として望み、認めた理由ではなかろうか。
(2007.1.15)

星屑のかなたへ

星屑のかなたへ
ALIFE FOR THE STARS
ジェイムズ・ブリッシュ
1970
 ジェイムズ・ブリッシュの「宇宙都市」シリーズ第2弾で、唯一のジュブナイル作品。しかも、「宇宙都市」4作品のうち最後に書かれた作品で、3作品をつなぐファンにはたまらない作品、らしい。
 いや、私はここまでしか買っていなかったのだ。本書は、ハヤカワ文庫SFとして、昭和53年(1978年)に邦訳出版されている。13歳の秋、中学生だなあ。貴重なおこづかいを使っていたので、1冊1冊吟味して買っていたのである。ということで、本書「星屑のかなたへ」を読んだ後、次を買うことができなかったのだ。当時の私のランキングとしては。
 しかし、今、歴史的に振り返ってみて、この「宇宙都市」シリーズは、SFに大きな影響を与えている。先日読んだ「移動都市」(フィリップ・リーヴ 2001)などは、都市がエンジンとキャタピラをのせて走り回り、都市を食い合うのだが、本書では、地球の都市が次々と宇宙に出て行き、宇宙に広がっていく物語である。宇宙人に都市ごととらえられる「マンハッタン強奪」(ジョン・E・スティス 1993)なんていうのもある。都市ごと移動するというのはすごいイメージなのだ。宇宙戦艦ヤマトでも第二作の「さらば宇宙戦艦ヤマト」の白色彗星都市なんていうのもこのイメージだなあ。  ところで本書「星屑のかなたへ」だが、紀元3千年代、地球に大きな都市は残っていなかった。今や数少なくなった小さな都市も、地球を去り、放浪都市になろうとしていた。ペンシルバニア州スクラントン市も加工する資源を失い、宇宙に活路を求めて地面ごと旅立とうとしていた。その旅立ちを眺めていた16歳の少年クリスピン(クリス)・ディフォードは、境界を越えたところでスクラントン市のパトロールにつかまり、強制収容される。元経済学者の父を持ちながらも十分な教育を受けることができなかったクリスは、趣味の天文学を生かし、なんとかスクラントン市で学者の助手としてもぐりこむことができた。そして宇宙で、巨大都市ニューヨークとスクラントン市が邂逅し、クリスはニューヨーク市に引き渡されてしまう。そこでクリスは新たな冒険を経て成長していくのであった。
 典型的な少年成長の物語であり、まさしくジュブナイルである。
 壮大な未来史、壮大なイメージ、鶴田一郎による表紙は、青い地球の空を背景に、都市が地面から空に向かって今にも浮かぼうとしている。その異様さ。おもしろいのになあ。
「地球人よ、故郷に還れ」「時の凱歌」をどこかで探して読んでみたいなあ。