火星へ


THE FATED SKY

メアリ・ロビネット・コワル
2018

「宇宙へ」の続編であり、第二部といったところ。1961年8月16日の月基地から物語は再開する。主人公の宇宙飛行士であり天才数学者のエルマ・ヨークは、月面の小型連絡船操縦士の定期任務についていた。この日、初の無人火星着陸機が火星に降り立つ。この成功は有人火星探査計画の先駆けであった。すでに月には200人の滞在者がいて様々な調査や月面開発に従事していたのだ。人類の生存をかけた星への旅の次の目標は火星に定められた。大気がなく重力も小さな月に比べ火星には薄いとはいえ大気があり、重力もある。人類の生存は火星開発が現実的と考えられていた。
 片道約1年、往復約3年におよぶ第一次火星探査隊は2隻の有人船と1隻の無人バックアップ船の3船による船団で未知の星に向かうことになる。
 物語は火星に旅立つまでの宇宙飛行士候補と周りの人々の様々なできごと、そして、火星探査船の船内での様々なできごとで展開していく。その中心には前作と同様にエルマがいる。そう、エルマは愛しの夫ナサニエルに背中を押されて火星に向かうことになるのだ。しかし、エルマが選ばれた理由はただひとつ彼女が地球の人々にレディ・アストロノートとして知られ、支持されるからである。広報的な理由である。そして、その結果、計算者時代の同僚であり、台湾系アメリカ人のヘレンが探査チームからはずされることになった。すでに訓練は長く続いていて、エルマが入ることで探査チーム内には不和が生じてしまう。当然、それは「割り込んだ」エルマに向かう。四面楚歌のエルマは、それでも火星に向かうのであった。
 前作に続き、1950年代の技術で人類は火星に到達できるのか、その可能性を徹底して追求し描き出した究極のハードSFである。同時に前作と同様に女性差別、黒人差別、マイノリティ差別の問題に正面から向かい合った作品である。著者のあとがきにも書かれているが、本作ではさらにLGBTの位置づけについても間接的ではあるが触れられている。なぜ間接的かというと、1950年代、60年代にLGBTのカミングアウトは同時に軍人としてあるいは宇宙飛行士としての道を断たれることを意味していたからである。同時代の技術、社会背景を損なわずに、その中で生きる人たちの苦悩や人間としての闘い、関わりを描き出すのはとても難しいことである。それに成功した21世紀的な優れた文学作品であると同時に、優れたエンターテイメント作品である。

 私は火星に目がない。
 だから本書を読みたいがために前作から読んだという気持ちもある。だが残念ながらこの物語の主眼は「火星に行くまで」にあるのだ。
 しかし、本書が「火星もの」ではないにしても、とても心に残る傑作小説であることは間違いない。
 私のSF歴の中でも上位に位置づけたい作品である。

 ところで、昨日、将棋の竜王戦第四局が行なわれ、藤井聡太竜王(名人・八冠)が同学年の伊藤七段に勝って防衛を果たした。藤井聡太竜王名人は対局中先を読むのに「2八歩」といった符号の連続のみで思考しているという。他のプロ棋士はたいていが将棋盤を頭に浮かべているが、そういう頭の中の将棋盤はないというそうだ。本書の下巻287ページにエルマの言葉として「ほかのひとたちがわたしと同じ形で数字を把握できないと知ったのは、それなりの年齢に達してからのことである。ふつうの人にとって、数字とは紙に記された抽象的記号であり、どれほど理解力があっても、対象となる物体の物理的な数値を表すものでしかない。ところが、わたしの場合、数字を見れば、対象の形状、質量、質感、色彩までもが、鮮明にわかる。したがって、宇宙船、S-ⅣB、火星、地球の位置関係を頭の中で把握し、無用の要素を取り除けば、そこに残るのは純然たる空間の計算要素だけだ」という文章が書かれている。
 天才たる藤井聡太さんは、このエルマと同じように他のプロ棋士をはじめとする「ほかのひとたち」とは異なる形で将棋の位置と動きを把握しているのではないかと、ときおりそう思うのであった。関係ないけど、本書を読んでいるのと藤井さんの将棋を見ているのがおんなじような気持ちになったのはここだけの話。