映画 ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密

デイビッド・イェーツ監督 2022

 映画「ファンタスティック・ビースト」シリーズ3作品目であり、ハリー・ポッターシリーズの前日譚らしくなってくるのがこの3作品目である。だってホグワーツ魔法魔術学校の校長先生ダンブルドアの秘密ですから。

 1作目「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」(2016)は1926年、魔法動物学者のニュート・スキャマンダーがニューヨークに船で到着し、騒動を起こす物語。ジョニー・デップが演ずるゲラード・グリンデルバルドが最後に登場し、ハリー・ポッターシリーズとのつながりを強く意識させる物語であった。グリンデルバルドは長期にわたって収監されていた監獄でヴォルデモートに殺されるのだ。ちなみにニュートは教科書「幻の動物とその生息地」の著者である。


 2作目「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」(2018)の舞台は1927年のパリ。主人公のニュートは兄のテセウスや同級生で学生時代の恋人かつ今や兄の婚約者のリタ・レストレンジから魔法省に入るよう圧力をかけられていた。前作のニューヨークでの大騒動により旅行禁止命令の下にあったのである。ニュートはホグワーツ魔法魔術学校時代の恩師ダンブルドアから脱走したグリンデルバルドの追跡を要請される。ダンブルドアとグリンデルバルドは血の盟約によりお互いに闘うことはできないが、ダンブルドアはグリンデルバルドの純血主義に懸念を抱いていた。
 そこでニュートはこっそりパリに向かう。同行者は、前作で騒動に巻き込まれたのにも関わらず忘却術から脱した非魔法族のジェイコブ。ある意味他者とコミュニケーションをとれないニュートの唯一の親友。パリでの不穏な空気のもと、ニュートは恋人未満のティナと和解し、ジェイコブは相思相愛のクイニーと離ればなれになり、グリンデルバルドはパリで力を取りもどしていく。なんといっても、不死者ニコラス・フラメルが生きて登場したのがポッターシリーズファンには嬉しいかも。

 そして本作「ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密」である。時は1930年代前半頃。舞台は主にベルリン。つまり現実の人間世界ではヒトラーが台頭し、政権を樹立する頃であろう。そういう雰囲気の描き方である。国際魔法連盟は次のリーダーを決める選挙の時を迎えていた。グリンデルバルドは徐々に勢力を広げつつあった。血の盟約の支配下にあり直接グリンデルバルドと戦えないダンブルドアは、ニュート、ニュートの助手のバンテイ、ニュートの兄で先の大戦の英雄テセウス、マグル(非魔法使い)でニュートの親友のジェイコブ、それに、呪文学の先生ユーラリー、前作で登場したエチオピアの魔法名家のユスフの5人でチームを結成し、未来を読めるグリンデルバルドに、「計画のない計画」で対抗する。果たしてグリンデルバルドを止められるのか。
 という物語。
 アルバス・ダンブルドアの弟アバーフォースやホグワーツ魔法魔術学校も登場して、いよいよポッターシリーズらしくなってきた。
 しかし、物語としては1、2作以上に恋愛ものと言える。1作目から続いているニュートとティナの物語、ジェイコブとクイニーの物語、それに、若き日のダンブルドアとグリンデルバルドの物語。ほかにもアルバスとアバーフォースのこじれた関係などもあるのだけれど、それらが大人のファンタジーとして物語の中心にある。そして、いままでのところ世界最大の戦争だった第二次世界大戦の予兆。そういう意味ではすかっとはしないのが第3作である。

 しかし、このシリーズの主役はあくまで「魔法動物」たち。ニュートの相棒ニフラーのテディとボウトラックルのピケットがこれまで以上に大活躍。さらには、カニのようなやつが恐怖と笑いを誘い出す。前作ではカッパやウー(ズーウー)が登場したが、本作では「麒麟」である。「麒麟が来る!」が物語の鍵を握っていたりする。ヨーロッパ的な空想動物たちから、アジアに拡がってきて、これからまだまだ妖怪的な存在が登場するのではないだろうか。その映像化に期待。もうストーリーは置いて、ニュートの魔法動物ワールドだけを、BBCの動物映画シリーズのように流しっぱなしにしてくれたらかなり売れるのではないかと思うような感じもする。

 さて、娯楽映画にいちいち難しいことを付け加えなくても純粋に楽しめばいいのだが、本作でようやくはっきりとダンブルドアとグリンデルバルドの恋愛関係が語られた。しかも「特別なこと」ではなく、あたりまえのように書かれている。ファンタジー映画での同性愛はあまり明確に語られてこなかっただけに時代の変化を感じる。はっきり言う、これはとてもいいことだ。中国では上映に際し関係性を明言した6秒ほどのシーンをカットしたという。とても残念なことである。しかし、時代は変わる。人間関係の多様性を柔軟に受容できる世界になるよう、後退しないよう、この映画を言祝ぎたい。

兵士よ問うなかれ

SOLDIER,NOT ASK
ゴードン・R・ディクスン
1967

 1965年のヒューゴー賞中短編部門受賞作を長編化したもので、「ドルセイ」「ドルセイへの道」に続くチャイルド・サイクルシリーズの1冊である。日本では文庫化が1985年である。1965年の長編賞はフリッツ・ライバーの「放浪惑星」、フランク・ハーバードの「デューン砂の惑星」が1966年である。
 チャイルド・サイクルシリーズは、人類が種として成長する過程を、その転換点となる個人に焦点を当てて描こうとした作品群であり、端的に言えば、宇宙時代を迎えて人類はいくつかの特殊な性質をもつ集団に分化していった。戦闘的要素に特化したドルセイ、個人が全体として信仰にゆだねる友邦世界、形而上学にすぐれた異邦世界など、それら政治・社会・文化の分離に対し、旧地球では旧来の人類が存在していた。このシリーズでは、これら別々の道を歩んでいる人類が再統合し、さらなる進化をめざすという道を描こうとしたようである。
 そして、本書「兵士よ問うなかれ」はもっともそのことについてはっきり書かれている作品と言える。
 日本では、先にイラストレイテッドSFとして外伝的な「ドルセイ魂」「ドルセイの決断」が翻訳され、その後、本編である「ドルセイ!」「ドルセイへの道」が翻訳、この「兵士よ問うなかれ」はそれらに続いて翻訳された。訳者あとがきを読む限り、この後も刊行予定が決まっており、おそらくは翻訳に入っていただろうが、残念ながら本書が日本では最後の訳出となってしまった。

 さて、SF世界では、アシモフの「ファウンデーション」やハーバードの「デューン」を例に出すまでもなく作者によるひとつの未来史が描かれることが多い。チャイルド・サイクルシリーズも、ある意味では「未来史」なのだが、作者のディクスンは未来史としては捉えておらず、人類のありよう、哲学的志向性のようなものを書きたかったようである。とはいえ、「ファウンデーション」で「歴史心理学」が出てくるように、本シリーズでも「個体発生学」という形而上学的分析が出てくる。特定の個人が人類の成長上の焦点になることが分析されるのである。

 本書では、それはタム・オリンである。地球人で幼い頃「破滅」の精神を植え付けられ、それに反発するようにすべての管理や支配から逃れるために努力して星間ニュースサービスのニュースマン・ギルドに入ることが認められた若者。しかし、その入社(?)直前に妹と訪れた「最終百科事典」見学コースで、最終百科事典を完成させ運営する可能性を持つ特殊能力の持ち主であることが発覚。タム・オリンは、「最終百科事典」プロジェクトに縛り付けられることを嫌い、世界で最も自由になる可能性の高いニュースマン・ギルドで高い地位を得ることを望む。そのためには幾多のスクープが必要である。そのためにタム・オリンは戦場に取材に向かう。そして、ある出来事を経て、彼はただの取材者から、信仰に裏付けられた「友邦世界」を絶滅させるために自らの能力を発揮するおそるべき復讐者に変わっていくのであった。

 本書のエピソードは、「ドルセイ!」や「ドルセイの決断」「ドルセイ魂」で語られたいくつかのエピソードのサイドストーリーとなり、前作をより深く理解するしかけになっている。その点では、本書が翻訳された中では一番おもしろい。

 同時に、それぞれの作品で語られた主題が本書でもくり返される。
 ドルセイ人では、それは、
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりもドルセイ人としての名誉を守ること。
 だったと理解しているが、宇宙に出て分離したそれぞれの文化でも同じような志向性がみられるのだ。
 言い換えると、
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりも人類としての名誉・尊厳・発展を守ること。
 といった感じだろうか。
 アメリカン・ヒーローの原点といったところかも知れない。
 信念に基づく自己犠牲は美しい。
 しかし、それほど美しいものなのだろうか。その行為はやむにやまれぬものであり、二項対立の中で解決できない矛盾を抱えてしまった結果なのではないだろうか。そうして、そうならないように努力することが、なにより大切なのではないか。
 半世紀以上前に書かれた作品を読みながら、「人類、成長しねーなー」と思い、戦争を止めるのに「戦争反対」とささやくしかできない自分を悔しがるのであった。

(2022.4.3)

ドルセイ魂

THE SPIRIT OF DORSEI

ゴードン・R・ディクスン
1979

 ディクスンの「チャイルド・サイクル」シリーズのひとつで外伝的な作品「ドルセイの道」と並ぶのが本書「ドルセイの魂」である。アマンダ三世がハル・メインに話す過去の物語として2中編「アマンダ・モーガン」と「兄弟たち」が所収されている。
「アマンダ・モーガン」はアマンダ一世が93歳の頃、まだドルセイが傭兵軍人惑星として自立を始めたばかりの頃、アマンダ三世からは2世紀も前のできごとである。ドルセイの主な大人の男たちは傭兵として各地に出ていた。残るのは老人と女性と子ども。かつての冬のでかせぎ地域のような状況である。そこにつけこみ、地球政府が侵略部隊を派遣、ドルセイを占領し、ドルセイ人たちを惑星から追放し分散、軍人惑星を解体するのが目的である。
 ドルセイを開拓してきた中心人物の一人、アマンダはこの侵略部隊を相手に交渉し、戦略を練り、そして、彼らを敗退させた歴史上の人物であった。いかにして、圧倒的な軍事力を持つ者たちを退けたのか。ここにも、「ドルセイ」作品群に示される「最小の人的被害で最大の効果を上げること」が冷徹に示される。
 もうひとつの作品「兄弟たち」は、イアン・グレイムとケンジー・グレイムの話である。「ドルセイの決断」のサイドストーリーであったイアンとケンジーの双子の兄弟と、その幼なじみであるアマンダ二世の愛の物語は、誰もが信じていたケンジーとアマンダの結婚が彼らの成長により失われ、そして、アマンダは実はイアンをひそかに愛していたこと、それはイアンには受け入れることができなかったことが描かれている。
 光を受け持つケンジーと、影を受け持つイアン。双子でありながら、その性格はまったく逆であるが、お互いにお互いを信頼し、深い兄弟愛で結ばれていた。そのケンジーが銃弾に倒れ、イアンはケンジーとドルセイの名誉を守るための行動をとる。それは、ドルセイ人ではない人たちには一見理解しがたい行為であるが、終わってしまえば実にドルセイらしい行為であった。やはりここでも、「ドルセイの決断」で感じたとおり、ドルセイならではの倫理観が明確にされる。
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりもドルセイ人としての名誉を守ること。

 その「人的被害」や「死」とは、自分・自軍・守るべき対象、敵・敵軍のすべてに対して冷徹に適用される。言ってしまえば、闘わずして勝つのがもっとも望ましく、一方で、名誉のためなら大量虐殺も厭わない。
 繰り返しこの主題が書かれている。チャイルド・サイクルシリーズの中心的作品である「ドルセイ!」では読み取りにくいこの部分こそ、ディクスンが書きたかったことではないのだろうか。
 そして、それは、冷戦下におけるアメリカの価値観と実によくマッチしていたのではないだろうか。

(2022.3.27)

ドルセイの決断

LOST DORSEI

ゴードン・R・ディクスン
1980

 ディクスンの「チャイルド・サイクル」シリーズのひとつで外伝的なものだが、日本では本編よりも先に訳されているらしい。文庫版では中編「ドルセイの決断」、短編「戦士」と、サンドラ・ミーゼルによるディクスンとチャイルド・サイクルシリーズ評および、当時の最新作「最終百科事典」の部分訳が掲載されている。文庫版は1984年に発行。

「戦士」では、軍人惑星ドルセイの名家グレイム家の双子の司令官の弟で血管に氷が流れていると評されるイアン・グレイムがドルセイ人としての名誉を果たすための1日を描いた作品。「ドルセイ魂」所収の「兄弟たち」で見せた振る舞いに似た作品である。
「ドルセイの決断」は、やはり「ドルセイ!」に登場するドルセイ人士官のコルンナ・エル・マンとドルセイの女神たるアマンダ二世が惑星セタに迫る革命を調停するために訪れる話。原題の「ロストドルセイ」とは、ドルセイ人でありながらドルセイすなわち軍神であることをやめた男のことである。セタのナハール領地においてナハール軍の陸軍軍楽隊長を務めるマイケル・ド・サンドヴァルはロストドルセイであった。故に軍楽隊長であり、武器を捨てた男である。革命が迫る中、ナハールの領主が陣取る丘陵の上で、他の軍人たちはこぞって革命に加わるため逃亡し、残されたのはアマンダ二世とコルンナ、現地の司令官を務めていたイアンとケンジーのふたり、それに、異邦世界人の大使であるパドマ、それに領主ら一部の人間。そして、逃亡しなかった軍楽隊の隊員たちである。革命を先導しているのは「ドルセイ!」で主人公ドネルの敵となったセタのウィリアム家。つまり、これは「ドルセイ!」の前日譚とも言える。
 しかし、この物語の本当の主人公はずっと脇で見え隠れする軍楽隊長マイケル。ドルセイに生まれ育ち、ドルセイ人の軍事に優れた肉体と能力を持ちながら武器を楽器に置き換えた男。しかし、軍楽隊員がほとんど残ったように、彼は「軍」を育てる力を持っていた。もっとも、その軍は武器を扱うのが苦手だったわけだが。そして、武器を捨てたマイケルは、ドルセイ人としての誇りと、武器を捨てるにいたった信念との間で揺れ動く。そんな彼が下した決断とは。
 ここで背景を知っておかねばならないのは、ドルセイ人にとって、軍は自らの信念の体現であり、傭兵として契約をし、軍を育て、戦略を練り、闘いに勝利するまでが彼らの生きるすべてなのだが、そこにはドルセイならではの倫理観が存在している。
 それは、つきつめれば、次のふたつである。
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりもドルセイ人としての名誉を守ること。

 その「人的被害」や「死」とは、自分・自軍・守るべき対象、敵・敵軍のすべてに対して冷徹に適用される。言ってしまえば、闘わずして勝つのがもっとも望ましく、一方で、名誉のためなら大量虐殺も厭わない。一歩間違えれば凶戦士であり、その反面、優秀な政治家ともなり得る。
 きわめてアメリカ的な存在とも言える。
 そして、このドルセイらしからぬ振る舞いのドルセイ人の行為こそ、そのことを明確にする。自己犠牲は決して美しいものではない。自己犠牲はそれ以外の他者によって赦しとなり社会の昇華をもたらす。映画「アルマゲドン」がきわめてアメリカ的な映画であり、大ヒットしたように、この作品に描かれる自己犠牲は極めて個人的な信念に基づく振る舞いであっても、自己犠牲故に感動に書き換えられるのである。
 それをどう捉えるのか、それは読者次第ではなかろうか。

(2022.3.27)

ドルセイへの道

NECROMANCER

ゴードン・R・ディクスン
1962

「チャイルド・サイクル」シリーズのひとつ。前日譚にあたるのかな。原題は「魔術師あるいは予言者」。時代は21世紀、宇宙時代の幕開けである。主人公のポール・フォーメインは鉱山技師。人口増加で求職難の地球において、鉱山技師は特殊能力者であり、その人材確保に苦労していた。5年前の海難事故で幻聴などに悩まされていたポールは、厳しい学業と訓練により手にした鉱山技師の職でいよいよ鉱山に降りる日が来た。幻聴はささやく。「降りてはいけない」と。その言葉通り、彼は事故に遭い、片腕を失ってしまう。そして、ポールの残された右腕は信じられないほどに発達し、そもそもの頑健強力な身体に常人を超えた右腕を持つ男になったのである。左手の再生は通常の方法ではうまくいかず、ポールは「第二の法則」と呼ぶ人間の真の力を引き出すことを標榜する礼拝ギルドの元を訪ねることにしたのだった。しかし、その礼拝ギルドは地球の管理社会や宇宙開発のあり方に対抗する組織の隠れ蓑であった。
「ドルセイ!」で描かれた宇宙に拡散する過程で人類が12に分離するその背景を描いた作品である。
 冷戦下のアメリカはソ連(ソヴィエト連邦)との核戦争の危機におびえていた。世界は第三次世界大戦の危機を迎えると同時に、ユーリ・ガガーリンが1961年に友人宇宙飛行を行ない、それがアメリカのアポロ計画をもたらし、宇宙開発競争がはじまった時期でもある。宇宙開発と戦争は双子である。核戦争の鍵を握る「大陸間弾道ミサイル」は、宇宙開発における「ロケット」そのものである。その発射技術、制御技術は、まったく同じと言ってもよい。1945年に第二次世界大戦が日本の降伏を持って終結し、国際連合が構成され、世界は統合を模索し平和を誓ったその舌の根も乾かぬうちから、全人類を破滅に追いやろうという軍拡と冷たい戦争をはじめたのである。
 そういう時代感を踏まえて読めば、この作品の意義は格段に上がってくる。
 そして、なんということだろう。21世紀の今でさえも。

(2022.3.27)