われらはレギオン4 驚異のシリンダー世界

HEAVEN’S RIVER

デニス・E・テイラー
2020

 しまったあああ。三部作じゃなかった。続編あるんだ。おおっと、「リングワールド」が出てきちゃった。リングワールドを旅するボブ!
 人類の版図を広げるため人格を持ったAIとして2133年に地球を出発したボブ。ボブはかつて人間で、プログラム会社の社長で、SFオタクだ。肉体を失いAIプログラムとしての仮想人格になったことに順応し、ボブ自身にとって快適な仮想空間と現実世界とのアクセスを確立、ついでに自分をコピーして仲間を増やすことにした。ボブがボブをうみ、ボブ2、ボブ3、ボブ2の2、ボブ2の3となっていくとややこしいのでオリジナルAIボブ以降はそれぞれ名前をつけて分かりやすくしてきた。ある時点では同じであっても、その後の体験や状況によって行動も思考も変わっていくことになる。後に単純に並列化するというわけにはいかない。つまり、ボブとボブ2は別人格なのである。

 しかし、ボブはボブ。順応性と社会性に富んだ希有な性格なので、ボブが他のボブを忌避することはない。一緒に仕事をしても大丈夫、気心の知れた関係なのだ(あたりまえだ)。しかししかし、いやしかし。コピーするのは直系のボブだけではない。ボブ2の3の2の1の2…と、約20数世代後のボブたちの中にはずいぶんボブらしくないボブも出てくる。なんといってもボブたちは1万人にもなっているのだ。最近まではボブの総会は、議論百花繚乱でも落とし所がとれたのだが、どうもそうもいかなくなってきたりする。いやあ困ったね。

 困ったと言えば、ボブの初期のクローンであるベンダーが行方不明になったままだ。ベンダーは初期の古いタイプの通信手段と移動手段でエリダヌス座デルタ星系からうさぎ座ガンマ星Aをめざして旅立ち、2296年1月時点のボブにとってはベンダー行方不明から100年以上となっていた。ベンダーの方向に向けては最新の超光速通信設計図も送信しているが反応はない。超光速通信が使えれば帯域が確保できれば自身を「送る」ことだってできるのに、それもできない。調べてみたらベンダーは途中でうさぎ座イータ星系に方向転換しており、そこには巨大構造物をうかがわせる痕跡があった。さては先に邂逅した巨大な敵アザーズなのか?そのリスクもありつつも、ベンダーを探し出すためボブはしかたなく約35年かけて実際にうさぎ座イータ星系まで旅をした。そこにあったのは星系をぐるりと取り巻く円環。3つのひもがくみ上げられたようなリングワールドであった。半径90キロ、全長約16億キロメートルのシリンダー世界
 探査機を飛ばしたら攻撃されて全滅。遠隔で調査すると、そのシリンダー世界と外界との出入りはほとんどない状態であった。そこで、ボブは星系の外惑星系の外で超光速通信設備をつくり、ボブの元に集まってもらったチームとともベンダー捜索の旅をはじめるのであった。
 ほとんど閉鎖系となっているその世界には川のネットワーク沿いに水陸両方を使って生きる異星種族クインラン人たちの世界だった。ボブたちは作戦をねり、クインラン人に偽装したロボットをアバターにして侵入を図る。はたしてベンダーはこの世界にいるのか。
 一方、この間にボブたちの世界で起きてる騒動の顛末は!
 100光年の幅があってもある程度の同時間性、コミュニケーションの双方向性を確保できるボブたちの世界で2332年11月~2334年12月までの冒険の物語。すげーや。

 SF小説、映画、ドラマが大好きすぎるデニス・E・テイラーが、すべてのSFファンに送る正統なるスペースオペラの続編。スペースオペラだけど、SFとしての土台はかなりしっかりしているので安心して「遊べる」作品だ。
 もう一度、やはりSF大好きなSF作家ラリイ・ニーヴンの「ノウンスペースシリーズ」の長編、短編を読みたくなるじゃないか。

漫画 BANANA FISH

吉田秋生
1994

 吉田秋生の作品の中で現在までもっとも長編となる作品が「BANANA FISH」である。小学館の「別冊少女コミック」(別コミ)で1985年5月から1994年4月までほぼ9年間にわたり途中休みをはさみながら連載され、単行本は1987年1月に1巻、1994年10月に最終刊の19巻が発行されている。この頃、吉田秋生は、マガジンハウス社の女性誌「Hanako」に月1でオールカラー見開きの「ハナコ月記」を連載していた。また、白泉社の少女漫画誌「LaLa」では「櫻の園」も執筆、連載している。
「ハナコ月記」は身の回りエッセイ的な作品で、それまでの短編作品などにみられる生活感の中のユーモアが前面にでている肩の力の抜けた作品となっている。バブル経済の中での若い新婚夫婦と友人の日常というテーマで、関越自動車道がスキー場から都内までスキー客のために下り線が完全に渋滞したできごとなどが実体験をベースに語られている。
 一方、少し若年層向きの雑誌に書かれた「櫻の園」は、舞台は女子高で「桜の園」を演じる演劇部の少女たちの群像劇。こちらも、それまでの吉田秋生の作品群から決して遠く離れているわけではなく笑いを抑え情感豊かでシリアスな作品に仕上げている。
 吉田秋生はそれまで主に「別コミ」中心に執筆活動を行なっていたが、「BANANA FISH」の直前には、同じ小学館でもよりマニアックな作者、作品の多い「プチフラワー」で「河よりも長くゆるやかに」を執筆している。「別コミ」も個性的な作品が多かったが「プチフラワー」はややSF・ファンタジー系作品が多く、当時住み分けのはっきりしていた男女各漫画誌の中では男性読者もひきつける力をもっていた。
「河よりも長くゆるやかに」のあと、古巣の「別コミ」で連載をはじめたのが「BANANA FISH」である。

 話を本筋に行く前に、いつものように極私的感想から。「BANANA FISH」連載開始の頃は、大学生で少女漫画の多様な世界に再没入しはじめた時期であった。それより以前から好きだった萩尾望都、竹宮恵子、清原なつの、わかつきめぐみ、一条ゆかりといった作品群から、「花とゆめ」「ぶーけ」「プチフラワー」に連載を持つような作者たちに出会った頃である。吉田秋生も単行本の「「河よりも長くゆるやかに」を皮切りに、当時出ていた一通りは読んでいたが、「別コミ」には手を出していなかったのと、単行本が大学卒業、就職時期にかかっていたこともあり第1巻はやや遅れて入手していた。その後も、バブル期の仕事の繁忙、退社、流浪期間、フリーター、就職してふたたびの繁忙、転居に次ぐ転居といった具合で、ほとんどは単行本発行すぐに手に入れていたが、いくつかは版を重ねた後に手にしている。そういったわけで、初読はとぎれとぎれの印象しかなく、単行本が全巻そろってから何回かゆっくり読み直してようやく全体像をつかんだという感じであった。
 このたび実に久しぶりに読み返し、自分自身の時の流れを思い返すことにもなった。
 私は、まだ、生きている。

 それでは本題に入ろう。
 舞台は主にニューヨークの下町。「カリフォルニア物語」と同じであり、同様に社会からはみ出てしまった人たちが主人公である。ただ「カリフォルニア物語」と決定的に違うのは物語の背景、設定であり、その結果生まれる暴力に満ちた世界だ。
 有名な作品であるからあらすじもいらないだろうが、おおまかに触れておくと、ベトナム戦争末期、本国帰還をまつばかりの舞台でひとりの兵士が突然銃を乱射し、仲間の多くを殺してしまう。生き残ったひとりは帰還後フリーのジャーナリストになり、その「事件」を心の片隅に置いていた。1985年ニューヨーク、ストリートキッズの日常を取材しようともくろむ日本人のカメラマン伊部とそのアシスタントとして同行してきた大学生・奥村英二は、白人系が多いグループのリーダー、アッシュと引き合わされる。
 その直後、その場所が襲撃を受け、英二はアッシュとともに逃走をはじめることになる。これがアッシュと英二のふたり約2年に渡る激動の日々の始まりであった。あらゆることに天才的で絶対的なリーダーの素養を持つアッシュと、アスリートとしての将来を絶たれ息苦しい日本から息抜きのようにやってきた英二、まったく異なる生活・文化背景を持つふたりは、お互いの中に自らが「持ち得ない」ものをみる。それはふたりにとっての「救済」となるものだった。
 物語は「バナナフィッシュ」という謎の言葉と薬物、いくつかの事件を皮切りに、血なまぐさい展開をみせる。他のストリートキッズとの抗争、アッシュを自らの後継者かつ隷属者として「創ろうとした」マフィアのボスとの闘い、アッシュは生きるために、そして英二を守るためにひたすら襲いかかる者たち、敵対する者たちを殺し続ける運命となる。
 英二もまた、別の形でアッシュを守ろうとする。

 本筋だけ読めば、ドラッグと暴力、権力者の支配欲、それに立ち向かうジャーナリストと影を負ったヒーローのサスペンスストーリーである。この本筋は、時を経て同じ世界線を描いた「YASHA 夜叉」「イヴの眠り」が書かれており、こちらは近未来SF色の強い作品となる。

「BANANA FISH」は、吉野秋生の代表作といっていいが、注目したいのは初長編「カリフォルニア物語」との相似性だ。
 同じニューヨークを舞台とするが主人公ヒースは故郷のカリフォルニアで親子関係に悩んでいた。厳格な父親は自分を支配しようとしているとしか考えられない。兄とは異母兄弟、母なしで育つ点はアッシュと同じである。ヒースは地元でのできごとがきっかけでニューヨークの下町で暮らす。アッシュもまた、故郷に住むことができなくなり、ニューヨークが彼の地となる。ヒースは兄に反発するがコンプレックスも持つ。そして兄の死と、親しく弟のように接していたイーヴの非業の死。アッシュもまた、異母兄の存在が大きく、その死が苦しみとなる。そして、アッシュを守ろうとして死んだスキッパーや親友の死はアッシュを追い詰めてしまう。
「カリフォルニア物語」のヒースと「BANANA FISH」のアッシュの違いは、その「できごと」の性質だ。アッシュは幼い頃から大人から性的虐待を受け続けた過去を持ち、ストリートキッズのリーダーとして恐れられ、尊敬されてはいても、無償の愛を受けること、感じることのない生を過ごしてきた。少なくともヒースには、ニューヨークでの良くも悪くも日常があり、その中でさらなる心の傷も受けるが周りの人間関係から癒やしも受けることができた。それは「救済」と呼べるほどのものではないが生きていくための心の置きどころとなる。
しかし、英二と会うまでのアッシュにはそのような「癒やし」や「心の置きどころ」の余地はなく、だからこそアッシュは彼に対し無知と無垢な故に対等な他者として接することができた英二に惹かれ、救済を得ることができた。アッシュが英二から救済を得た理由はただひとつ、英二もまたアッシュから救済を得ていたからである。奇跡的な無償の愛とでも言えようか。
 この関係性があるからこそ、客観的に見れば「冷酷な殺人マシーン」であるアッシュのそれこそ暴力に次ぐ暴力の物語が人を引きつけ、美しく昇華する。

「カリフォルニア物語」ではヒースが自らの成長のために旅立ち幕を閉じた。残された者たちに予感だけを残して。
「BANANA FISH」ではアッシュが真の救済を得ることで幕を閉じる。それ以外の終わり方はとれなかっただろう。リアルタイムの読者もまた物語がどこに向かっているのかを悟っていたことを著者が番外編のあとがきで匂わせている。それほどまでに完結した物語だったのだ。

 もちろん長い物語にはアッシュの天敵であり、アッシュに激しい愛憎をみせるマフィアのボス・ゴルツィネ、アッシュの家庭教師でもあったブランカ、英二に「なれなかった自分」をみるユエルン、アッシュに惹かれるがアッシュとの闘いを望むシン、苦悩を抱えた親友のショーター、観察者であり当事者でもあるジャーナリストのマックスなど彼らの視点で語られる物語があり、読む者をひきつけて止まないのである。
 吉田秋生は主人公の周りの人たちを描くのが実にうまい。漫画という絵と文字とコマ割りが生み出すコンテキストを使いこなしているのだ。
 周りの人たちを書くのがうまいということは、番外編、サイドストーリーである短編がたまらなく魅力的になる。それらサイドストーリーは、本編を補完し、本編を読んだ者のみに与えられるご褒美のようなものである。
 幸いにして、「BANANA FISH」には単行本19巻の後半と別冊である「PRIVATE OPINION」としてご褒美が出されている。伊部と英二の物語、ブランカとアッシュの出会い、そして、英二とシンのその後も描かれる。
 シンについては、「YASHA 夜叉」でさらにその後があるのだが、それはまた別のお話…。

 実は「BANANA FSH」には「恋愛」の要素はほとんどない。強いて言えばジャーナリストのマックス・ロボと離婚調停中の妻の関係、ストリートキッズのお目付役のような刑事のチャーリーとショーターの姉の関係があるくらいである。いびつな「恋心」としてはゴルツィネのアッシュに対する執着がある。アッシュは自分の「モノ」でありアッシュがどれほどゴルツィネを忌み嫌っていても、ゴルツィネは最終的にアッシュが自分のいいなりになると信じて疑わない。アッシュはゴルツィネにとって理想の自分であり、自分の投影であり、アッシュに真の自由意志があるとは思っていないのだ。支配欲、独占欲の対象である。マフィアのボスとしてのふるまいであるから物語的には「ふつう」に見えてしまうのだが、登場人物たちの中でもっとも性格的にゆがんだ人物だろう。
 恋愛を持ち込まないことで、この物語は人間の善なる姿と悪なる姿を純化して読者のつきつめる。
 物語の軸はアッシュと英二、アッシュとゴルツィネにある。美しい物語として前者を読むか、悪夢の物語として後者を読むか、すくなくとも2回はくり返して読んで欲しい作品である。

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アロウズ・オブ・タイム


THE ARROUW OF TIME
グレッグ・イーガン
2017

「時間の矢」というのは不思議なもので、数学でも物理学でも時間の流れの過去と未来に区別はつかないが、エントロピーの増加や因果律という形で人類は時間の矢を感じている。そして、過去は変えられず未来は不確定で、どちらも光速の円錐の外側は知るよしもない。「現在という存在」のみが切れ目なくある、と、感じている。ただ、相対性理論によって「現在」は観測点によって異なることがわかり、分かりやすい例としてウラシマ効果が紹介された。現代のGPSのような精細なシステムにはこの効果による必要な修正が反映されている。さらに、量子論により時間の概念もまた変化するが、いまのところ人類の日常生活に見える形で影響することはない。しかし、現代の科学は「時間」「時間の矢」をもてあましていることだけは確かだ。

 本書「アロウズ・オブ・タイム」は「直交三部作」の第三部であり完結編である。時間と空間が等価となる我らが宇宙とは異なる物理法則で成り立つ宇宙の物語。E=-mc2が成り立つ宇宙で惑星ズークマは直交星団と衝突し破滅する危機を迎えていた。その危機に対し、直交星団と平行方向に巨大世代船「孤絶」を打ち上げ、逆ウラシマ効果によって世代船の中で科学技術を発展させズークマ時間では数年後に何世代もかけた未来の「孤絶」が帰ってきてズークマを救って欲しい。それが願いであり、「クロックワーク・ロケット」の物語であった。そして「エターナル・フレイム」では様々な技術的ブレークスルーを迎え、「孤絶」の人々の生き方を変える可能性、新たなエネルギー源の可能性を見た。そして、本作「アロウズ・オブ・タイム」はついに惑星ズークマを救う解決策とともに「孤絶」を180度回頭させて帰還への長い日々をはじめることとなった。解決策が示されたといってもまだ未知の領域は残されている。そして、社会文化的にも惑星ズークマの生き方とは根本的に変わりつつあった「孤絶」では帰還と救済という本来の目的を果たそうとする人々と、このまま「孤絶」や新天地を求めてそこで生きていくべきだという人々に意見が分かれていた。物理学者のアガタは、その未知の領域、重力と光の関係から、直交宇宙の構造についての研究を続けていた。一方、既知の知見から直交宇宙の特性上ある方法を使えば未来から現在へ情報を送り届けることが可能であることが判明し、「未来からメッセージを受け取る」ための道具が開発されつつあった。そしてこの技術に対して物理的な破壊工作に出る過激組織も登場するのであった。
 前作から数世代のち、繁殖方法が変わったことで人々の意識はずいぶんと変わってきた。それでも「育てる性」としての男性と、「産む性」としての女性という概念は残っている時代。帰還とはすなわちこれから先、母星到着までの世代は「何もすることがない」という意味でもある。加えて未来からメッセージを受け取れるようになったら、本当に何もする気が起きなくなるのではないか?
 どう思います。
 本書では未来から過去への時間の流れという事象と、もうひとつ、孤絶の人々にとっては過去から未来に流れる時間に対し、「孤絶」が帰還の方向を向いたことで直交星とは逆の流れとなってしまい、それまで反物質として振る舞っていた直交物質が、通常物質だけれど「孤絶」の時間に対して逆、すなわち未来から過去に流れるものに変わったという事象が描かれる。何言っているか分かります?分からない人は、1、2作を読もう!
 P・K・ディックの悪夢の世界の再来である
 あらためてディックってすごいなあと感じ入ってしまった。
 しかし、ディックは数学的裏付けなしに書いたが、イーガンは違う。宇宙を数学的、物理学的に作り上げ、そこにこの時間逆転世界を書ききるのである。いやあ、何言ってるのかわかんないね。後半にあるここのところの表現を読むためだけでも、この三部作を読む価値はある。間違いない。
 そしてふと思う。自由意志ってなんだろう、と。

 さて、もちろん本作でももうひとつのテーマ、性と社会が大きな要素を占めている。第二部で徹底して詰めてあるので、本作ではその未来でしかないのだが、これは人類に対する挑戦でもある。これについてもまた第一部からの流れを読んで欲しい。男女問わず。

 大団円を迎えた直交三部作。数学や物理学的説明とそこからくる情景やシーンについては正直言って半分も理解できていない。それこそディックのつじつまの合わない支離滅裂だけど読ませてしまうのと、「私にとっては」何が違うのかというぐらいである。もちろん、大学1年でていねいに線形代数学や物理学の入口を学んだ学生や高校3年の数学Ⅲや物理Ⅱ(今はどう言うのかな?)まできちんと履修し、その上で数学や物理学に対して関心を失わずに来た人であれば私よりは100倍以上楽しめる作品であることは間違いない。
 幼い頃からSFを読んできたけれど、そういう積み重ねが足りてこなかったことを、とても反省する三部作であった。でも、そうでなくても読んで欲しい。私と同じぐらいでも、数学や物理学が大嫌いでも、そこを読み飛ばしても、おもしろいから。

漫画 カリフォルニア物語

吉田秋生
1981

 吉田秋生の初長編作品で、1978年から1981年にかけて別冊少女コミックで連載された作品。1978年頃というと日本が高度成長期だったが第1次オイルショックやドル円関係が大きく変動していた時期である。海外旅行ブームははじまっていてバッグパッカーも生まれていた。若者の文化はほぼすべてアメリカから。そんな時代にまだ大学生だった吉田秋生がカリフォルニアとニューヨークを舞台に描いた作品である。

 私の吉田秋生作品との出会いは1985年、大学生の頃、「河よりも長くゆるやかに」からである。こちらは高校生が主人公で舞台は米軍基地の街・横須賀。オムニバス形式の作品で単行本2冊にまとめられていた。それから当時出ていた作品を一通り読み、その後連載がはじまった「BANANA FISH」を基本的には単行本ベースで追いかけることにしていた。さらにバブル期の雑誌「HANAKO」に連載されていた「ハナコ月記」をほぼリアルタイムでおいかけていたものである。今日まですべての単行本作品(再録集は除く)を読んでいる。つまり吉田秋生の作品群が好きなのだろう。
 十数年あるいは何十年ぶりか本作をひっぱりだしてみた。はじめて読んだのは、ちょうど主人公のヒースと同年代の頃だった。もう40年近く前の話である。まさに「夢みる頃を過ぎても」。

「カリフォルニア物語」の舞台は1975年からの数年間。カリフォルニアとあるが、ほとんどの舞台はニューヨークを中心に繰り広げられる。主人公はヒース・スワンソン。カリフォルニア州サンディエゴでの高校生活を捨て、ニューヨークの下町で新たな人々と出会い、青年から大人へとなっていく。

 あらためて作品を読んでみて、吉田秋生という作家は、人の心の苦しみや痛みと、それに対する許容と心の癒やしを書き続けてきたのだなと思い至った。誰にでもさまざまな心の傷があり、その傷の深さは他者には推し量れないものがある。心の傷は抱えながら生きるしかないが、その苦しみ、痛みをやわらげたり、散らすことはできる。他者との関わり、時間、風景、笑い、日常、そういった癒やしがどこでどのように現れるか、それもまた他者には推し量れないひとりひとりのものである。
 吉田秋生は登場人物の心の傷をはっきりと示し、そして、それを抱えて生きる姿を示す。それが共感をもたらすのだと思う。
 長編デビュー作の本作から「BANANA FISH」シリーズともいえる「イヴの眠り」までは、このひりひりした心の内側を描くのに暴力が重要な役割を占めていた。しかし「海街diary」からは直接的な暴力の要素が姿を消し、より日常性の中にある心の傷に触れるようになっている。著者の変化を感じるが、「海街」と「カリフォルニア物語」を読み合わせることで、そのテーマの一貫性を深く思い知ることになった。

 本作では、まず主人公ヒースの心の傷がある。もっとも深い傷は家族との関係である。大学で教鞭をとり米国有数の弁護士である父、その父の期待に応えエリートコースを歩む年の離れた兄、夫の厳格さに疲れて子どもを置いて去った母。ヒース自身も有能な子どもだったが、母に似て好き嫌いがはっきりした個性の強い性格は、父との確執を生み、父の期待に応えられないこと、兄への劣等感から心に傷を負って育つ。
 そんなヒースは悪友たちとのトラブルを機に家を出てニューヨークに向かう。ニューヨークの下町では若者たちがそれぞれの理由から集まり、日々の暮らしをなんとか立てていた。ヒースは旅の途中で出会ったヒースよりも若い青年のイーヴと出会い、ともに暮らすことになる。イーブもまた家族との関係から深い心の傷を負った孤独な青年だった。
 元海兵隊でゲイのアレックス、アレックスと海兵隊仲間だったリロイ、イーヴと旧知で後にヒースたちの前に現れるトラブルメーカーのブッチと、その妹でヒースに恋するスウェナなど登場人物の多くが何らかの心の傷を負っており、それが物語に深みを与えていく。
 ヒースはニューヨークでの日常の中で心の傷をみつめ、癒やし、一方で新たな傷を負っていく。そしてたとえばイーヴの心を癒やし、同時に苦しめることになる。

 そのなかで皆の心の支えになるのがインディアンと通称される大人の男である。彼の存在なしには救いのない物語となっただろう。名前が示すように彼は抽象的存在であり、精神のバランスの取れた、自分の心の傷をみつめ許容しともに生きることのできる人間である。だからこそ他者の心の傷に敏感であり、適度にやさしく、自分を見失わず、周りに信頼される。ヒースもまた、高校時代にカリフォルニアを訪れていたインディアンに救われ、彼を頼ってニューヨークに行き、暮らすことになる。最初から最後までインディアンの物語でもあるのだ。

 本作には時代を反映したように麻薬があり、暴力があり、ベトナム戦争帰還者があり、貧困と差別が存在している。身近な者の壮絶な死もある。ハードボイルド小説のような世界である。主人公のヒースもインディアンも、しかし、特別な才能の持ち主ではない。事件を解決するわけでも、誰かを積極的に救うわけでもない。ヒースは時に流され、時に自暴自棄になり、時にやさしく、時に理由なく暴れる、どこにでもいる青年である。ただ本来恵まれた生活環境だったこと、顔もスタイルも良く、根っこがとても優しい青年だったこと、そして周りにさまざまな人たちがいる。それだけである。その点では「海街」やその続編で現在も連載が続いている「詩歌川百景」の主人公たちと変わらないのかも知れない。
 吉田秋生の視点は変わっていない。たぶん時が絵柄と物語をより優しくしているだけなのだろう。もっとも、今後の作品は分からないが、老成してきた作者の、それもまた楽しみである。

 では久々にもっとひりひりする天才的主人公が出会った日本人青年によって救われる「BANANA FISH」を読み直すとするか。あ、そうか。アッシュと英二の関係性はヒースとイーヴの相似なのか。

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エターナル・フレイム

THE ETERNAL FLAME
グレッグ・イーガン
2012


「エターナル・フレイム」は直交三部作の第3作目である。現実のこの宇宙とは違う物理法則の宇宙での物語。
 数学と物理学の探究の物語であると同時に、実は性と出産、子育てをめぐる現代の寓話でもある。前作でもこの後半のテーマが物語の柱にあったが、本作はさらにつきつめて考える材料を与えてくれる。

 前作「クロックワーク・ロケット」は、近代に入ったばかりの惑星ズーグマは過去になかった天体現象が頻発しはじめる。その研究をするうちに、それが惑星ズーグマを近々破壊してしまう天体現象であることに気がつき、対策のために世代船「孤絶」を打ち上げるまでの物語。直交宇宙では現実の宇宙と異なり逆ウラシマ効果が成り立っていたのだ。世代船「孤絶」の中で経過する時間は対静止系のズークマより「早く」過ぎるため「孤絶」の中で研究を進めズークマ破滅から人々を救う対処方法を発見してから帰還することで、出発よりわずか数年で未来の「孤絶」がズークマを救うというプロジェクトである。ちなみに、現実宇宙におけるウラシマ効果とは静止系に対して相対論的加速をしている対象の時間が遅くなることから、現実世界で「孤絶」のようなことをすると地球に戻ったとき浦島太郎のように超未来になってしまう。その逆の効果が得られるのだ。
 解説によると、前作「クロックワーク・ロケット」は現実世界の特殊相対性理論に相当するものを発見し、本作「エターナル・フレイム」は量子力学相当、次作「アロウズ・オブ・タイム」は一般相対性理論相当を発見し、物語が進むことになっているそうである。

 本作「エターナル・フレイム」で物語はいよいよ「世代船SF」らしくなっていく。世代船といえばハインラインの「宇宙の孤児」(1963)である。「宇宙の孤児」は目的を見失って荒れてしまった宇宙船の物語であるが、本作はみな母星を助けるという目的は見失っていない。秩序だった世界ではあったが世代船物語は制約条件の物語であり、「孤絶」では恒常的な食糧不足とそれに伴う産児制限が女性たちを苦しめていた。
 直交世界でズーグマの人々は、双と呼ばれる男女一組の対になって出生する。自然状態では2つの対、すなわち4人が生まれるが、母体が飢餓状態にあると1つの双、すなわち2人しか生まれない。周辺環境に合わせたしくみとして組み上がっているのである。「孤絶」では女性たちは常に飢餓状態を選択せざるを得ない状況に置かれていた。男たちはふつうに食事をしているのに、である。
 生物学者のカルロは双のカルラの飢えの苦しみを見ていた。それもあり飢餓状態を作らなくても何らかの方法で1組の双しか生まれないようにする方法はないかと「孤絶」内の動物を使って研究を続けていた。
 一方、カルラは女性として自らに課している慢性的な飢餓状態に苦しみながら、物理学者として物質のふるまいについての研究を続けてきた。そして学生のひとりパトリシアのアイディアで物質とエネルギーにまつわる新たな発見の時を迎えようとしていた。
 同じ頃、天体学者のタマラは「孤絶」に近づく「物体」を発見する。それは直交物質でできた小天体であり、将来の資源・エネルギー不足が想定される「孤絶」にとっては可能性の塊でもあった。しかし、放っておけば「物体」は「孤絶」との最接近後に離れ去ってしまう。タマラを中心に「物体」を「孤絶」の位置から離れないよう軌道修正させるプロジェクトがスタートした。
 タマラには、畑で農業をする双のタマロと父のエルミニオがいた。彼らはタマラが「孤絶」を一時的にも離れ危険な探査を行なうことに危惧する。もしタマラが死んでしまったら、タマロは代理双を見つけない限り子どもを持つことができなくなるからだ。エルミニオはタマラの決断を自分勝手だと非難する。そして、犯罪が行なわれる。
 男性であり生物学者のカルロ、女性であり物理学者であるカルラ、女性であり天体学者であるタマラ、この3人を軸に、「孤絶」の政治を行なう評議会、保守的な考え方の人たち、革新的な考え方の人たちなど様々な人物が「孤絶」という限られた不安定でかつ目的をもつ空間の中でそれぞれにぎりぎりの選択をとっていくのである。

 直交宇宙のズーグマの人々の生態は現実世界の地球の人類とは大きく異なる。目もあり口もあり脳もあるが、手足は意志の力で複数発生させることができるし、呼吸の必要もない。ただ、熱を放散させる必要性が高いので、運動の抑制や休息時に身体を冷やすための工夫も必要である。たとえば宇宙空間にいくと直交宇宙では真空で身体の熱を廃熱できないので冷却空気をまとうための冷却袋に身体を入れる必要があったりする。
 もっとも異なるのが繁殖方法である。繁殖方法が異なれば、親子関係、夫婦(?)関係なども当然異なってくる。しかし、それ以外は人類と同じような思考、行動をとるように描かれている。きわだって異なる部分こそ、作家がテーマを込めた部分である。だから、この部分は物語を展開させるために奇をてらう部分ではなく、作家が思いを込めた本質の部分であるのだ。

 直交三部作を読む上で、現代物理学や高等数学の知識があるにこしたことはない。知識が深ければ深いほど、理解があればあるほど、直交三部作は「別の物理法則をあてはめたら宇宙は、生物は、どのようなふるまいをするのか」について楽しむことができるだろう。しかし、それらを知らなくても、理解できなくても、直交三部作をおもしろく読むことはできる。そのためには、分からないところは字面だけをおいかけて読み飛ばすという独特の読書方法が必要なのだが、それさえ身についていれば大丈夫。イーガンもそんな読者を見捨ててはいない。
 最初に書いたとおり、直交三部作は、少なくとも第二部まで読んだところでは、数学的物理学的実験の物語であると同時に、産む性としての女性がそれ故に社会から差別的に扱われ続け、その自立を妨げられ続けているという現実の社会に対する物語でもある。そこのところは前者が難しすぎて分からなくても読めるはずなので、それを中心に読んでもまったく問題ないし、読む価値がある。

 かくいう私も相対性理論や量子論、宇宙論などは表面的になぞり、一般化された知識を持つ程度に過ぎず、たとえばディラックの波動方程式などはまったくといっていいほど分からない。放送大学の物理学の講義とか見ていても、数式が繰り込まれたりして変化していく過程をぼんやりと分からないままに見ているのがオチであり、つまり現実世界の数式と直交世界の数式のどっちがどっちかも分からないありさまである。
 それでも、その直交宇宙の物理法則については言葉で書かれていることをすなおに受け取り、カルラたちがわくわくしながら試行錯誤して発見することには半分以上目をつぶって読み進めれば、そこに描かれる物語は実におもしろかったりするのだ。
 本書のおもしろさを半分しか分かっていなくても、他の多くのハードSFの何倍かはおもしろいのだから全部理解したらものすごくおもしろいのだ。だから恐れずに読み進めるとよいと思う。

(2022.5.8)