漫画 カリフォルニア物語

吉田秋生
1981

 吉田秋生の初長編作品で、1978年から1981年にかけて別冊少女コミックで連載された作品。1978年頃というと日本が高度成長期だったが第1次オイルショックやドル円関係が大きく変動していた時期である。海外旅行ブームははじまっていてバッグパッカーも生まれていた。若者の文化はほぼすべてアメリカから。そんな時代にまだ大学生だった吉田秋生がカリフォルニアとニューヨークを舞台に描いた作品である。

 私の吉田秋生作品との出会いは1985年、大学生の頃、「河よりも長くゆるやかに」からである。こちらは高校生が主人公で舞台は米軍基地の街・横須賀。オムニバス形式の作品で単行本2冊にまとめられていた。それから当時出ていた作品を一通り読み、その後連載がはじまった「BANANA FISH」を基本的には単行本ベースで追いかけることにしていた。さらにバブル期の雑誌「HANAKO」に連載されていた「ハナコ月記」をほぼリアルタイムでおいかけていたものである。今日まですべての単行本作品(再録集は除く)を読んでいる。つまり吉田秋生の作品群が好きなのだろう。
 十数年あるいは何十年ぶりか本作をひっぱりだしてみた。はじめて読んだのは、ちょうど主人公のヒースと同年代の頃だった。もう40年近く前の話である。まさに「夢みる頃を過ぎても」。

「カリフォルニア物語」の舞台は1975年からの数年間。カリフォルニアとあるが、ほとんどの舞台はニューヨークを中心に繰り広げられる。主人公はヒース・スワンソン。カリフォルニア州サンディエゴでの高校生活を捨て、ニューヨークの下町で新たな人々と出会い、青年から大人へとなっていく。

 あらためて作品を読んでみて、吉田秋生という作家は、人の心の苦しみや痛みと、それに対する許容と心の癒やしを書き続けてきたのだなと思い至った。誰にでもさまざまな心の傷があり、その傷の深さは他者には推し量れないものがある。心の傷は抱えながら生きるしかないが、その苦しみ、痛みをやわらげたり、散らすことはできる。他者との関わり、時間、風景、笑い、日常、そういった癒やしがどこでどのように現れるか、それもまた他者には推し量れないひとりひとりのものである。
 吉田秋生は登場人物の心の傷をはっきりと示し、そして、それを抱えて生きる姿を示す。それが共感をもたらすのだと思う。
 長編デビュー作の本作から「BANANA FISH」シリーズともいえる「イヴの眠り」までは、このひりひりした心の内側を描くのに暴力が重要な役割を占めていた。しかし「海街diary」からは直接的な暴力の要素が姿を消し、より日常性の中にある心の傷に触れるようになっている。著者の変化を感じるが、「海街」と「カリフォルニア物語」を読み合わせることで、そのテーマの一貫性を深く思い知ることになった。

 本作では、まず主人公ヒースの心の傷がある。もっとも深い傷は家族との関係である。大学で教鞭をとり米国有数の弁護士である父、その父の期待に応えエリートコースを歩む年の離れた兄、夫の厳格さに疲れて子どもを置いて去った母。ヒース自身も有能な子どもだったが、母に似て好き嫌いがはっきりした個性の強い性格は、父との確執を生み、父の期待に応えられないこと、兄への劣等感から心に傷を負って育つ。
 そんなヒースは悪友たちとのトラブルを機に家を出てニューヨークに向かう。ニューヨークの下町では若者たちがそれぞれの理由から集まり、日々の暮らしをなんとか立てていた。ヒースは旅の途中で出会ったヒースよりも若い青年のイーヴと出会い、ともに暮らすことになる。イーブもまた家族との関係から深い心の傷を負った孤独な青年だった。
 元海兵隊でゲイのアレックス、アレックスと海兵隊仲間だったリロイ、イーヴと旧知で後にヒースたちの前に現れるトラブルメーカーのブッチと、その妹でヒースに恋するスウェナなど登場人物の多くが何らかの心の傷を負っており、それが物語に深みを与えていく。
 ヒースはニューヨークでの日常の中で心の傷をみつめ、癒やし、一方で新たな傷を負っていく。そしてたとえばイーヴの心を癒やし、同時に苦しめることになる。

 そのなかで皆の心の支えになるのがインディアンと通称される大人の男である。彼の存在なしには救いのない物語となっただろう。名前が示すように彼は抽象的存在であり、精神のバランスの取れた、自分の心の傷をみつめ許容しともに生きることのできる人間である。だからこそ他者の心の傷に敏感であり、適度にやさしく、自分を見失わず、周りに信頼される。ヒースもまた、高校時代にカリフォルニアを訪れていたインディアンに救われ、彼を頼ってニューヨークに行き、暮らすことになる。最初から最後までインディアンの物語でもあるのだ。

 本作には時代を反映したように麻薬があり、暴力があり、ベトナム戦争帰還者があり、貧困と差別が存在している。身近な者の壮絶な死もある。ハードボイルド小説のような世界である。主人公のヒースもインディアンも、しかし、特別な才能の持ち主ではない。事件を解決するわけでも、誰かを積極的に救うわけでもない。ヒースは時に流され、時に自暴自棄になり、時にやさしく、時に理由なく暴れる、どこにでもいる青年である。ただ本来恵まれた生活環境だったこと、顔もスタイルも良く、根っこがとても優しい青年だったこと、そして周りにさまざまな人たちがいる。それだけである。その点では「海街」やその続編で現在も連載が続いている「詩歌川百景」の主人公たちと変わらないのかも知れない。
 吉田秋生の視点は変わっていない。たぶん時が絵柄と物語をより優しくしているだけなのだろう。もっとも、今後の作品は分からないが、老成してきた作者の、それもまた楽しみである。

 では久々にもっとひりひりする天才的主人公が出会った日本人青年によって救われる「BANANA FISH」を読み直すとするか。あ、そうか。アッシュと英二の関係性はヒースとイーヴの相似なのか。

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エターナル・フレイム

THE ETERNAL FLAME
グレッグ・イーガン
2012


「エターナル・フレイム」は直交三部作の第3作目である。現実のこの宇宙とは違う物理法則の宇宙での物語。
 数学と物理学の探究の物語であると同時に、実は性と出産、子育てをめぐる現代の寓話でもある。前作でもこの後半のテーマが物語の柱にあったが、本作はさらにつきつめて考える材料を与えてくれる。

 前作「クロックワーク・ロケット」は、近代に入ったばかりの惑星ズーグマは過去になかった天体現象が頻発しはじめる。その研究をするうちに、それが惑星ズーグマを近々破壊してしまう天体現象であることに気がつき、対策のために世代船「孤絶」を打ち上げるまでの物語。直交宇宙では現実の宇宙と異なり逆ウラシマ効果が成り立っていたのだ。世代船「孤絶」の中で経過する時間は対静止系のズークマより「早く」過ぎるため「孤絶」の中で研究を進めズークマ破滅から人々を救う対処方法を発見してから帰還することで、出発よりわずか数年で未来の「孤絶」がズークマを救うというプロジェクトである。ちなみに、現実宇宙におけるウラシマ効果とは静止系に対して相対論的加速をしている対象の時間が遅くなることから、現実世界で「孤絶」のようなことをすると地球に戻ったとき浦島太郎のように超未来になってしまう。その逆の効果が得られるのだ。
 解説によると、前作「クロックワーク・ロケット」は現実世界の特殊相対性理論に相当するものを発見し、本作「エターナル・フレイム」は量子力学相当、次作「アロウズ・オブ・タイム」は一般相対性理論相当を発見し、物語が進むことになっているそうである。

 本作「エターナル・フレイム」で物語はいよいよ「世代船SF」らしくなっていく。世代船といえばハインラインの「宇宙の孤児」(1963)である。「宇宙の孤児」は目的を見失って荒れてしまった宇宙船の物語であるが、本作はみな母星を助けるという目的は見失っていない。秩序だった世界ではあったが世代船物語は制約条件の物語であり、「孤絶」では恒常的な食糧不足とそれに伴う産児制限が女性たちを苦しめていた。
 直交世界でズーグマの人々は、双と呼ばれる男女一組の対になって出生する。自然状態では2つの対、すなわち4人が生まれるが、母体が飢餓状態にあると1つの双、すなわち2人しか生まれない。周辺環境に合わせたしくみとして組み上がっているのである。「孤絶」では女性たちは常に飢餓状態を選択せざるを得ない状況に置かれていた。男たちはふつうに食事をしているのに、である。
 生物学者のカルロは双のカルラの飢えの苦しみを見ていた。それもあり飢餓状態を作らなくても何らかの方法で1組の双しか生まれないようにする方法はないかと「孤絶」内の動物を使って研究を続けていた。
 一方、カルラは女性として自らに課している慢性的な飢餓状態に苦しみながら、物理学者として物質のふるまいについての研究を続けてきた。そして学生のひとりパトリシアのアイディアで物質とエネルギーにまつわる新たな発見の時を迎えようとしていた。
 同じ頃、天体学者のタマラは「孤絶」に近づく「物体」を発見する。それは直交物質でできた小天体であり、将来の資源・エネルギー不足が想定される「孤絶」にとっては可能性の塊でもあった。しかし、放っておけば「物体」は「孤絶」との最接近後に離れ去ってしまう。タマラを中心に「物体」を「孤絶」の位置から離れないよう軌道修正させるプロジェクトがスタートした。
 タマラには、畑で農業をする双のタマロと父のエルミニオがいた。彼らはタマラが「孤絶」を一時的にも離れ危険な探査を行なうことに危惧する。もしタマラが死んでしまったら、タマロは代理双を見つけない限り子どもを持つことができなくなるからだ。エルミニオはタマラの決断を自分勝手だと非難する。そして、犯罪が行なわれる。
 男性であり生物学者のカルロ、女性であり物理学者であるカルラ、女性であり天体学者であるタマラ、この3人を軸に、「孤絶」の政治を行なう評議会、保守的な考え方の人たち、革新的な考え方の人たちなど様々な人物が「孤絶」という限られた不安定でかつ目的をもつ空間の中でそれぞれにぎりぎりの選択をとっていくのである。

 直交宇宙のズーグマの人々の生態は現実世界の地球の人類とは大きく異なる。目もあり口もあり脳もあるが、手足は意志の力で複数発生させることができるし、呼吸の必要もない。ただ、熱を放散させる必要性が高いので、運動の抑制や休息時に身体を冷やすための工夫も必要である。たとえば宇宙空間にいくと直交宇宙では真空で身体の熱を廃熱できないので冷却空気をまとうための冷却袋に身体を入れる必要があったりする。
 もっとも異なるのが繁殖方法である。繁殖方法が異なれば、親子関係、夫婦(?)関係なども当然異なってくる。しかし、それ以外は人類と同じような思考、行動をとるように描かれている。きわだって異なる部分こそ、作家がテーマを込めた部分である。だから、この部分は物語を展開させるために奇をてらう部分ではなく、作家が思いを込めた本質の部分であるのだ。

 直交三部作を読む上で、現代物理学や高等数学の知識があるにこしたことはない。知識が深ければ深いほど、理解があればあるほど、直交三部作は「別の物理法則をあてはめたら宇宙は、生物は、どのようなふるまいをするのか」について楽しむことができるだろう。しかし、それらを知らなくても、理解できなくても、直交三部作をおもしろく読むことはできる。そのためには、分からないところは字面だけをおいかけて読み飛ばすという独特の読書方法が必要なのだが、それさえ身についていれば大丈夫。イーガンもそんな読者を見捨ててはいない。
 最初に書いたとおり、直交三部作は、少なくとも第二部まで読んだところでは、数学的物理学的実験の物語であると同時に、産む性としての女性がそれ故に社会から差別的に扱われ続け、その自立を妨げられ続けているという現実の社会に対する物語でもある。そこのところは前者が難しすぎて分からなくても読めるはずなので、それを中心に読んでもまったく問題ないし、読む価値がある。

 かくいう私も相対性理論や量子論、宇宙論などは表面的になぞり、一般化された知識を持つ程度に過ぎず、たとえばディラックの波動方程式などはまったくといっていいほど分からない。放送大学の物理学の講義とか見ていても、数式が繰り込まれたりして変化していく過程をぼんやりと分からないままに見ているのがオチであり、つまり現実世界の数式と直交世界の数式のどっちがどっちかも分からないありさまである。
 それでも、その直交宇宙の物理法則については言葉で書かれていることをすなおに受け取り、カルラたちがわくわくしながら試行錯誤して発見することには半分以上目をつぶって読み進めれば、そこに描かれる物語は実におもしろかったりするのだ。
 本書のおもしろさを半分しか分かっていなくても、他の多くのハードSFの何倍かはおもしろいのだから全部理解したらものすごくおもしろいのだ。だから恐れずに読み進めるとよいと思う。

(2022.5.8)

漫画 ゴールデンカムイ

2022
野田サトル

「ゴールデンカムイ」の連載終了(完結)を記念して、このゴールデンウィークに全編無料配信されるというので通しで読むことにした。たしか2年ほど前に途中までを無料配信していて、そのとき一度読んでいたような気がしたが、いつものざる頭、しっかり忘れているので安心だ。

 時代は20世紀初頭、場所は北海道を中心とした作品だが、本編中の回想として幕末から明治維新にかけての新撰組の動きや戊辰戦争五稜郭の戦いなども登場する。本編は日露戦争が終結した2年後の1907年にはじまりおよそ2年弱の間に北海道中をかけまわり、さらには樺太を経て北海道に戻る実にあわただしい物語である。
 物語の筋は、一部のアイヌたちによって集められ、埋蔵された途方もない金塊の手がかりをめぐる主に3つの勢力の争奪戦である。その中で、鍵を握るアイヌの少女アシ(リ)パと、彼女と行動を共にする日露戦争の生き残り「不死身の杉本」を通じて、厳しい自然環境の中で生きるアイヌ民族や北方の少数民族の文化や開発以前の北海道の動植物、風景を漫画という「絵」で語る物語である。
 本筋では、アシ(リ)パと不死身の杉本、大日本帝国陸軍の情報将校鶴見中尉をリーダーとする一派、実は戊辰戦争で死んでいなかった土方歳三をリーダーとする一派の3つの勢力の争奪戦で、その3つの間で裏切りや策謀、変節する登場人物たちや、手がかりとなる者たち、手助けしたり関わりのある者たち、そして主要登場人物たちの過去が複雑にからみあいながら進行していく。
 漫画としては集英社のジャンプ系(ヤングジャンプ掲載)らしく、激しいアクションと暴力に満ちあふれた冒険奇譚である。しかし、舞台の北海道や樺太、そして、アイヌ文化が物語に深みを与え、とりわけ序盤の情景の美しさや動物たちの動き、狩猟・採取、料理のシーンの美しさ、細やかさはじっくりと鑑賞する価値がある。
 また、アイヌ語監修にアイヌ語研究の中川裕教授を迎え、ロシア語にも専門家の監修を迎えるなど、荒唐無稽な物語に終わらせない迫力を感じる。
 この物語の芯には少数民族であるアイヌ民族の現代への道も描かれている。差別され、独自の文化、言語を持つ民族であることを否定されてきたアイヌ民族を「差別し、否定してきた」側から書かれている物語なのだ。その差別はいまだ解消されているとは言えない。差別の解消とは「差別してきた側」の問題である。「ゴールデンカムイ」を通じて学ぶことも多かった。これは決して過去の物語ではない。

 さて、極私的感想だが、私の出自の半分は薩摩にあるので親類には薩摩弁を話す人も多い。当時の軍部は薩摩藩出の者が重用されていたこともあり、薩摩弁もしばしば登場する。薩摩弁が物語の展開の鍵となるシーンもある。薩摩弁が書かれていると、その言葉のイントネーションが頭に浮かんでくる。そして、イントネーションが正しいと文章や単語の意味がとても分かりやすくなる。ちょうど韓国語を文字で見てもまったく分からないのに音で聞いていると知っている単語が出てくるようなものである。あいにくアイヌ語のイントネーションは聞き覚えがないのだが、きっとそういうように日本語と隣接するアイヌ語には近いところと遠いところが混ざっていて、そこに独特の音節が入ってくるのだろうなどと想像してしまう。

「ゴールデンカムイ」を世界が帝国主義時代となり、北海道が開拓期にはいる中での騒乱の物語として読むも良いし、黄金の鍵となる囚人たちに彫られた入れ墨の謎と、その「入れ墨人皮」をめぐる猟奇的なサスペンスとして読むも良い、歴史改変として見るもよかろう。壮大なエンターテイメント作品である。気軽に読むこともできる。
 物語を追ったら、あわせて一コマ一コマに描かれた細やかな絵の中に込められた情報の多さ、深みも味わってみたい。そんな作品であった。

注:この作品は激しい暴力、戦争による大量殺人の情景、人間および動物の死体の毀損や、物語の進行上において必要な差別的言動などが描かれています。人によっては嫌悪感や心理的ショック等を持つ可能性もあります。著者は冷静かつバランスよく書いており、作品にはまったく問題ないと思いますが、人に勧める場合には、その点の留意や配慮が必要かも知れません。

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クロックワーク・ロケット


THE CLOCKWORK ROCKET
グレッグ・イーガン
2011

 あらゆる物語は現実世界で起きた出来事と、その解釈から生まれてくる。それはすべての文学にあてはまり、ファンタジーであれ、SFであれ、その派生物だ。
 現実世界で川上から大きな桃が流れてきたり、竹が光り輝いたり、桃や竹から子どもが出てくることはないが、それさえも現実世界と解釈のたまものである。物語は改変されていく。もしかしたら柴刈りに出かけたのはおじいさんだけでなく、おじいさんもおばあさんもだったのかもしれない。「柴刈り」というが、「柴」は切り株にした広葉樹から生えてくる新しい枝であり、そのやや細い枝を刈り集めるものであったはずだ。繰り返し柴を刈り山を新鮮に保つ技は燃料と様々な材料を安定して調達する手段でもあった。竹も同様にただ山に生えているものではなく、資材、食材として活用されるものであり、今日とは大きく意味を違えている。
 そして、竹を切りに行ったのははたしておじいさんだけだったのか。
 桃太郎はおばあさんが、かぐや姫はおじいさんがそれぞれ見つけるわけだが、近代以前、子どものいない夫婦が血のつながっていない養子をとり、「家=家業」を継がせることは特別なことではなかった。その背景を考えれば、この物語もまた今日とは意味が違ってくるだろう。
「おじいさんは山へ、おばあさんは川へ」という性差による労働区分も産業革命以前と以後、そして今日では違った意味を持つだろう。

「クロックワーク・ロケット」はグレッグ・イーガンによる「直交三部作」の第一部である。この直交の宇宙は、地球の存在する現実世界とは異なる物理法則の宇宙である。グレッグ・イーガンは物理法則を少し変えることで新たな宇宙を生み出した。それは、もっとも単純に言えば、E=-mc2の世界である。熱や位置エネルギーが発生するとき、同時に光が生み出される世界である。なんのこっちゃである。
 物理学は現実世界を数式で描き出すものだが、数学はその基礎となる学問体系である。そして、数学からはいくつもの世界の可能性が導き出される。イーガンは、複雑な方程式を持ち出さず、図やその世界で起きるできごとを通じて、別の物理法則世界を読者に垣間見せてくれる。もちろん、ちゃんと勉強した高校生程度の学力があれば、ある程度ついていくことは可能だし、ていねいに読んでいけばそういうおもしろさに気づくことができる。
 しかし、しかしだ諸君。高校数学から離れて40年、大学でも慎重に数学は避け、科学的知識は表面的な理論だけにとどめ、へえええ、おもしろいじゃん、とだけ生きてきた人間に、この直交宇宙を理解するのは簡単ではない。
 簡単ではないから読むのをためらっていた。
 んがしかし、しかしだ諸君。イーガンも長年SF作家としてだてに物語を書いてきたわけではない。魅力的な登場人物を通じて、難しい部分をすりぬけながらも楽しめる作品に仕立てている。さすがである。もしかするとこの宇宙における特異な条件を描いた「白熱光」などより読みやすいかも知れない。
 そして、「クロックワーク・ロケット」はひとりの「女性」の物語であり、少数者、性的弱者、女性問題を正面から扱った作品でもある。
 主人公は惑星ズーグマに生まれたヤルダ。単者である。この世界において、男性と女性は双と呼ばれる対で誕生する。男性のアゼリオと女性のアゼリア、男性のクラウディオとクラウディア。しかし、時に片方の性だけが生まれることもある。それが「単者」だ。単者に求められるのは代理双。すなわち、双の代わりとなる者。双は生殖のために必要なしくみであり、女性は男性の双によって子どもをつくることになる。ただし、これは近親による生殖とは言えない。しくみが違うのだ。詳しくは書かないでおくが、生殖には女性側の死が伴う。つまり、繁殖のためには女性側は死を受け入れなければならないのだ。それはこの世界における自然の摂理であるが、世界が文明化していくにつれ様々なやっかいな問題が生まれてくる。女性として自らの選択で生を選ぶ人たちと、それを喜ばない(伝統的な価値観の)人たち。

 ヤルダはズーグマの自然森林に近い辺境の農村で生まれた。幸い父にめぐまれ、本人が望む教育を受けられることになり、子どもの頃に見た光にまつわる不思議な光景の謎を解くためにヤルダは数学者となっていく。
 ちょうどヤルダが数学者となっていく頃、ズーグマの世界には異変が起きていた。空にこれまでにはない星が時々現れるようになっており、その頻度が徐々に増してきたのである。「疾走星」と呼ばれる星は、ヤルダが研究をはじめるきっかけとなったものであり、そして、疾走星をめぐる研究こそが、ヤルダをズーグマのアインシュタイン的な存在にしていくことになる。単者の女性であるが故に、故郷や大学の町で差別的な扱いを受けたり、意志を否定され、不当な拘束を受けることになっていく。しかし、ヤルダの研究によって、ズーグマがやがて惑星ごと破滅する運命であることが明らかになる。この危機を回避するために、ヤルダたちは途方もない計画に着手する。
 直交世界で、相対論的速度を出すことによって静止座標系に対し時間が無限大に伸びることが分かってきた。つまり、ウラシマ効果の逆である。アインシュタイン宇宙では宇宙船が静止系の地球に対して相対論的速度で離れ、帰ってきた場合、地球でははるかな未来となっているが、その逆、すなわちズーグマを相対論的速度で離れた宇宙船は無限の時間を過ごし、ズーグマにおけるわずか数年の時に戻ってくることが可能となる。その間に、宇宙船の中で世代交代をくり返しながら研究を続け、ズーグマが破滅を防ぐための科学・技術的発見・発明を行なおうというのだ。
 第一部「クロックワーク・ロケット」では、ヤルダが成長し、プロジェクトを軌道に乗せるまでが描かれる。
 イーガンは、新たな宇宙と新たな世界を生み出した。と同時に、そこに現実社会が抱える問題を色濃く反映させている。そして、それをエンターテイメントなSF小説として完成させている。すごいことだ。
 ヤルダに起きる様々なできごと。それは現実社会で女性やマイノリティの人たちが直面する問題である。ヤルダは、自らの生き方を選択し、女性、男性を問わず、それをサポートする人たちとともに生きてきた。かっこいい女性である。

 イーガンの作品に限らず、科学的に難しい部分のあるSFは、もしそれが中長編であれば、難しい部分はある程度読み飛ばしながら流れを追うと良い。それでも、物語を通して得られるところは大いにあるのだ。

 それにしても、数学大事。難しかった。

(2022.4.25)

漫画 ヒャッケンマワリ

漫画 ヒャッケンマワリ
竹田昼
2017

 内田百閒が好きだ。日記や随筆が実に面白い。一時期凝ってしまい旺文社文庫などの古本をあさっていた。旧仮名遣いの文庫だ。たしか90年代最初の頃である。そのころ福武書店が文庫で内田百閒の作品を新仮名遣い出版しはじめていた。1、2冊買ってはみたが、しっくりこなかった。内田百閒は旧仮名遣いに限る。独特の文章は旧仮名遣いを意識して書かれたものだから。別に読んでも読まなくても困る内容ではないのだが、ちょっと疲れたときなどにちょうどよい文章なのである。朝の準備などちいさなところに思いっきりこだわったり、たいへんなことなのに鷹揚にかまえることのできる、それを淡々と味わい深くおもしろく短い文章で表現できるのは内田百閒ならでは。生き方がそのまま文章を生み出している。

 内田百閒を好きな人はやまほどいるもので、映画にもなっている。「まあだだよ」(1993、黒澤明監督)は実にふざけていて良かった。内田百閒らしい「間」が映画に流れている。興行的には振るわずいろいろ言われているが黒澤監督の遺作としてふさわしい作品だと思う。
 内田百閒がらみの漫画で言えば一條裕子氏による「阿房列車」1号~3号が小学館から出版されている。その名の通り、内田百閒の「阿房列車」「第二阿房列車」「第三阿房列車」を原作に漫画化したもので、一條裕子氏の独特の「間」が百閒の文章のおもしろさを存分に引き出していた作品である。あとがきなどを読むと鉄道関係の表現を絵にするのにずいぶんと苦労されたようである。きっと楽しかったのだろう。

 さて、本書「ヒャッケンマワリ」も内田百閒ものの漫画であるが、「原作 内田百閒」ではない。著者曰く、内田百閒が作品や随筆の中で書いている「私」をそのままに受け入れ、平山三郎をはじめ、百閒の周りの著作などを参考にしながら、内田百閒を主人公に書いた「百閒とその周りの出来事」の作品である。それは百閒の実状に迫るわけでもなく、百閒の作品に迫るわけでもなく、ちょっと気になったエピソードを漫画に仕立て上げるという「作業」である。だから突然、世界の旅人・宮脇俊三が登場したりもする。内田百閒の複数の著作を読み込み、確認し、そこから派生して調べ物をして、なおかつ絵にするというとても面倒くさい「作業」だが、たぶんとても楽しいのだろう。この作者は内田百閒という宝物を見つけた趣味人である。その趣味人らしい「間」はどことなく一條裕子氏にも似ている。いや、これは内田百閒の「間」に似ているのだ。
 どうやら内田百閒に深入りした創作者たちは、百閒の「間」に捉えられているようである。
 また内田百閒の著書をいろいろと読み返したくなったが、いくつか親族に貸しているので読みたい気持ちを大切にしてあわてずに待つとしよう。

(2022.4.18)

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