創世記機械

創世記機械
THE GENESIS MACHINE
ジェイムズ・P・ホーガン
1978
 2010年夏、ジェイムズ・P・ホーガンが亡くなった。69歳である。本書「創世記機械」が邦訳されたのは1981年。今から29年前である。私は16歳。ちなみに、ホーガンは40歳。本書を書いたのがそれより3年前だから、37歳。若いねえ。ということで、「創世記機械」には若さが溢れている。すぐに熱くなる青年天才科学者クリフォードが主人公だ。正義感たっぷりで、軍は嫌いで、若い奥さんにめろめろ。要領の悪さは、若い奥さんがしっかりサポート。さらに、理論家のクリフォードに、技術家の友人が登場。加えて、月の研究所にいるリベラルな大御所科学者まで加わって、クリフォードを支えていく。
 時は、21世紀初頭。1990年に大統一理論の基礎が完成する。6次元連続体を基本とするこの理論を元に、クリフォードは、物質とエネルギーの新たな様相についての理論を構築した。平時ならば、この理論は広く学会に発信され、新たな知の空間を開くはずであったが、世界は不穏な空気に満ちていた。世界は大きく西側自由主義諸国同盟と革新人民共和国大同盟に分かれ、インドや朝鮮半島を舞台に相互の緊張は高まる一方であった。
 理論は現実を動かす。秘密主義の壁の中、天才科学者クリフォードは扱いにくい人物として自らの理論から遠ざけられていく。しかし、それくらいのことであきらめるクリフォードではない。
 クリフォードは、自由な研究ができる世界をつくるため、「戦争を終わらせる」ことを決意するのであった。
 16歳の僕は、この「創世記機械」にすっかりまいってしまった。そうか、科学技術の使い方で戦争を終わらせることができるんだ。まあ、嘘ではないのだが、一面的な見方だね。それに、科学者がそれほど偉い存在でもないし。
 それから、29年が過ぎた。SFはSFである。
 気がつけば、舞台設定の21世紀最初の10年紀は過ぎてしまった。はや2010年、ふたつ目の10年紀となった。
 1970年代のような冷戦は1980年代後半に一度幕を下ろした。予想通り、中国は台頭したが、ソヴィエトは崩壊し、インドやブラジルといった新たな勢力が経済力を持っている。幸いなことに核兵器や生物兵器、化学兵器はほとんど実戦で使われていないが、そのリスクは高まっている。アフリカ、中東での地域紛争をはじめ、いくつかの紛争、戦争が起き、続いているが、我々はその事実をほとんど知らないままにいる。
 EUは政治的統一の道を模索しているが、経済的苦難がその足を引いている。ロシアは、旧ソヴィエト世界との負の遺産に悩まされている。中国は大国になることの難しさを知り、新たな拡張主義には慎重ながらも、エネルギー、食料、地政学的な視点から、アフリカや中南米などとの経済的な結びつきを注意深く、かつ積極的に取り組んでいる。
 政治的大連合は組まれていないが、経済的には新たなブロック経済的なものも見え隠れする。しかし、それ以上に「経済」の力が大きくなり、国家、政治の力が相対的に弱まり、経済対国家という図式も起きている。混沌とした21世紀初頭である。
 大統一理論はいまだ日の目を見ず、10または11次元でのひも理論が現在のところトップランナーを走っている。
 いろいろ古くなっているところはあるが、「勢い」のある作品である。その「勢い」は今読んでも褪せるところはない。書かれた時代を想像しつつ、アイディアの奔流を楽しんで欲しい。
(2010年7月24日)

シティ5からの脱出

シティ5からの脱出
THE KNIGHTS OF THE LIMITS
バリントン・J・ベイリー
1978
 ベイリーの短編集である。大学生の頃に買って、一度読んだきりであった。一気に読んでみると、地下や閉鎖された宇宙空間など狭いところにとじこもった人類の姿が浮かび上がる。読んでいて何となく息苦しい。
 私たちが生きているあたりは、渦巻き銀河のわりと端の方で、物質の量もすかすかである。宇宙のどこかには、物質の密度が大きく、空間がまれなところもあるに違いない。そういうところにおいて、知覚する生命体がいたら、空間をどのように見るのであろうか?
 たとえば、そういう思いつきを小説に仕立てる。
 それがバリントン・J・ベイリーである。
 たぶん、「笑う」というのが正しい読み方なんだろう。イギリス的な、皮肉の効いた笑い。小説ではよく分からないんだよなあ。
 たとえば、今日。首都圏は連日の猛暑に苦しんでいた。このまま毎年猛暑日が増えていったら、どうなるのだろう。ロシアでは、ウォッカを飲んで水につかり溺れる人が続出しているという。日本でも熱中症での死者が多い。昨年だったか、ヨーロッパでも同様のことがあった。私たちはこの暑さにどうやって適応していくのだろうか?
 これを、科学的な知見を加えつつ、奇想天外な解決方法を用意し、そして最後に皮肉な笑いで落とせ、と言われて、それに答えを出すのがベイリー。すごい。
(2010.7.24)

愚者の聖戦

愚者の聖戦
THE WORLDS OF CLIFFORD SIMAK
クリフォード・D・シマック
1960
 シマックの短編集である。短編集になるととたんにウィットが効く作家である。
 姿なき別次元との交易がはじまった。その秘密を握るのはほんの2家族だけ。大もうけの結末は「ほこりまみれのゼブラ」。
 不思議な不動産取引で、もうけを保障された不動産屋。しかしあまりの不思議さに、その真実を追究したところ「カーボン・コピー」。
 地球を逃亡し、新たな植民星にたどり着いた不死人に待ち構えていた真実「建国の父」。
 突然、超能力を得た知的障害児が起こしたのは「愚者の聖戦」。
 ある日人類はちょっと先の未来が予知できるようになってしまった。世界はおだやかに変わる「死の情景」。
 ぐったりとなった不思議な植物。男は、手をつくして介抱した。その植物は「緑の親指」。
 シマックらしいやさしさが、笑いにも、悲しみにもあふれている。
(2010年7月24日)

都市

都市
CITY
クリフォード・D・シマック
1952
 アーサー・C・クラークの「都市と星」は1956年。その初版ともいえる、クラーク長編処女作「銀河帝国の崩壊」が1953年。それよりも古い作品である。
 本書「都市」は、8つの連作短編から成り立ち、その間を「現代の解説者」がつなぐという、連作短編を長編化した作品に見られる典型的な構成となっている。
 傑作である。
 遠き遠き未来。犬たちの世界。古き伝承が文書化されている。多くの研究者、思想家がこの伝承の真偽に取り組み、論争を繰り広げていた。人間とは実在したのか?都市という生活形態の意味は?戦争とは、殺害とは何か? ロボットを人間が生み出したというが、犬に人間が言葉を与えたというが、人間とは神の象徴なのか?
 解説者は、時に人間の実在に与し、時に神話と判断し、読者である他の犬たちに判断をゆだねている。
 都市。
 人間は、文明の進化の中で、都市を捨てた。自動車社会の延長に、郊外型の社会が誕生し、やがて、個人、家族中心のコミュニティ不在の社会ができた。都市の存在が終わった。
 ロボットが生み出された。人間をサポートする者。人間に替わって働く者。
 人間は宇宙を見つけた。そして、新たな哲学を、存在を見つけた。
 人間はいなくなった。いなくなった。いなくなった。
 そして、犬と、犬をサポートするロボットの社会が生まれた。
 物語を一貫して通す、ウエブスター家の人々の歴史と、ウエブスター家、犬たちの歴史の間にいる、ウエブスター家の執事ロボット・ジェンキンス。ジェンキンスとウエブスター家、ジェンキンスと犬たち。
 クラークの「幼年期の終わり」「都市と星」にも勝るとも劣らない、それでいて、シマックらしい牧歌的な物語と人類史。
 私がこの作品「都市」をはじめて読んだのは、おそらく昭和52年頃。1977年あたりである。12歳の中学生になったころだと思う。奥付が昭和51年9月の初版となっているからだ。
 その幻想的なイメージと、壮大な人類史は、レイ・ブラッドベリの「火星年代記」や萩尾望都・光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」などと並んで、強烈な印象を与えた。
 今、あらためて読み返してみても、すごい。未読の方のために残して置くが、多くの人間がいなくなった理由がすごい。まさしく「幼年期の終わり」である。そして、現代にも通じる「共感」というキーワード。SFが文学として目指している未来のひとつが、「共感」であることは疑いない。
 過去、未来、あるいは、新しい技術、哲学の中で、物語は現代の思想、生活、社会とは異質なものを描き出す。そこでも読者は「共感」することができ、作品の中では、異質さ同士に「共感」を生み出す。そして、「共感」が生まれないところに、絶対的な異質さが現れ、「共感」が強調される。絶対的な異質さを描かせたら、スタニスワフ・レムの右に出る者はいないだろう。「共感」を素直に書かせたら、シマックの右に出る者はいないのではないか?
 やさしい、すてきな物語である。SFとしてもおもしろいので、ぜひ。
 そうそう、訳者が「林克己・他」となっているが、「他」には、近代日本SFの父・福島正実が含まれていることを付け加えておきたい。なるほど。
(2010.07.03)

小鬼の居留地

小鬼の居留地
THE GOBLIN RESERVATION
クリフォード・D・シマック
1968
 好きな作家なのだが、本書「小鬼の居留地」は初読。たぶん。たぶん、古本屋で入手。たぶん。ぼんやりしている。
 超自然現象学部のマックスウェル教授は、物質転送機での異星への調査旅行から地球に戻ってきた。しかし、教授は物質転送機の問題なのか、予定していた目的地ではない星に到着し、そこで、秘密のミッションを与えられてきたのである。帰ってきた教授は、自分がひとりではないことを知らされる。先に、もうひとりのマックスウェル教授が地球に帰ってきていたのだ。当初の予定通りの目的地に行き、そして帰ってきた。自分がふたり! しかも、その先に帰ってきたマックスウェル教授は事故で死に、結果的に、マックスウェル教授はひとりとなっていた。物質転送機がこのようなトラブルを起こしたことはかつてない。保安局も調査に乗り出した。
 もちろん、マックスウェル教授に咎がある訳ではない。彼は自分の部屋、自分の大学に戻ることにした。過去からやってきた穴居人や「おばけ」の友人たち、新しくできた女友達とともに、マックスウェル教授のなぞを解こうとするマックスウェル教授。エールビール好きの小鬼の友人をはじめ、古い時代には幻想と思われていた地球上の存在、異星の存在が混在する世界で起きる、牧歌的なほんわかしたどたばたコメディー。
 ファンタジーとSFの中間領域にあるような作品である。
「居留地」におしこめられた小鬼=ゴブリンというのはちょっと哀しい。
 気のいい、かつ、気の短いゴブリンがつくるエールビールっておいしそうだな。
(2010.07.01)