ユダヤ警官同盟

ユダヤ警官同盟
THE YIDDISH POLICEMEN’S UNION
マイケル・シェイボン
2007
 ミステリ作品である。ハードボイルド作品かもしれない。しかし、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞を受賞しているから、アメリカではSFとして高く評価されている。
 舞台は、2007年、アラスカ・シトカ特別区である。1940年、アラスカ移民法で、ユダヤ人の移住がはじまり、1948年には200万人にまでふくれあがっていた。1948年に建国3カ月のイスラエルが崩壊し、シトカはユダヤ人最大の居留地となった。アメリカは暫定的に1998年1月1日までの60年間を連邦特別区として認めた。そして、人口320万人が暮らす特別区ができた。当然のように先住民族であるトリンギット族との間の対立も起きる。世界の中で微妙な立場に置かれ続けたシトカ特別区は、あと数カ月後にはアラスカ州に返還される。ユダヤ人にとっておかしな時代であった。
 主人公は、マイヤー・ランツマン刑事。シトカ特別区警察殺人課所属。安ホテル暮らしで、毎日アルコールに溺れる、不眠で、抜群の記憶力を持つ男。同僚の警官との離婚歴あり。前年ただひとりの肉親である妹を事故で亡くす。
 事件はランツマンが暮らすホテルで起きる。ひとりの青年がプロの手によって暗殺される。なぜ、彼は殺されたのか? 彼は一体何物なのか? ただの殺人事件の捜査のはずだった。しかし、事件は思わぬ方向に向かう。
 殺人課には、別れた妻が上司として帰ってきて、連邦返還に向けての捜査の縮小といくつかの成果を求められる。ただの男の殺人事件は放っておけという訳である。ランツマンは、自分の近くで殺された男のことを忘れられない。元妻で上司の命令を無視して勝手に捜査をはじめる。
 そして、彼は、返還間際のシトカをめぐる様々な陰謀に巻き込まれてしまう。
 自分の回りで何が起きているのか分からないままに、右往左往するランツマン。それこそがハードボイルドの主人公である。撃たれ、だまされ、欺かれ、監禁され、それでも、ランツマンはあきらめない。もはやこだわる理由などない。ただ、シトカの警官として、彼はたったひとりでも戦う。何か分からないものに向かって。
 架空の舞台をもとに、もうひとつのユダヤ人の世界を描き、大離散を民族として心に持ち続けるユダヤ人の姿をステレオタイプではなく描いた作品である。歴史改変SFとして、ハードボイルド作品として、それぞれに良質の作品である。巻き帯の釣り書きではBookrist誌が村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を引き合いに出していることを紹介している。
 なるほど。
「ここではない」という違和感は、20世紀の終わりから21世紀のはじめの私達の多くが共有している感覚ではないだろうか。とりわけ近年の日本に暮らす人達においては焦燥にも近い違和感を漠然と持つ人が多いのではなかろうか。何かが違う、どこか間違っている、ここではない、こんな風ではない、どこが違うとは言えないが、生命体としての人間と現実のありようのずれ、ここに属していながらも属しているとは思えない感覚、関係性の喪失なのかもしれない。なんだろう、この感覚は。世界観の根底にある共通するもの、イデア、ユングの言う集合的無意識、それらが崩壊していくような感覚。神話や物語の崩壊。
 一方で、「ハリー・ポッター」や「指輪物語」などのファンタジーが、原型としての神話や物語の代りとして受け入れられているが、同時にそれらは商品として消費され、償却されていく。読みながら、あるいは映画を見ながら、それらが失われていく。
 どこにその違和感の根源があるのだろうか?
 違和感を持つことそのものが根源的な問題なのだろうか?
 そんなことを読み終わった後に考えさせてくれる。
 その後には希望がある。希望とは再生である。再構築である。
 読者を崩壊したままにはしないこと。それが良質の物語である。
 本書「ユダヤ人警官同盟」は、良質の物語である。
 SFファンにも、ミステリファンにも、ハードボイルドファンにも、あるいは、現代文学を愛好する人にもお勧めしたい、エンターテイメント文学作品である。
(2009.6.20)

スパイダー・スター

スパイダー・スター
SPIDER
マイク・ブラザートン
2008
 西暦2433年にはじまり、西暦2494年に終わる物語である。今から4世紀後、舞台はポルックス星系惑星アルゴにはじまる。人類は、地球から遠く別の星系に移住を開始していた。ポルックス星系惑星アルゴには、すでに滅んでしまったと思われる知的生命体文明の遺跡があった。1千万年前から高度な科学技術を持ち、宇宙時代を築いていたアルゴノート文明は25世紀の人類にとっても新たな科学技術を知る遺跡として注目されていた。高度な科学技術には「パンドラの箱」が隠されていることがある。いくら慎重にしていても、いくつもの罠があり、気がつかないうちに、地雷を踏んでいることになる。アルゴに移住した人類は、その地雷を踏んでしまった。突然アルゴの太陽であるポルックスが惑星アルゴの衛星に向けて光のパルスを放ち、攻撃をはじめたのである。
 古代異星種族の兵器になすすべもないアルゴの地球人類。この武器の秘密を解明し、惑星アルゴの人類破滅を防ぐため、アルゴノート文明の記録にあるスパイダー・スターを探し、そこにいると言われている超古代からの「存在」にアクセスする必要があるのだ。
 かつて一度だけ、生きた人類外の知的生命体と接触したことのある男を中心に、新たな探検隊が組まれ、伝説のスパイダー・スターを目指す。家族とアルゴの人類を救うために!
 キーワードは「暗黒物質」である。暗黒物質からエネルギーを取り出すのだ。暗黒物質とは何か、が、ひとつの鍵となる。
 一方で、ストーリーはあくまで人間中心。ちょっと変わっているのは、登場人物の「ひとりごと」が多いのである。ぶつぶつ言っているわけではない。作者のブラザートンは、主人公だけでなく主要登場人物全員について、頭の中で考えていることを細かく書き記す。主に、行動の動機につながるものだが、「私はこう考える、故に、こう行動する」「こういう行動をした結果、私はこのように次の行動を考える」をしつこく書いているのだ。ストーリーは冒険あり、宇宙戦争あり、肉弾戦戦闘あり、未知との遭遇あり、ウラシマ効果による別離ありと波瀾万丈なのだが、そういう感じを受けないのは、作者が登場人物の内実にこだわるからだろう。ちなみに、作者は現役の天文学者で専門はクエーサーと活動銀河核の観測研究だそうである。その知識と最新の宇宙論が十分に反映されている。科学者で、専門の知識を活かしてSFを書いているといえば、ロバート・L・フォワードが思い浮かぶ。やはり、登場人物の表現にはやや難があったが、科学的な表現では楽しく読むことができる。同じような感じだ。
「暗黒物質」「暗黒エネルギー」については、今ホットな話題がある。もしかしたら「暗黒物質」や「暗黒エネルギー」を宇宙論に導入しなくてもいいのではないか?という理論である(日経サイエンス09年7月「暗黒エネルギーは幻か?」)。もちろん、ひとつの説であり、どっちがどうだという考証ができるような専門家ではないのだが、外野にいる科学の話題ファンとしては、楽しい限りである。
 そういう点から、本書「スパイダー・スター」は楽しい。
(2009.06.15)

犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎

犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎
TO SAY NOTHING OF THE DOG
コニー・ウィリス
1998
「神は細部に宿る」という言葉を知ったのはいつのことだっただろう。「雑事に手抜きをしてはいい仕事はできない」というのは、高校1年生のときに先輩に聞かされた言葉である。大局で仕事をしたかったら、小さな雑事をおろそかにしてはいけないし、人任せにしてばかりではいけないということだ。だからかも知れないが、いまだに私は雪かきのような仕事をしている。ついつい小さな雑事に目が行ってしまい、そっちを片付けないと大局に行けない癖がついてしまったようである。そういうときの言い訳が「神は細部に宿る」なのである。本来の意味とは違っているのだけれどね。そうそう「雪かき」というのは、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」で主人公が自分の仕事について語る言葉である。なかなかによい。そういえば、村上春樹の「1Q84」という作品が発売されて、ものすごく売れているらしい。読もうと思って本屋さんに行ったけれど、完売していた。すごいものである。そう思いながらうふと目の前の本棚に目をやると「89」という作品が目に入った。こちらは橋本治のエッセイ。結構分厚い本である。1980年代後半というのはいろんなことが起きた頃であるが、自分がちょうど大学生であったり、社会人になったりと変化の大きい時期だったので、よけいにそう思うのかもしれない。そういえば「バブルへGO!」というタイムスリップものの映画があった。21世紀冒頭に、バブルの崩壊を止めようと、偶然80年代に発明されたタイムマシンを使ってバブル全盛期に戻るという映画である。まあ、あほな映画なんだが、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のパロディ的な要素もあるという。でも私は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を見ていないので、どこがパロディだか分からない。ということで、「犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎」の話である。2057年のイギリスの大学では、第二次世界大戦で消失したコヴェントリー大聖堂を復元させる計画でてんやわんやの状態であった。主人公のネッド・ヘンリー君は行方不明の「主教の鳥株」のゆくえを求めて、過去を何度も飛ばされる。このタイムトラベルは、過去から空気や微生物程度のもの以外持ち帰れないようになっているだけでなく、時空が崩壊しないようなしくみが科学者と時空そのものの仕組みによってできているのだけれど、なぜだか歴史が改変され時空が崩壊しかねないできごとが起きてしまう。その重要なポイントが1888年。ヴィクトリア朝のオックスフォード近郊である。時代差ぼけのネッド・ヘンリー君、ぼんやりした状態のままに、世界を崩壊から守るため何とかしたいと必死であっちこっちをさまようはめに。木を見て森を見ず、森を見て木を見ず…。どうして犬は勘定に入らないのか、犬について語ることは何もないのだけれど、犬と猫も大活躍。笑いあり、涙あり、歴史あり、パロディあり。パロディって元ネタを知らないと楽しさ半減なのだ。だから、どうして犬は勘定に入らないのかが分からなかったりするけれど、そういう難しいところは読み飛ばしても大丈夫。それなりの楽しみ方はできるから。後半になるにつれ「推理小説」的要素も出てきて、謎は最後に解かれるのだけれど、犯人はおまえだ!というあたりは、あまり期待できないのである。大団円になることは請け合い。でも、読み飛ばすにしても、目は通してね。「神は細部に宿る」のだから。
ヒューゴー賞・ローカス賞受賞作品
(2009.06.05)

レインボーズ・エンド

レインボーズ・エンド
RAINBOWS END
ヴァーナー・ヴィンジ
2006
「電脳コイル」が放映されたのは2007年である。ちょっと懐かしい感じの町で小学校に通う少女を主人公にした、この作品では、メガネというウェアラブルコンピュータを身につけることで、現実の空間と仮想空間を重ね合わせ、現実と仮想空間を自由に切り替えながら生活し、学校に通い、遊ぶことができた。「電脳コイル」では、この仮想空間のバージョンの違いやデータのほころびから新たな「都市伝説」が生まれ、それが物語の柱となっていった。ウェラブルコンピュータと現実空間の仮想化(マッピング)による新しい世界について分かりやすく描いた点で、この作品はきわめて象徴的で衝撃的な作品である。もちろん、それ以前にも「攻殻機動隊」で近未来の、現実と仮想空間の入り乱れた姿を描いているが、電脳コイルには日常感が存在していたのである。
 さて、本作「レインボーズ・エンド」は2006年に発表された作品で、舞台は21世紀前半。人々は、コンタクトレンズとシャツでできたウェラブルコンピュータを身につけ、「電脳コイル」をしのぐ現実感で現実空間が仮想化された世界に生きるときの人の変化を活写する。
 さすが、ヴァーナー・ヴィンジである。
「遠き神々の炎」「最果ての銀河船団」で遠未来の世界を描いたヴィンジが、1981年に発表したのが「マイクロチップの魔術師」。インターネットでのヴァーチャルリアリティーについて、インターネット創生期の頃に書かれた作品であり、大きな衝撃を与えている。「遠き神々の炎」「最果ての銀河船団」では、特異点を超えた知能の存在が描かれている。人工知能がある時点で人間の知能を上回り、それがさらに知能を上回る存在を生み出し、加速度的に知能が発達、成長し、その結果として、人類(や、それらを生み出した種属)は、終焉、大変動、本質的変化を受けることになるというものである。
 本書「レインボーズ・エンド」では、特異点的な存在は出てこない(ようである)。人々は、ウェラブルコンピュータを身につけ、リアルとバーチャルを自由に切り替えながら生活や仕事をしていた。時に場所は意味を持ち、時に場所は意味を持たない。距離も、時間も、立場も、時には制約を失い、時には制約にしばられる。すべてのものがデータ化され、マッピングされようとしている時代のはじまり。
 それは、特異点につながる自然発生的なネットの中の人工知能の誕生を迎える前夜のような世界。
 それでも、戦争があり、貧困があり、苦痛がある。幸せの数と同等に。
 子どもたちは新たな遊びを覚え、開発し、そして、罠にはまる。
 大人たちは新しいおもちゃに興奮し、支配を考え、失敗し、破綻する。
 人間がすることは変わらない。たぶん。
 世界は拡張され、人の認識も拡張されるが、私達は食べ、飲み、眠らなければならない。そして、誰かとふれあい、認知され、存在を許容されなければならない。
 そうしたい。
 おそらく、本書「レインボーズ・エンド」は、2006年の「マイクロチップの魔術師」なのだろう。だから、あと20年ほどして読むと、なるほどねえ、とか、あはは、とか思えるのだろうと思う。ちょっとリアルすぎて困ってしまう。少し未来を見たいという人にはお勧めしたい作品である。
ヒューゴー賞・ローカス賞受賞作品
(2009.06.01)

反逆者の月3 皇子と皇女

反逆者の月3 皇子と皇女
HEIRS OF EMPIRE
デイヴィッド・ウェーバー
2003
 ペリー・ローダンにはじまった「反逆者の月」は、「反逆者の月2 帝国の遺産」でスター・ウォーズに変わると同時に「王の誕生」物語となり、本書「皇子と皇女」は予定調和的に「王の子どもたち」の物語となって終息に向かうのであった。
 今回の主役は、皇帝コリンの双子の皇子と皇女であるショーンとイシス。帝国中枢ですくすくと育ったふたりは、帝国海軍に入り、特別扱いされることなく、軍人として育っていった。帝国は順調に体制を整えられていたが、有無を言わせず帝国の進んだ科学力と独自の文明に取り込まれてしまった地球と地球人たちには、不満を持つ者も少なくなかったのである。ひそかに陰謀がたくらまれていた。それはあまりにも周到で密やかだったため、誰にも気づかれることなく進んでいた。その最初のターゲットは、ショーンとイシス。彼らを葬るための陰謀は成功したかに見えたのだが…。
 ということで、若い皇子、皇女と、その友人たちがある惑星で戦争を行うはめになったのだった。すべては「生き残り、帝国に復帰する」ため。そこは、産業革命直前の状態が長く続く宗教的国家体制の国。鉄砲はあれど、戦車はない。主な武器は騎馬と刃物。古典的な陸上戦である。戦争オタクの作者デイヴィッド・ウェーバーが、宇宙船ではなかなか描けない陸上戦を激しく活写する。
 さて、ふたりの運命はいかに。そして、帝国の運命はいかに。
 ということで、本作では、皇帝となってしまったコリンの活躍が見られない。皇帝になるとそうそう気楽に動けないのである。残念! ペリー・ローダンならば、いつも前線にいそうなのに。その代りに子どもたちが頑張る。このあたりは、レンズマンシリーズの終盤に近いかもしれない。スター・ウォーズも、よく考えれば「子どもたちの物語」だしなあ。
 何も言うことはありません。前作を読まれた方はそのまま最後まで読み通しましょう!
(2009.05.20)