ヘリックスの孤児

WORLD ENOUGH & TIME

ダン・シモンズ
2002

「ハイペリオン」シリーズで著名なダン・シモンズの中短編集。ダン・シモンズはとてもストーリーを語るのが上手で、でもってちょっと苦手な作家でもある。もちろん「ハイペリオン」4部作は何度も読み返したくなる素晴らしい作品だし、20世紀SFの頂点のひとつと言ってもいい。それ以外の作品は実はほとんど読んでいなくて、いつか機会があれば読むのかも知れないけれど優先度は低かったりする。あくまで個人的嗜好の問題で、シモンズに何か問題があるわけではない。
 この作品集には、なんと作品ごとに著者による解説序文が付いている。しかもたっぷりと。良いか悪いかは別として、ついている。作品とは関係ないエピソードもたっぷりだが、それもまた「全体を見よ」とささやく(いや、叫ぶ)ダン・シモンズの思いの表出なのだろう。もしかするとそういう圧力を感じるのがちょっと苦手なのかも知れない。

 さて、読み終わってから気がつくのはいつものことで、表題作「ヘリックスの孤児」はハイペリオンシリーズの番外編、その後を描いた作品である。これはロバート・シルヴァーバーグが人気SFシリーズの番外編をその作家に書いてもらう企画によるもので、「SFの殿堂 遙かなる地平」の2巻に収められている。だから一度読んでいる。
 本作品は4部作を読み終わり、その最後の鍵である「共感の刻」を理解していないと設定がよく分からない。そもそも遠未来で人類は変容しているので、それを知らなくても読めるが理解に及ばない。だから、まず「ハイペリオン」シリーズを読んで欲しい。絶対。おもしろいから。
 以下、簡単に作品について。

ケリー・ダールを探して…かつての教え子だったケリー・ダールを探す主人公。不思議な時間と空間のゆがみに捉えられてしまう。ちょっとブラックなファンタジーであり社会風刺でもある。そしてテーマのひとつが「共感」

ヘリックスの孤児…遠い未来、新たな居住地を求めてAIが操船する宇宙船に眠る人々。AIが数人のクルーを起こすのは対処が必要なときだけ。その星系には人類の末裔がいて、そして問題を抱えていた。

アヴの月、九月…イリアムシリーズの前日譚で、古典的人類がポスト・ヒューマンによって実体的な絶滅を定められた最後の日々を描く作品。一方で過去のユダヤ人排斥(虐殺)をモチーフにした作品でもある。

カナカレデスとK2に登る…登山家のお話。3人の登山家がK2をめざす。ある出来事があり、国連から南極を居留地としている異星人のひとりを同行させるよう求められる。カマキリ型の異星人カナカレデスと3人がひたすら真剣にK2登頂をめざす。

重力の終わり…元は映画シナリオとして発案された作品。アメリカの作家兼ライターがロシアの宇宙開発の実際を取材する。通訳には現地の元(宇宙)航空専門医の女性がつく。そして新年を迎える。どことなくタルコフスキーの「ソラリス」的世界で、「ノスタルジア」的映像を感じる独特な小品。

 全体を通して、シモンズがテーマにしているのが「痛み(喪失)と共感」であることがはっきりする。とりわけ最後の2篇にはその要素が強い。そして、主人公たちは、意図せず結果的に「共感」を得るのだが、その過程である自覚はなく、ただ内面的・外面的に苦しみを自らに課していくのである。

ウォー・サーフ

WAR SURF

M・M・バックナー
2005

 悪夢のような世界の、悪夢のようなエンターテイメント小説である。
 舞台は2253年の地球。
 主人公のナジールはすべてを生き抜いてきた男性。2005年生まれの248歳。推定余命50年。
 ナジールはすべてを持つ男。大企業の重役で資産家。すべてに贅をつくしており、それ故にすべてに飽きていた男。
 このナジールが、2233年頃に生まれた20歳の女性シーバに出会い、入れ込みすぎて、すべてが狂い、救済される物語。

 むかつく物語である。なぜなら、読み手である私は他のほとんどの人間たちと同じく奪われる側の人間だから。それでも、SFだから読む。悪夢のような世界について知るために。

 この2253年、すなわち23世紀中盤の地球は最悪の環境にある。地球の大気は呼吸に不適切なほど汚染され、海もまた気候変動の結果陸上から流れてしまった様々な汚染物質で汚れていた。しかし、地球人口は120億人、年2%の人口増加。年4%の天然資源不足。
 世界の通貨はドイッチェ。株式市場や金融市場は健在。世界秩序は国連、とりわけWTOがになっているが、実際に世界を動かしているのは少数の大企業である。世界は大企業の経営者-被雇用者、それ以外の人間で成り立っていた。企業は正社員となっている従業員を原則的に終身雇用しその子孫も支えることになっているが、その結果として企業は疲弊するため「削減を余儀なくされる」のであった。社員を辞めさせられず、「削減」するためにはどうすればいいだろうか?考えてくれたまえ。
 このような社会になった背景には、2057年の「クラッシュ2057」がある。200年前のできごとだ。気候変動による壊滅的で急激な気象災害が発生し、それを引き金に世界的な金融恐慌が起こり、すべてが失われたのである。
 ナジールは当時52歳、資産、家族、すべてを失った後、世界を再建し、企業を、市場を、経済を安定させるために全力を尽くして働いた。その成果が2253年の今である。
 退屈な日常の中で、同世代の5人の長命男女は「苦悩組」と自らを名乗り、「ウォー・サーフ」にのめり込み、世界トップの座を守り続けていた。
 ウォー・サーフ。それはこの世界で人間が起こす戦争に最も近い形、企業従業員によるストライキを使って行なう肝試しである。企業従業員は何らかの理由で企業に対しストライキをしかけることがある。企業側はあらゆる手段でストライキを解決しようとするが、それは企業の警備機構と組合側の武力闘争となることも多い。つまり内戦のようなものである。そのエリアは近接、立ち入り禁止になるのだが、「苦悩組」をはじめとするウォー・サーファーたちは、そのエリアに近接、侵入し、自らが宣言したタスクをこなし、無事脱出することを競う。そして、自ら撮影したその動画の再生回数や内容が裏ネットのランキングとして評価されるのである。
「苦悩組」はナジールを中心とした資産と情報力に裏打ちされた装備と計画で常に最高のサーフをこなしていたのだ。もちろん違法サーフであり、「苦悩組」の中の正体は匿名化されている。
 ここまででも結構醜悪な話である。持たざる人々は企業従業員という地位を確保するのが生存の死活問題になるが、それは企業に生存のすべてを従うことを意味する。そして企業に要求を求めることは、内戦と同じようなものであり、絶望の闘いでもある。
 ウォー・サーフとは、それを自分達のアドレナリン興奮のための遊び場にするのだ。
 すべてに飽きた者が、命をかけることで得られるぎりぎりと快感のための遊び。
 物語の視点は、ナジールである。持てる者の視点。

 しかしナジールはシーバに夢中である。執着という言葉がぴったりである。本書の半分はナジールによるシーバへのストーカー的な執着である。
 そのシーバにいいところを見せたいがためにシーバが関心を示したウォー・サーフにシーバを参加させ、当然のことだがサーフを失敗する。
 失われた「苦悩組」の評価と、傷つけられたプライドがナジールを追い詰め、「天国」へのサーフに向かわせる。
「天国」、それは軌道上にある人工衛星A13の俗称。食料製造に欠かせない糖たんぱく合成品を製造する企業衛星だが、長年にわたりストライキにより立ち入り禁止措置がとられている。具体的な情報は企業から出されておらず企業の警備宇宙船が出入りする者がないかを監視し続けており、近接する者は無条件で攻撃を受けることになっている。
 世界最高のサーフポイントとして位置づけられるが、軌道上にあることを含め、誰もサーフに挑戦していない憧れのポイントである。
 ナジールはシーバらとともに、「天国」をめざし、そして…天国の中には、地獄が待っていた。

 ここから先は書かないでおく。物語の本編はここからである。
 本書に登場するガジェットは様々あるが、地上、海中、軌道上の構造物の描写、長命を維持させるための様々なバイオIT技術などの描写はていねいであり、物語に迫真性を与えている。とりわけ、天国における人工重力のつくりかたとそれゆえの行動の特殊性は他にはない魅力かも知れない。これまでも恒星船やスペースコロニーでの人工重力とその勾配にともなう物語はあったが、本書のそれは結構複雑である。
 大オチに向かっては、「それはないわあ」というご都合的なところもあるが、ご都合的なものあってのSFでもあるのでご愛敬だ。

 さて、むかつきに戻って。たしかに21世紀初頭のいまでも世界は単純に言えば二極化している。「持てる者」と「持たざる者」である。もちろん、二極化したと言っても、その階層は複雑ですごく持てる者とそれ以外、ちょっと持っている者と、それよりは持っていない者など線引きは単純ではない。先進国と後進国、北半球と南半球、資本家と労働者、政治家と有権者、大国と小国、大企業と中小企業、大人と子ども、男性とそれ以外、老人と若者、金持ちと貧乏人、指揮官と兵卒…。
 問題は、世界のあらゆる局面で平準化する方向に動くのではなく、格差を拡大する方向に動く力が大きいということである。平時でも、災害が起きても、戦争が起きても、経済危機があっても、常に格差を縮めるのではなく、広げているのだ。
 そのなかで、資源を食い潰し、環境を汚染し、環境に依存する資源を失わせ続けている。
 そのことを「持てる者」の視点で強烈にぶつけてくるのが本作の力である。
 後味は悪いが、小説としては優れた力を持っているのだろう。
 フィリップ・K・ディック賞を取っているのもうなづける。

2022.9.4

孤児たちの軍隊 ガニメデへの飛翔


ORPHANAGE

ロバート・ブートナー
2004

 西暦2037年、人類は滅亡の危機に瀕した。突然宇宙から地上に無差別に爆弾が落ちてきたのだ。木星の衛星ガニメデに太陽系外の存在が前線基地をつくり、そこを拠点に地球を壊滅させようとしている。ガニメデの温度は最低気温摂氏マイナス18度まで上昇し2%の酸素を含む薄い大気ができていた。そして、異星の侵略者は地球を同様に作り替えたいらしい。
 宇宙開発が停滞していた地球では、なんとかして人類滅亡を防ぐための方策を考えていた。まずは、爆弾が落下する前に宇宙空間で破壊する、そしてガニメデの基地を破壊する。
 古いスペースシャトルをはじめ、地球の資源をつかっての先の見通せない闘いがはじまった。

「さらばーああああちきゅうよおおおおーたびだーーーーつふねはああああーーー」ってなもんである。アメリカの生んだ21世紀のミリタリーSFは、どことなく「宇宙戦艦ヤマト」を彷彿させる設定の物語。
 そして正統派のミリタリーSFである。
 18歳の少年ジェイソン・ワンダー君が、最初の爆弾で都市ごと母親を殺され、歩兵として軍に入ってから新兵訓練、任官、いろんなことがあって兵士として成長し、ガニメデの地上戦に突入して…。というわけで、王道のミリタリーSFである。
 そして、急な宇宙からの攻撃に、最初はなすすべもない人類。手持ちの古いスペースシャトルや、あろうことかアポロ計画の設計図、放置されたジャンボジェット機、ベトナム戦争の頃の陸軍資材まで持ち出して、兵士を育て、戦略を練り…。
 つりがきは“21世紀の「宇宙の戦士」”。まあ、たいていのミリタリーSFが“●●の「宇宙の世紀」”と書くのだが。
 ちょっと調べてみると「911」とその後のアフガン、イラク侵攻なども踏まえたアメリカの視点で書かれた作品らしい。

 ミリタリーSFはSFのサブジャンルとしてこのように兵士が何らかの軍に入り、成長していきながら事態を解決し、同時に昇進していくというのが典型であり、お約束だ。滅多に読まないのだが、たまたま手に取ってしまった。特にひねりもないのでするすると読める作品でもある。人はたくさん死ぬが…。
 調べると5巻シリーズになっている。ほほほう。機会があったら読もう。

 さて、1970年代、日本では「宇宙戦艦ヤマト」が大ブームになった。宇宙SFアニメとしても先駆けとなる作品であるが、ロボットものではないところが特徴である。1970年代というのは、1945年に第二次世界大戦で枢軸国の大日本帝国が敗戦し、アメリカの占領をへて再独立してから20年後ぐらいにあたる。大人たちにとって戦争はまだ記憶に新しい頃で、大日本帝国が総力をかけて建造し、出航しながらもあっさり撃沈した戦艦大和は悲劇のひとつとして心に刻まれていた。「宇宙戦艦ヤマト」は、戦後の高度成長期を迎え「日本はすごい技術力をもっていたし、いまもその技術力は失われていない」という再生を誇る象徴のようなアニメだったのだ。
「孤児たちの軍隊」の気配が「宇宙戦艦ヤマト」っぽいと感じたのは、古いガジェットを新しい技術とミックスさせながら得体の知れない巨大な敵に立ち向かうという設定と、その背景にある「誇りの復活」のあたりにある。アメリカは「911」ではじめて本土攻撃を経験した。それまでは日本軍によるハワイ州のパールハーバー(真珠湾)奇襲攻撃がもっとも直接的な他国からの攻撃だったのだ。「911」の衝撃はいかほどだったろう。
 本作はアメリカで人気作になったという。同録の著者インタビューや解説では、本作の背景について詳しく書かれているので気になる方はどうぞ。

エラスムスの迷宮

BITTER ANGELS

C・L・アンダースン
2009

 読み終わって解説に目を通すと本書の作者は「大いなる復活のとき」のサラ・ゼッテルの別名義であることを知る。「大いなる復活のとき」はゼッテルのSF第1作で1996年に発表されている。遠未来、人類、非人類を交えての宇宙史的物語であった。
 内容についてはずいぶん前に読んでいるのでほとんど覚えておらず、2006年の感想を読んで、そのときの感想が本書の感想と近いことに気がつく。「とっつきにくい」「みんな変化してしまっていて、感情移入がしにくい」「それでも、おもしろいと言えるのは、その設定の緻密さによるところが大きい」と書いていた。
 本書「エラスムスの迷宮」はたぶん「大いなる復活のとき」よりははるかに読みやすいと思う。章立てごとに登場人物の名前が書かれていて、基本的にその人物の視点で物語が進み、同じ出来事を複数の登場人物が語ることで分かりやすさが増す。

 かなりの未来、人類の世界である。地球を中心とした世界はパクス・ソラリスとそれ以外の辺境星系で成り立っている。本書の舞台はエラスムス星系。ガス惑星系でそのいくつかの月とスペースコロニーで成り立っている。支配者はエラスムスを姓に持つファースト・ブラッドの一族。星系でもっとも不足する「水」が権力の源であり、負債奴隷化による格差社会ができあがっている。軍と警察を併せたような保安隊と、徹底した情報管理と監視、法規制を担う事務局(事務官)という官僚機構による恐るべき「警察国家」である。ジロー・アメランド大尉はかつて崩壊した故郷の月世界オブリビオンからの難民として育ち、保安隊に入った青年である。難民仲間のエミリアは月世界ホスピタル(病院)で医師として働き、同じ難民仲間のカパは裏社会に入って水の密輸などを手がけていた。この3人はそれぞれエラスムス星系で起きようとしている大いなる陰謀に巻き込まれていく。

 一方、ソラリス世界である地球ではテレーズ・ドラジェスク元野戦指揮官が原隊復帰を求められていた。30年前円満に退役し、いまでは地球で夫と子どもたちと穏やかな日々を暮らしていたテレーズの元に、かつての部下であり命の恩人でもあるビアンカがエラスムス星系で殺され、死の前に後継者としてテレーズを指名したというのだ。地球統一世界政府治安維持省特殊部隊部門はパクス・ソラリスの理念に縛られている。いかなる理由があっても人を殺してはいけない。殺人も、戦争も起こしてはならない。もし、パクス・ソラリスの人間が人を殺したら、その被害者に自ら謝罪し、その罪を購わなければならない。なぜなら、ひとりの殺人が、その憎しみがやがて戦争を生むのだから。
 ソラリス世界における「守護隊」の役割は戦争抑止である。テレーズは、ビアンカの願い、ビアンカの死の真相、さらに、ビアンカが調査していたエラスムス星系がソラリス世界に戦争をしかけようとしているという危機、それらの前に、夫との誓いを破り、原隊に復帰するのだった。
 エラスムス星系を部隊に、ソラリス世界の価値観と、エラスムス星系の現実の狭間で、ジローとテレーズの連携なき結びつきが真実を明らかにしていく。

 パクス・ソラリスとエラスムス星系、いずれもある意味での管理社会である。しかし、方や裕福で生を謳歌し、方や持てる者の権力闘争と持たざる者の飢えと欲望で成り立つ社会。ふたつの人類社会はそのまま現在の新南北問題を象徴しているようである。残念ながら現実の「守護隊」は戦争抑止よりも戦争拡大に熱心であるのだが。

 さて、C・L・アンダースンことサラ・ゼッテルの作風はそれほど変わっていないと思う。緻密な設計をするあまり、読み手には記憶力を求められるのだ。いや、読者たる私の記憶力が年々落ちているのもあるのだが、「これ、誰だっけ?」「ここ、どこだっけ?」が多くなる。理由を考えたのだが、風景描写や個人の心理描写が細かくて、それはそれでいいことなのだが、大きな流れをちょっと見失ってしまうのだ。なんか独特なんだよね。本作はフィリップ・K・ディック賞を受賞しているのだが、描くディストピア世界がディック的なのか、小説の「惑わし感」が結果的にディック的なのか、考え込んでしまった。
 タイトルやリード文、あらすじを読むとなんだかミリタリーSFっぽいけれど、なんといっても「人を殺してはいけない」けど、登場する世界の中ではもっとも高度な科学技術、武力を持つ守備隊の「野戦指揮官」が主人公なのだ。ミリタリーSFではない。それだけは間違いない。

落下世界

FALLER

ウィル・マッキントッシュ
2016

十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」とかのクラーク大先生は喝破した。そして、私達は確実に魔法世界に近づきつつある。そのような時期にSFは科学的背景を構築するのがいよいよたいへんになってきている。
 本書「落下世界」をタイトルだけ読んで「落ち続ける世界」と理解し、落ち続けるってどういうことだろうかと頭をひねったのだが、実際に読んでみると原題である「FALLER」を自分の名前とした男がひたすら落ち続ける世界であった。読み終わっていて、本書の内容とはまったく関係ないのだが、延々と落ち続ける生活ってどうなるだろう。なんだかとり・みきさんが漫画に書いてそう。落ちながらごはん、落ちながら睡眠、落ちながら入浴、落ちながら恋愛、落ちながら喧嘩、落ちながら子育て…。
 もちろん、本書「落下世界」はそういう話ではない。たしかに主人公はよく落ち続けているが。
 本書はふたつのパートが交互の章立てとなりながらそれぞれに話が進む構成で、Aパートは落下世界。Bパートは私達がよく知る世界の未来。
 AパートのSF的なガジェットを抽象化すると、パニックSFにありがちな、気がついたら自分を含め周りの全員がある種の記憶喪失になっている世界という設定がひとつ。次に、その世界は宙に浮く「島」になっていて、飛ぶことができれば他の島に移れる可能性がある。だから、パラシュートを持って落ちれば、少なくとも下の世界に行けるかも。問いとしては当然ながら「自分は誰?」「写真に自分と映っている女の人は誰?どこ?」である。そしてもうひとつ、中盤以降に出てくるのだが「同じ顔・声・年の頃・背格好」の人。一卵性双生児のような人たちの存在が、記憶喪失に加えて謎を深めていく。
 Bパートはふたりの天才科学者夫婦の話。ひとりは主に理論・応用物理学のなんでも天才科学者、もうひとりは主に化学・バイオテクノロジー・薬学の天才科学者。友人であり、研究パートナーであり、互いの配偶者が姉妹であるため義兄弟でもある。限られた資源をめぐり世界の緊張は高まっている。そのなかで急激なBSEのような症状のウイルス兵器が拡散しつつあった。なんとかしてこのウイルスを治療あるいは無効化できないか、ふたりは共同で研究を続けている。
 当然だがAパートとBパートは後半になると次第につながりのベールを明かすのだが、そこはそれ、読んで欲しいところでもある。

 読んでいて、最初はAパートを仮想空間の特殊な設計の世界なのかとも思ったりもした。そのあたりは作者が「謎解き」感を出すのにいろいろ苦労して構築したストーリー展開だったのだろう。

 さて、Bパートで「世界の危機に天才科学者が解決策を模索する」といえば、思い浮かぶのは「創世記機械」(ジェイムズ・P・ホーガン)である。若き天才科学者が核戦争の危機を救うのである。「科学の力で世界を平和に」の典型だ。本作も似たようなテイストだが、そこはねじれきった21世紀、一筋縄ではいかない。
「本当に救ったの?」「それで救えたと言えるの?」「救済や平和ってどういうことだろうみたない疑問が読後に湧いてきてしまう。それでも、安心して欲しい。ハッピーエンドだ。たぶん。

 落ちる夢って見るよね。