虎よ、虎よ!

虎よ、虎よ!
TIGER! TIGER!
アルフレッド・べスター
1956
「…なぜだ? なぜ星や銀河に行くんだ。なんのために?」
「なぜならばあなたは生きているからです。あなたはきっと反問なさるでしょう。なぜ生きるのか? それはおおきになりませぬよう。ただ生きることです」
「すっかりくるっている」
「諸君はブタだ。ブタみたいに阿呆だ。おれがいいたいのはそらだけだ。諸君は自分のなかに貴重なものを持っている。それなのにほんのわずかしか使わないのだ。諸君、聞いているか?…」
「おれは諸君に星をあたえてやるのだ」
 彼は消えた。
 人間の隠された能力「ジョウント」。太陽系時代を迎えた24世紀に発見されたテレポーテーション能力である。人々は、ジョウントの能力差によって職業に差がつく時代が来た。遠くまで確実に行けるものは、それだけ高い生産活動ができるのである。またたくまに太陽系は内惑星の時代から、外惑星も含めた時代を迎え、ふたたび争いの火種が巻き起こった。それが25世紀である。
 ここにひとりの男がいる。170日間宇宙を漂流し、それでも行き、そして助けるべき宇宙船が見捨てていった男。その宇宙船に対する復讐心だけで生きる男。プロファイルには「平凡」「エネルギーは最低」「肉体的には強壮」と言われた貧民出身のガリヴァー・フォイルである。彼は、その復讐心のみで生き、そして宇宙と人類を根底から変えていくことになる。人々は、まだ彼を知らない。
 実は未読であった。未読であることを口に出せないぐらいの古典的名作であり、私の中の「読んでないことが恥ずかしい」リストのトップの方にあった作品である。1978年にハヤカワ文庫SFで登場しており、高校、大学と読む機会は十分にあったのに、手を出しそびれた作品である。このたび、2008年1月晴れてハヤカワ文庫SFで新装版として再版されたことは実に喜ばしい。
 そして、やはり傑作だった。
 アルフレッド・べスターといえば、私は「ピー・アイ・マン」を高校のときに読んだっきりだが、あれもたしか超能力ものであったような記憶がある。
 ジョウントというひとつの変革をベースに、社会の構造を描き、さらには、人類の変容と希望まで描ききるその筆力、いや筆力というより作者の迫力に言葉を失ってしまった。
 冒頭の引用は後半に出てくるが、これがどのシーンで語られるのか、想像もつかない場面なのである。このお説教くさい台詞が、心に染みるのは作品あってのことである。
 しかし、もし、本書「虎よ!虎よ!」を高校生の頃読んでいたとしても、その迫力に感動しただろうか。しなかったような気がする。その迫力を読み取るだけの力が欠けていたのである。年を取ってよかったと思うのは、こういう迫力のある作品を楽しく読むことができるようになったことである。
 でも、読解力がないのは私だけだ。
 若くても読め! 年を取っても、読め!
(2008.03)

がんばれチャーリー

がんばれチャーリー
STAR PRINCE CHARLIE
ポール・アンダースン&ゴードン・R・ディクスン
1975
 本書「がんばれチャーリー」は、ホーカシリーズの早川文庫SF3冊目の作品で、長編作品である。
 舞台は惑星ニュー・レムリア。人類に似た非科学技術レベルの知的生命体がいるため汎生物連盟によって地球人の全権大使がいる惑星。地球人の全権大使の指導の下、慎重に技術導入がはじめられていた。
 主人公は、チャーリー。地球人の少年であり、宇宙船船長の息子としてニュー・レムリアを訪れ、人生経験のためニュー・レムリアをひとり旅することとなった。もちろん、本当のひとり旅ではない。父親から離れた旅である。同行者は、ホーカ人で家庭教師の「バートラム」氏。厳格で理屈っぽく、蘊蓄に事欠かない「役」で安定しているホーカ人であり、父親の信頼も厚い。
 ニュー・レムリアの政情不安を理由に旅をしぶる全権大使を理屈でねじふせ、チャーリーとバートラムは意気揚々と未開の惑星の旅に出た。
 ところが、ニュー・レムリア人との出会いでバートラム氏はチャーリー王子の忠実なる家来、へクター・マクレガーになってしまった。ニュー・レムリアに伝わる伝説の星の王子こそ、我がチャーリーという訳である。
 未開惑星政治不介入の原則などそっちのけでチャーリー王子の旅がはじまってしまった。
 ねえ、僕たちどうなってしまうのだろうねえ。
 ということで、出てくるホーカ人はたったのひとり。ちょっと物足りないような気もするが、ホーカに育てられた地球人チャーリー君の素直な少年的行動を陰で支えつつ、一方でめちゃめちゃにするあたり、ひとりで十分という気もする。
 短編のホーカシリーズとはまた違った魅力満載の作品である。
 でも、まずは「地球人のお荷物」を読んで、ホーカのファンになってから読んだ方がしっくりくるよ。
(2008.03)

くたばれスネイクス

くたばれスネイクス
HOKA!
ポール・アンダースン&ゴードン・R・ディクスン
1983
 本書「くたばれスネイクス」は、1951年に第一作が書かれ、1957年に6編が掲載された「地球人のお荷物」の続編にあたる短編集である。いわゆる「ホーカシリーズ」であり、地球人の「物語」に熱中しては、現実の中に虚構を取り入れてしまう才能をもった歩く力持ちのテディベアである惑星トーカのホーカ人と地球人が巻き起こすどたばたコメディSFである。本書「くたばれスネイクス」に掲載されているのは4編で、うち3編は1955年~57年に書かれている。最後の「ナポレオン事件」のみが1983年に書かれており、これによってホーカシリーズが復活。1950年代の作品もめでたく日の目を見たのであった。
 さて、そこで最後の「ナポレオン事件」を取り上げてみよう。どんなに危機が起ころうとも、ホーカ人同士では殺し合うことがなかった惑星トーカ。なのに今、ホーカに世界大戦の危機が! 陰では異星人による陰謀が繰り広げられていたのだ。しかも、これまでの危機をすべて乗り越えていた地球人の全権大使であるアレックスは、ホーカ人の宇宙社会でのレベルを引き上げるために奮闘中。妻のタニはついにアレックスにSOSを出す。
 さて、ナポレオンをかかえ、ドーバー海峡をはさんで一発触発のホーカ人の戦争危機は回避できるのか? というのが今回のお話。
 地球を離れることができないアレックスがトーカ星に密航するためにとった手段は、不定期貨物船「千年鳥」のオーナー兼船長ブロブとの友情。部ロブは、放射性物質のゆるやかな核分裂作用によってエネルギーを得る生命体で、日本文化に傾倒し、茶の湯をたしなみ、畳にすわって富士山を描いた掛軸の下の、水盤に生けられた百合と石をみて瞑想することをアレックスに勧めるような通人でもあった…。
 どうです。読みたくなるでしょう。
 タイトルの「くたばれスネイクス」は野球のお話。野球の世界にひたってしまったホーカたち。それを聞きつけたサレン人の野球チーム「スネイクス」が銀河系シリーズの対戦相手としてホーカの「テディーズ」に対戦を求めてきた。このサレン人、トーカ星でかつて覇権を争ってきた知的は虫類原住民スリッシーそっくりである。これはただならぬ予感。そのアレックスの予感はもちろん的中。自らの職と命を賭けて戦う羽目に…。
 ということで、気楽に楽しくホーカたちと遊べるのであった。
(2008.03)

地球人のお荷物

地球人のお荷物
EARTHMAN’S BURDEN
ポール・アンダースン&ゴードン・R・ディクスン
1957
 人類は宇宙に進出し、やがて世界連邦共和国としてひとつの地球を達成する。さらに汎生物連盟と連携し、宇宙航行種属の仲間入りをする。未開の異種族を教化し、引き上げることこそ人類の使命であった。惑星トーカには、第一次探検隊がかつて調査を行い、ほ乳類原住民ホーカと、は虫類原住民スリッシーが対立しながら知的生命体として存在していることが確認されていた。今、惑星トーカに星間調査部のアレグザンダー・ジョーンズが不時着した。そこで彼が見たものは、地球人がよく知るテディベアそっくりのホーカたちが、現実と空想の区別がつかないままに「地球のあること」に熱中してしまった姿であった。彼らは西部劇の主人公となり、ドン・ファンになり、宇宙パトロール隊になり、シャーロック・ホームズになり、その役柄に熱中し、なりきる。心から。本気で。間違いなく。アレグザンダー少尉は、やがて惑星トーカのホーカを宇宙種属に引き上げるための駐在全権大使として任命されてしまう。誰も、この「地球人のお荷物」を抱え込む気にはなれないのだ。
 かくして、ホーカ達が「まったく悪気なく」起こす数々の事件と、地球及び汎生物連盟のまか不思議な官僚主義の間で、アレグザンダーの悩みはつきることがないのであった。
 テディベアが、高度な知性を持っており、手先が器用だと思ってくれたまえ。
 しかも、現実と虚構の区別がつかず、すぐに「熱中」するのである。
 映画「スター・ウォーズ」なんて、決して、間違っても、見せてはいけない。
 アル・ゴアの「不都合な真実」もまずいかも知れないが、こちらは、ホーカが熱中するとは思えないから大丈夫だ。
 映画「羊たちの沈黙」なんて、危険だ。危なすぎる。
 映画「シカゴ」は、間違いなく熱中するに違いない。怖い怖い。
 そういうことだから、楽しんで読んで欲しい。
 僕は15歳の冬に買って、これを読んだ記憶がある。高校1年の時だ。もっとこういうのをたくさん読んでいれば、もうすこしくだけた人格になれたかもしれない。そう思っていま、できるだけたくさんこういう作品を読もうと思っている。
 ちなみに2006年に再版されている。いいことである。
 個人的には、新井苑子さんによるかつてのとぼけた感じの表紙が気に入っていたので、機会があれば、表紙だけでも見つけてみて欲しい。
(2008.02.29)

百万年の船

百万年の船
THE BOAT OF A MILLION YEARS
ポール・アンダースン
1989
 紀元前310年、フェニキア人ハンノの登場で物語の幕が開かれる。ハンノは不死人であった。成年後、決して老化が進まず、少々の傷はすぐに治癒し、病気にはほとんどかかることがない。驚異の生命力をもった人間である。ふつうの両親から生まれ、育ったが、ただ彼は不死であった。もちろん、死なないということではない。腕を落とされたら再生はしないし、脳や心臓を貫かれたら、普通の人間のように即死する。老化をしない、免疫や治癒能力が高いだけの人間である。ハンノはもっともっと昔に生まれた。はるかはるか、人類の創世記から存在していた人間である。特別な人間ではない。人間である。
 このような存在は世界では希であるらしい。彼は生き、自らの存在理由を時に問い、結婚し、そして、怪しまれると別の場所に移動して生きた。彼の子孫に不死人は生まれることはなかった。
 中国大陸にも不死人がいた。シリアには、日本には不死人の女がいた。ヨーロッパの北部にも、アメリカ大陸にも、数はわずかだが、不死人はいた。
 時にすれ違い、時に諍い、時に愛し合いながらも、彼らは生き延びるために歴史の陰に隠れ続けていた。人種を偽り、身分を変え、自らにできることを果たしながら。あるものは死に、あるものは生き続けた。
 そして、世界は次第にせまくなり、二十世紀後半には世界はとても隠れにくい世界となりつつあった。彼らは普通人との関わりを再考しなければならなくなる、そんな時代がやってくるに違いなかった。
 キリスト教の台頭、ローマ帝国の崩壊、イスラム教の台頭、アメリカ「新大陸」の発見、ロシアの共産化、第一次世界大戦、大不況、第二次世界大戦…。人は移動し、争い、たくさんの死がある。これまで生きた人々のすべての死が、そこにはあった。その歴史の、死の、生の、喜びの、悲しみの間を生き続ける不死人たちの断片が語られながら、物語は進む。西暦19年、359年、641年、998年、1050年、1072年、1221年、1239年、1570年、1640年、1710年、1855年、1872年、1931年、1938年、1942年、1975年、そして、未来…。
 彼らは、そして人類はどこに行くのか。
 ポール・アンダースンの作風には、「ホーカ」シリーズや「タイムパトロール」シリーズのようにライトでスパイスの効いたものと、初期の「脳波」や「アーヴァタール」のような人類の変容を描いた作品や「タウ・ゼロ」のような本格的ハードSFもある。何でも書ける作家であるが、時間の中でのひとりひとりのドラマに焦点を当てることが多い。
 本書「百万年の船」は、まさしくポール・アンダースンらしい作品である。100万年とはいかないが、章立てで2000~3000年の歴史を少数の人間達が駆け抜けていく。ちなみに、「百万年の船」とは、本書冒頭に引用がされているがおそらく、エジプト王朝の「死者の書」後段に書かれている神が乗る船(神の寿命)を指しているのであろう。このあたりの歴史はくわしくないのでよくわからないが…。
 さて、不老不死を扱ったSFはあまたあるが、代表的なのはハインラインの「メトセラの子ら」や「愛に時間を」あたりであろうか。また、アジモフの銀河帝国シリーズがのちにロボットものと融合し、人間ではないが不死者としてのロボット「ダニール・オリヴォー」などもいる。ペリーローダンも不老不死だなあ。初巻しか読んでいないけれどリバーワールドシリーズ(フィリップ・ホセ・ファーマー)も不老不死だ。最近のSFでは、「ゴールデン・エイジ」(ジョン・C・ライト)などがわかりやすいが、ヴァーチャルな形での不老不死の獲得もある。ただしこちらは、器である人体や自己のありようそのものも変容さえていくので、人間としての不老不死とは少々異なるかも知れない。本書「百万年の船」のすごいところは、理由もなくごく少数がたまたま「不老不死」になって生まれてしまった、という点である。進化ではなく、突然変異としての不老不死なのだ。その点が本作品の特徴なのだろう。だからタイムトラベルをすることなく、同じ人物の視点で歴史を語ることができる。
 ところで、本書「百万年の船」は今回が初読である。だいたい歴史SFは苦手なのである。しかも3部作。ちょっと手を出せずにいたのだ。最後の最後に、未来が登場し、立派なSFになるのだが、やはり食わず嫌いはよくないということか。反省。
(2008.02.25)