映画 リトル・ショップ・オブ・ホラーズ

1960
The Little Shop of Horrors

 1986年、映画「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」が公開される。日本での公開は翌1987年。日本ではバブル経済のまっただ中、カルト映画やB級ホラー映画はサブカルチャーブームの一翼として人気を博していた。映画「ロッキー・ホラー・ショー」でカルトムービーのおもしろさを知った私は、その流れでこの映画をみることになる。
 1986年版の映画は、1982年から上演されたミュージカルの映画化であった。しかし私は知らなかったのだ。このミュージカルにもオリジナルがあったということを。
 それが、この1960年版映画「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」である。白黒フィルムで撮影されたB級ホラー映画。日本では未公開。ロジャー・コーマン監督作品。現在はパブリックドメインになっているそうだ。そこで、21世紀の「サブスクリプション配信サービス」に乗りやすいのだろう。コストかかんないしね。
 wikiなどによると撮影期間2日間だったらしい。もっとも造形のための制作準備には結構時間はかかっていると思うが、これはまったくのオリジナル脚本だったのだろうか。
 それがのちにミュージカル作品になり、映画化され、その映画をもとにミュージカルの内容も変わり、アメリカでも日本でも定番のミュージカル作品になっていくなんて。
 すごいことじゃないか。

 ストーリーは、B級ホラーだけあってどたばたコメディ基調。売れない花屋の店主マシュニク氏のもとで店員としてやとわれている、相当ドジなシーモア君。今日もマシュニク氏に怒られている。シーモア君はマシュニク氏の娘オードリーに憧れていて、なのにマシュニク氏から店に役立たないと首にすると言われてしまう。
 シーモア君、お家では薬物&病院マニアの母と二人暮らし。楽しみは食虫植物の変異種を育てることぐらい。オードリージュニアと名付けたそれを花屋に持参し、これで人集めになるのではと期待する。しかし、元気のないオードリージュニア、これを生き生きとさせたら考えるという店主。考えたけど、水も、肥料もたっぷりやっている。どうすればいいんだろう。ドジなシーモア君はいろいろするうちに手を切ってしまう。血がオードリージュニアにたらり。するととたんに元気になる植物。指を次々に切っては育てていくシーモア君。ある日ついに血が足りなくなった。するとオードリージュニアは「腹が減った!何か食わせろ!」と言葉をしゃべり、シーモア君を脅すのだった…。

 ということで、舞台は花屋、町、花屋の常連客の歯医者の病院、シーモア君のおうち、レストラン、あとは警察ぐらい。造形は次々に成長していく怪奇植物オードリージュニア。登場人物もそれほど多くない。それなのに展開がいいのでおもしろい。ドタバタコメディホラー映画なのだ。
 まるで「8時だよ全員集合」でのドリフターズのシチュエーションコントをみているかのよう。
 しかし、この映画を見て、20年後にミュージカルにしようとした人はすごいと思う。
 そして、そのミュージカルを映画にした人たちも(具体的にはスターウォーズのヨーダ様ことフランク・オズ監督なのだが)。
 機会があったらぜひ見て欲しい。意外とおもしろいよ。

映画 宇宙戦争

1953
The War of the Worlds

 なんといっても「宇宙戦争」である。H・G・ウェルズである。「宇宙戦争」といえば1938年のアメリカでオーソン・ウェルズのラジオドラマが放送され、「火星人襲来」を事実と信じてパニックが発生したという話は1970年代の子供たちはみんな知っていた。少年誌などでくり返されたネタだから。でも、実際にはパニックそのものはなくて「パニックが起きた」という虚報がオーソン・ウェルズを名(声)優として世に知らしめるきっかけになり、そして、たとえば日本ではオーソン・ウェルズの英語教材が新聞広告通販でくり返し宣伝されることになったのだった。
 H・G・ウェルズの原作は1898年に発表されている。19世紀の終わりなのだ。しかし、その後繰り返し映画化やパロディ作品、三本足の機械兵器などをモチーフにした作品など、本作の影響は計り知れない。古典中の古典なのである。

 この原作をベースに1953年カラー映画化されたのが本作「宇宙戦争」である。日本では1970年代から何度となく吹き替え版が放映されている。だっておもしろいもん。
 特撮映画としては群を抜いてよくできている。1953年。日本で本格的な特撮によるSFや怪獣映画となると翌年のモノクロ映画ゴジラが最初であろう。そういう時期的なことを考えると本作の仕上がりはすごいとしか言い様がない。アカデミー賞の特殊効果賞や編集賞、録音賞をとっていたり、SF界では輝けるヒューゴー賞の映像部門賞をとっているのもうなづける話である。

 監督バイロン・ハスキン、製作ジョージ・パル。ジョージ・パルは「地球最後の日」の制作もしており、ほかにも「月世界征服」「宇宙征服」「タイムマシン」などSF映画史に残る映画プロデューサーである。

 さて、本作の舞台は20世紀第二次世界大戦後のアメリカ。テレビ放送も原爆もある冷戦下の現実を反映したアメリカである。カリフォルニアに隕石が落下、その隕石は実は火星人の侵略宇宙船で、中から空飛ぶ戦闘兵器が登場する。時同じくして世界中の都市に戦闘兵器が舞い降り、殺戮をくり返していく。原爆を使っても殺戮兵器1つ壊せない無力感が漂う。果たして人類は生き残るとができるのか。そして、人類を救ったものとは…。
 主人公はたまたまカリフォルニアに釣りに来ていた科学研究所のクレイトン・フォレスター博士と、コリンズ牧師に育てられ研究者として大学に通うシルヴィア・ヴァン・ビューレン嬢。ふたりの出会いからの活躍も見逃せないぞ。
 本作で特筆すべきは、原作の三本足の機械兵器を光の三原色のカメラアイ兼光線発射装置を持つ空飛ぶ円盤型機械兵器に変更したことである。人より少しだけ大きいサイズにすることで静かにしのびよることもできる恐怖感を煽ることに成功している。このあたりが映画を映画としておもしろくしたポイントだろう。
 今見てもおもしろいぞ。

映画 地球最後の日

When Worlds Collide
1951

 ルドルフ・マテ監督作品、制作ジョージ・パル、配給パラマウント。SF映画の古典のひとつである。原作はフィリップ・ワイリー&エドウィン・バーマーが1932年に発表した同名のSF。
 こちらについては、
https://inawara.sakura.ne.jp/halm/2005/05/04/when-worlds-collide/
に詳しく書いている。

 原作が戦前、映画も戦後すぐであるが科学的考証については、1950年当時からしても荒唐無稽なものである。それをおして映画作りを楽しんでいる制作陣の熱のようなものを感じる。

 ストーリーはこんな感じ。
 地球に巨大な放浪惑星ベラスと地球と同じぐらいの惑星ザイラが急速に近づいていることを天文学者が発見する。ベラスが地球への衝突コースであることを研究者たちは検証し、惑星ザイラに移住し人類が生き残れるわずかな可能性にかけて世界中でロケットをつくるよう提言するが、衝突しないという科学者もあり、対応は遅れてしまう。
 しかし、一部の研究者と支援者がロケット製造に乗り出す。地球最後の日までの残された時間は短い。そして、本当にザイラで生き残れるかどうかさえ分からない。わずかな人数のために大勢の人間がプロジェクトに関わる。ロケットに乗れるかどうかは最後の最後にくじで発表される。わずかな希望、かすかな希望。そしてロケットは破滅直前に地球から脱出するのだった。
 極限状態に置かれたとき、人はどのようにふるまうのか。愛を見つけるのか、個の生存本能のままに動くのか、それとも未来の希望のために自己犠牲を厭わないのか…。
 滅亡パニックものの定番である。
 のちの多くの映画や特撮ドラマの原型ともいえよう。
 なかでも「ロケット」は、20世紀前半のSF造形の典型のような形である。金色に光り輝く涙滴型にで先端は鋭く尖り、後端はイルカを思わせる尾翼(着陸翼)。射出レールに乗ってすべるように打ち出される「未来美」である。
 あこがれの未来。来なかった未来でもあるのだが。

 21世紀の今となっては突っ込みどころ満載である。
 ひとつずつ科学的に突っ込みながら見るのも楽しいかも知れない。

映画 地球の静止する日

1952
The Day the Earth Stood Still

 古典SF映画の名作である。リメイクされた作品は見ていないのだが、これはオリジナル。70年以上前の作品である。監督ロバート・ワイズ。
 空飛ぶ円盤飛来! 巨大人型ロボット! 人型の宇宙人のファーストコンタクト!
 全部揃っているが、ストーリーは冷戦時、核戦争の恐怖におびえる世界を描いている。

 話はこうだ。世界中で空飛ぶ円盤の飛行が目撃された。その円盤はアメリカの首都に着陸した。あわてて警戒し、戦車をはじめ軍が円盤を取り囲む。その周りにはたくさんの野次馬となった人々の姿がある。円盤からは、銀色の服を着た人間そっくりの男が降り立った。円盤を降り、近づいてきて英語を話し始める宇宙人クラトゥ。しかし、動揺したひとりの兵士が彼を撃ってしまう。そして、円盤からは巨大なロボットが登場し、武器や兵器を破壊しはじめる。クラトゥはロボットを制止し、地球の病院に運ばれていく。
 病院で驚くべき回復力を見せるクラトゥ。彼は「この国の責任者との面会」を要求する。そして、全世界の国家指導者を一堂に集め、そこで来訪の目的を語るという。その願いが叶えられなければ地球はたいへんな危機に陥るというのだ。
 しかし、冷戦下の不信に満ちた世界で、たとえ国連があっても国家指導者が一堂に集まることはなかった。
 クラトゥは地球人の考え方を知るため、病院から逃げだし、宿に泊まることにした…。

 第二次世界大戦は、アメリカが日本に原爆をふたつ落としたことで終結した。アメリカは核を持つことで世界の覇権をにぎることになった。しかし、東西に分かれた世界で、その覇権は長く続かない。ソビエトもまたその国力の元で核兵器を開発し、ふたつの超大国が互いに核ミサイルを向け合って、どちらが最終兵器を先に使うのかと不信と不安に満ちた時代を迎えていた。
 冷戦とは、最終戦争、核戦争の危機を日々過ごすことだったのだ。
 そんな時代の映画である。

 絶望の中に人は外からの圧力を求める。「オーバーロード」ものである。SFには圧倒的に進んだ地球外文明が人類の指導者として登場するジャンルがある。この映画もまた、そんなオーバーロードの作品である。
「もはや自分達だけではこの危機を乗り越えられないのでは?」という不安がそれ望むのだろうか。
 70年前の作品を見ながら、70年後にふたたび訪れた核戦争の危機を感じつつ、オーバーロードなしに乗り越えるしかないと思うのであった。

映画 最後にして最初の人類

last and first men
2020

 2018年に急逝した音楽家ヨハン・ヨハンソンが監督した映画作品である。
 そして、オラフ・ステーブルドンの小説「最後にして最初の人類」が原作である。いつか読まなければいけないと思っている1930年!に書かれた20億年未来の人類から現代の人類に送るメッセージの物語である。
 オラフ・ステーブルドンといえば、「オッド・ジョン」「シリウス」ぐらいしか読んでいない。ほぼ戦前の作家である。しかし、「最後にして最初の人類」が後のSFや様々な芸術、科学に与えた影響は大きいと聞く。偉大なる小説家なのだ。

 この映画はヨハン・ヨハンソンが急逝したことで完成は遅れたが、遺作として仕上げられた。
 見終わって最初に感じたのは映画監督アンドレイ・タルコフスキーのことである。「サクリファイス」「ノスタルジア」といった静かな時間の中に流れる人の物語、それに「惑星ソラリス」や「ストーカー」といったSF作品に描かれる人の物語。それと同じものを感じる。と同時に、同様にたぶん夢うつつになってしまう映画だ。

 本作品に人間は映像としては登場しない。はでなCGもない。モノトーンでいくつかの建造物とその風景がヨハンソンの音楽に乗って流れていくだけである。そして、ときおり女性の声で20億年の人類の物語が語られていく。

 音楽と、映像と、ティルダ・スウィントンの声。
 たったそれだけなのに、宇宙の広大さ、時間と空間のなかに刹那に存在する生命のはかなさ、せつなさ、かなしみ、希望、喜び、可能性、そういったものが心の奥底に響いてくる。
 我々が存在する宇宙が誕生して137億年、太陽系が誕生して46億年、地球に生命が誕生して35億年、「我々」現生人類が登場して20万年。太陽の寿命はあとおよそ50億年ほど。しかし地球の寿命は太陽のふるまいによって変わる。それでもあと5~10億年程度と見積もられている。
 20億年後、仮に人類の末裔が存在するとしても、すでに地球を離れ、ひょっとすると太陽系を離れているかも知れない。姿も、思考も、なにもかもが変化しているだろう。20億年あればひとつの方向だけではないかもしれない。
 それでも、タイトルにあるように「最後の」人類からのメッセージが届く。
 それはどのようなものなのだろうか。

公式サイト https://synca.jp/johannsson/