地球からの贈り物(再)

A GIFT FROM EARTH

ラリイ・ニーヴン
1968

 2004年に記録がある。再読であるが、20年近く前のことだから忘れている。
地球からの贈り物 2004感想
 ノウンスペースシリーズの長編である。人類の初期の植民星のひとつ、鯨座タウ星系のマウント・ルッキッザット(Mt.Look It That)に入植がはじまり300年後のお話し
 極端な惑星で、生存可能圏は惑星に1カ所、極端に高い山の山頂平原(プラトー)のみ。崖の下は地獄。恒星間ラムスクープロボット探査船がみつけた「生存可能」な惑星の正体。
 第一陣と第二陣の植民船は、その実態も知らずに入植する。
 土地も資源も限られた世界で、人々は死に物狂いで働き、子を育て、人口を増やしていった。そして極端な惑星に極端な階級社会が誕生した。ふたつの植民船は核融合によるエネルギー源、それをつなぐ形で建設された「病院」は長命を保証する臓器移植の要であり、すなわち「臓器」の元となる人体を解体する場所であり、すなわち死刑宣告をする場であり、そこは「統治府」と呼ばれていた。統治府は、植民星乗組員の血筋からなるエリートが警察機構ともども管理していた。乗員は最上階級であり、その子孫は純血階級として病院と同じ最上部の「アルファ」で優雅な生活を送っていた。そして、その下の「ベータ」以降の地では、睡眠状態で運ばれた移民の子孫たちが生きるのもやっとの生活を続けていた。もし、少しでも小さな犯罪をおかせば、彼らは「臓器」となる。いや、「臓器」が不足すれば、彼らは実質的に狩られるのだ。しかし、ほとんどの移民たちは、その暮らしに異議を唱えることもなく、日々の暮らしを続けていた。この状況を変えたいと、秘密結社「地球の子ら」は非公然活動を計画し、統治府に狙われていた。
 そこに地球からラムロボットによる「贈り物」が届けられる
 落下した贈り物を最初に見つけたのは「地球の子ら」のひとりであった。

 主人公のマシュー(マット)・ケラーはごくふつうの目立たない青年。子どもの頃からいじめられることもなく、恋人もできないまま、鉱物を採取するための特殊なミミズを管理する仕事に就いていた。ある日、学校時代の友人からパーティに誘われる。それは「地球の子ら」が集会の隠れ蓑にするために開くパーティーであった。そして、統治府は、このパーティーをかぎつけていた。
 物語は、マシュー・ケラーが特殊能力を自覚なく発揮するところからはじまる。
 彼の能力は「幸運」、実際には相手の目を見ることで、相手の瞳孔を収縮させ、彼を見えなくするとともに一時的に前後の記憶を失わせるというもの。
 よくわからないけど、姿を消せる能力はすごいね。
 この能力が「地球の子ら」を助け、「統治府」を混乱の渦に巻き込み、「贈り物」をめぐっての大きな社会変革につながるのであった。

 そういう物語。冒険譚でもある。

 初期のニーヴンの設定に臓器移植が健康と長命にとって欠かせない技術となった社会というのがある。誰もが臓器移植を望み、健康と長命を望む。そのためには「臓器」が必要で、「臓器」のためには犯罪者を死刑にするのが手っ取り早い。殺人などの重罪だけではとうてい臓器は足りないから、地球では軽微な交通違反でも「死刑」となるようになった。そして、人々はそれを支持した。
 この前提が崩れるのは、人工臓器や臓器再生など移植によらない健康と長命の医療技術である。では、そういう新しい医療技術が開発され、社会に導入されるとなったら、果たして「死刑」や「犯罪」の扱いはどうなるだろうか?
 すなわち社会はどう変わるのか。
 ひとつの科学技術の導入が、社会を一気に変えることがある。
 荒唐無稽な設定の中に、ニーヴンは仮説をくり返す。

 人間は柔軟だけど、でもさあ、「自分が簡単に犯罪者=死刑になるかもしれない」って相当なストレスだと思うんだよ。とてもいやな社会だと思う。

映画 原爆下のアメリカ

1952

Invasion U.S.A

字幕なしの全編。

 アルフレッド・E・グリーン監督、製作アメリカン・ピクチャーズ、配給コロンビア・ピクチャーズ。アメリカ公開1952年12月10日、日本での公開は1953年4月23日。

 微妙な時期のアメリカにおける国威発揚映画である。
 第二次世界大戦後、映画が公開された1952年より少し未来の好景気に沸くニューヨークのとあるバー。牧場主は政府の規制が厳しく税金が高いと文句を言い、トラクター製造会社の社長は米軍が戦車の修理をやれと言うが儲からないので断ったと自慢、上院議員は軍備縮小のモンロー主義者、テレビ記者は戦争の脅威をネタとして使い、若い女性客はファッションにしか興味がない。
 そこに、アラスカに未確認の共産主義勢力による戦闘機爆撃がはじまったとの報道が入る。やがてそれは核攻撃となり、アメリカは敵の攻撃にさらされていく。
 ついにはニューヨークにも原爆が投下される。
 もし、市民や事業者が務めを果たし、戦争の脅威、共産主義の脅威に耳を傾け、税を納め、軍事費を惜しまず、戦車を修理し、備えていたならば…。
 
 というお話し。
 ドラマ部分はともかく、戦闘部分や原爆映像は、主に第二次世界大戦時の記録映像をリミックスして使われている。詳しい人が見れば矛盾だらけだが、その映像に描かれている戦闘とその映像からは直接見ることのできない「死」は本物である。
 どうしてこういう映画がつくられ、日本でも公開されたのか。
 ちょっと歴史を振り返っておこう。

 2023年の今日に至るまでアメリカ合衆国はその建国・独立以降他国に本土を攻撃されたことはない。1940年にハワイ島を攻撃した大日本帝国軍(パールハーバー)がもっとも直接的な軍事攻撃である。アメリカ本土への直接攻撃でもっとも大きかったのは2001年9月11日の同時多発テロ事件であろう。
 また、本土攻撃の可能性にもっとも近かったのは、1962年のキューバ危機であろう。これは、核戦争、第三次世界大戦にもっとも近かった出来事でもあった。
 しかし、くり返すが、アメリカは本土攻撃を受けたことがない
 そして、1945年の第二次世界大戦終結、勝利後、一時的に経済成長は止まったがヨーロッパの復興需要などもあり好景気となる。 

 映画は主に1952年に製作されたものであろう。
 その7年前、第二次世界大戦は1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏したことで終結した。しかしその頃には、第二次世界大戦後の世界の覇権をめぐってアメリカとソ連(ソヴィエト連邦)との間で「冷戦」がはじまっていた。アメリカおよび西側諸国はソ連を中心とした社会主義国家による共産化を恐れた。
 アメリカはすでに核兵器を開発し、1945年8月に日本で実戦使用していた。広島と長崎に対する原爆投下である。その被害の大きさと放射線の影響についてはアメリカにおいても報道が規制され、また、広島と長崎ではアメリカによる調査が長く続いていた。
 一方、ソ連も1949年9月には原爆実験を成功。ここより世界は核開発競争と核戦争への脅威にさらされることになった。アメリカも核開発を急ぎ、ネバダに核実験場を建設、1952年には水爆も完成された。
 冷戦というが、代理戦争ははじめられている。
 ソ連と同じく社会主義国となった中国の後ろ盾を受けて北朝鮮が韓国を攻撃、韓国及び連合国との間で朝鮮戦争が勃発した。1950年6月のことである。
 当時、日本は実質的にアメリカの占領化にあり、朝鮮戦争の後方基地の役割を担っていた。日本は再独立に向けて憲法をはじめ政治体制、社会体制の再構築をはじめていたが、アメリカ側は日本の軍事的無力化と長期的な占領も考慮していたと思われる。しかし、朝鮮戦争をはじめ、冷戦が進行することで、日本を再独立させ西側諸国に組み入れることが優先される。1950年にはGHQにより準軍事組織として警察予備隊が設置された。
 そうしてサンフランシスコ平和条約が1952年4月28日発効。形の上で再独立を果たした。
 アメリカにおいてマッカーシズム(共産党およびシンパの排除)がはじまったのは1948年頃からで、1954年頃までハリウッドでもその嵐は吹き荒れた。
 多くの監督や俳優、関係者が共産主義者として指弾され、追放された。
 その頃の映画である。
 監督のグリーンは1889年生まれ、1952年には63歳ぐらい。1916年には映画監督としてデビューしており本作は映画監督としては晩年の作品となる。20世紀前半を映画監督として生き、名作もB級映画も合わせて60本以上を世に出している。わりとコメディタッチが多いようで、大戦中には戦争物もあるが、これほどまでに直接的な戦争映画はなさそうである。どんな気持ちで、どんなオファーでこの映画を撮ったのだろう。

 ちなみに、最後はジョージ・ワシントンの言葉
 To be prepared for war is one of the most effectual means of preserving peace.
 で締められる。
 平和を守る最も有効な手段は戦争への備えである。

 アメリカらしい考え方だ。

帝国という名の記憶

帝国という名の記憶
A MEMORY CALLED EMPIRE

アーカディ・マーティーン
2019

 遠き未来、辺境の地ルスエル・ステーションは偉大なるテイクスカラアン帝国版図の域外にあり、鉱石採掘惑星のためのコロニー国家として存在していた。同時にルスエル・ステーションは外世界へのジャンプゲートを持つ重要なエリアでもあった。
 いま、ルスエル・ステーションは帝国に取り込まれる可能性と、外世界のコミュニケーション不能な非人類種族の侵略可能性のはざまにあった。そこに帝国の艦隊が突如立ち寄り、「新たな大使」を早急に派遣するよう要求してきたのである。
 詩をはじめ、帝国の高度に洗練された文化にあこがれ、帝国への派遣を願っていた若きマヒート・ドズマーレは、その新任大使に選ばれ、本来ならできたはずの準備もそぞろに、帝国の艦艇で帝国の中心に運ばれることになったのである。

 きらびやかな帝国のシティでは、スリー・シーグラスというやはり若き二級貴族がマヒートの文化案内役として待っていた。スリー・シーグラスなしに、マヒートは必要なドアさえ開けられないのである。「野蛮人」として辺境の大使に着任したマヒートは、すぐに帝国にうずまく様々な陰謀、謀略、奸計に巻き込まれる。
 まずは、前任者であるイスカンダー・アガーヴン大使の死体と対面することになった。果たして事故死なのか、殺人なのか。長きにわたってルスエル・ステーションの大使としてルスエルのために働いていたはずのイスカンダーは、しかし、帝国内で皇帝をはじめ多くの有力者と交流を持ち、帝国内でも大きな力を持っていたらしい。
 いま、帝国では高齢となった皇帝の後継者をめぐって一触即発の危機が起きていた。
 そのため、マヒートには大きな期待と何か分からないが「役割」が求められる。
 帝国をめぐる壮大な宮廷劇が幕を開ける

 本作で登場するSFガジェットはつきつめればひとつ。ルスエル・ステーションが開発したイマゴである。過去の記憶と人格を持ったユニットを脳と結線することでホストと統合を果たし、包括した新たな人格として過去の記憶と経験を持つ存在になるという技術である。イマゴのホストとユニット内の最終人格との統合には相性があり、慎重に組み合わせた上で、心理的適合が行なわれるまでの期間、心理的なサポートが必要とされている。
 主人公のマヒートは、前任者のイスカンダーがほとんど帰国してこなかったために15年前のイスカンダーのイマゴを導入された。統合期間をほとんどとれないままに着任のため帝国の艦船に乗ることとなり、心理的にも不安定な状況に置かれていた。しかも、イスカンダーが死んでいることは着任まで知らなかったのである。

 この「過去の記憶と人格を導入する」というのは、SFの分野でも、クローンやAIによる仮想人格を利用して扱われることがある。しかし古くはファンタジーの分野でたとえば魔法使いが師匠の記憶と人格を取り込んだり、あるいは乗っ取られたりというのもよくある話である。
 それに加えて、AIでコントロールされた都市、装着デバイスでのコミュニケーション、コロニーならではの政治体制など未来要素もしっかり加わっている。

 帝国、侵略をおびえる辺境国の大使、帝国の後継争いと陰謀、帝国外の脅威、きらびやかな帝国文化、貴族、上流階級の生活と下層階級の不満、軍人と商人。こんなキーワードを並べ、そこに「魔法使い」要素を取り入れれば、壮大な宮廷の物語となる。ローマ、トルコ、インド、中国、アステカ…。帝国の興亡はまさしく華々しい物語となる。
 宇宙の帝国の物語といえばアシモフの「ファウンデーション」、ハーバートの「デューン」など古典作品も壮大である。最近なら(本書でも解説で語られているが)アン・レッキーの「ラドチ」も捨てがたい。
 本書もまた、宇宙戦闘ではない帝国・宮廷もののスペース・オペラとして歴史に残りそうな作品である。

 作品の魅力は、若き主人公マヒート・ドズマーレとスリー・シーグラスのふたりの正反対のバディの人間関係につきる。マヒートにとってみればあこがれの帝国文化であり本来なら帝国に大使として着任したことに浮かれたいところだが、大使という職責、イスカンダーの死の背景と取り組んでいたことの調査、イマゴというルスエル・ステーションの最大の秘密の存在が守られているのかという疑問、さらには本来統合されるはずだった15年前のイスカンダーの不調というトラブルも抱えている。頼れるのはスリー・シーグラスのみ。スリー・シーグラスは、聡明であるが文化的背景の違う存在、異質な存在に惹かれる傾向をもつ真面目な諜報員といったところ。それゆえ文化案内人として、大使マヒートと帝国の間を大使側に立って仕えるというの職責は願ってもなく、「野蛮人」マヒートのふるまいに驚きながらも、その異質な人間性と同質性に信頼を深めていく。マヒートもまた、スリー・シーグラスの視点や行動にとまどいつつも公正であろうとするシーグラスの人間性に信頼を深めていく。
 宮廷にうごめく陰謀に翻弄されながらも、異質なふたりだからこそ、困難を克服し、帝国最大の危機に立ち向かう姿が物語のおもしろさだ。
 つまり、皇帝や中心的貴族、軍人といったそもそも権力を持つ者たちが主人公なのでなく、辺境の若き大使とその案内役(お目付役)が主人公なところにこの物語の鍵がある。能力や経験があればより高い地位となりうるが、若さと未経験故に「わからない」ことが多すぎる。その「わからなさ」の強調がテイクスカラアン帝国とルスエル・ステーションというふたつの政体の姿を読者に時間を追いながら紹介していくことになる。そういう世界の真の姿が徐々に明らかになるという物語の組み立ては、おもしろい。個人的には大好きな構成だ。

 現代の小説らしく、ジェンダーや社会的公正についていまの世界が求めている価値観が当たり前に描かれている。その辺も読みどころだ。
 続編の翻訳が楽しみだ。

アイヴォリー


IVORY

マイク・レズニック
1988

 邦題として「ある象牙の物語」と副題がつけられている「象牙」の物語である。その象牙とは1898年にタンザニアのザンジバルで競売にかけられ英国自然史博物館の地下倉庫に収められた「キリマンジャロ・エレファント」のことである。この世界に現存している世界最大のアフリカ象の象牙である。
 銀河歴6303年、民間の調査会社ウィルフォード・ブラクストンの調査員ダンカン・ロハスのもとに「最後のマサイ族」ブコバ・マンダカが高額の報酬で私的調査を依頼する。3千年前を最後に手がかりを失ったキリマンジャロ・エレファントの象牙を探し出して欲しいというのだ。「最後のマサイ族」として義務を果たすためにどうしても必要なのだという。
 ダンカンは、対話型コンピュータの検索能力をフルに活かしながら象牙の行方と、その物語を探していく。それは西暦1885年から今日まで続く地球の、銀河系の、人類の、銀河系種族の歴史であり、孤高の象をめぐる旅となった。

 マイク・レズニックはケニアのキクユ族を中心に据えた連作SF「キリンヤガ」を1998年に発表している。「キリンヤガ」では22世紀の地球からテラフォーミングされた小惑星キリンヤガでの物語であった。それより10年前に書かれた本書「アイヴォリー」はダンカンが調査し、コンピュータが探し出した物語として19世紀から銀河歴6300年(銀河歴は30世紀に制定)の7000年に渡る物語である。
 象牙は巨大な孤高の象の力の象徴であり、あるものにとっては権威、あるものにとっては政争の材料、あるものにとっては芸術の鍵、あるものにとっては盗むべきお宝、あるものにとっては戦争の口実、あるものにとっては苦しみの根源となる。

 さらに本書を読むにあたってはふたつの要素が見逃せない。
 ひとつは「象牙」である。「象牙」は主に東アジアにとっては権威の象徴であり、日本では印鑑の材料として使われている。象牙の取引が原則禁止されているが「持続可能な合法的取引」はいまだ認められている。
 そして、アフリカ象の密猟は止んでいない。
 アフリカ象に限らず、人類は種の保存を言いながらも、大量絶滅を招き続けている。そうして、絶滅が避けられなくなると「保護」を言い出す。
 本書「アイヴォリー」で、人類の故郷である地球に脊椎動物はほぼいない。陸上で見られる大きさの動物といえば昆虫ぐらいである。人類が絶滅を招いたのだ。
 そして、他の惑星でも現住の生物たちは滅ぼされていく。

 もうひとつは「マサイ族」である。今日では「マーサイ族」と表現されるアフリカの民族であり、遊牧民として知られる。
 作者のマイク・レズニックはアフリカの歴史や文化に造詣が深く、それをモチーフにした作品をいくつも出している。本書もそのひとつであるし、そこに差別的要素はない。マサイ族は現在も国境を持たず定住を求めぬ伝統的な生き方をしている人たちも多いと聞く。一方で都市型の生き方を選択した人たちもいるようである。
 伝統的な生き方の中には、現代の人類社会の価値観とは相容れないものもある。そういった相克はいまも、これからも起きるであろう。それは個人と生まれ育った社会との間の問題であり、可能性の問題でもある。
 本書「アイヴォリー」のなかでも、この問題は物語全体の基層となって流れており、それが結末まで続く。
 ひとことで答えを出せる問題ではない。

 本書の物語は壮大であり、他のいくつかの作品と未来史(宇宙史)を共有するものとなっている。第一にエンターテイメント作品であり、そのところどころに考える材料が転がっている、そう思うことにしている。

 2023年、最初に読んだSFであり本であった。「新しい戦前」なんていう言葉が世に放たれた年でもある。新型コロナウイルス感染症パンデミックは勢いを収めていない。大国ロシアは旧ソヴィエト連邦のひとつウクライナへの侵攻を続けており、それが第三次世界大戦の口火とならないことを祈るだけである。
 21世紀、まだ宇宙世紀ではない。

レイヴンの奸計

RAVEN STRATAGEM

ユーン・ハ・リー
2017

ナイン・フォックスの覚醒」の続編である。原題を直訳すると「カラスの戦略」とか「カラスの奸計」といった感じにもなる。
 この世界は「暦法」によって数理、物理法則が決まる。この「暦法」こそが世界秩序の源泉となっている。小さな民族は違う暦法を使っていても大きな世界に影響を与えないが、世界は星間専制国家六連合によって支配されており、その暦法こそが主流である。しかし、六連合の世界に接する異世界では異なる暦法が使われており、それは六連合にとっては「異端」である。異端の暦法が拡がれば世界のあり方は変わる。世界の争いは、自らの暦法を守る闘いでもある。
 グレッグ・イーガンの「シルトの梯子」みたいなものだが、イーガンはハードSFとして描き、リーはスペースオペラとして描いている。作者のユーン・ハ・リーもイーガンと同様数学を大学で専攻した人であるが、イーガンとは異なるファンタジックな世界をうまく描いている。前作「ナイン・フォックスの覚醒」はその世界を説明するのに難解さがどうしてもつきまとい、またスペースオペラというよりはミリタリーSFであったが、本作では「スペースオペラ」といえるようなスケール感を醸し出している。

 ところで、原題がどういう意味かつかみかねていたので、「カラス 数学」で検索してみると「ヘンペルのカラス」なるものが出てきた。「カラスのパラドックス」とも呼ばれる「帰納法の問題」のことであるという。
 「すべて」のカラスは黒い
 という命題の証明にかかわり、命題「AならばBである」の対偶「BでないものはAでない」の真偽と同値であるから、
「すべて」の黒くないものはカラスでない
 を証明すればよい。しかし…、
 ということで、調べてください。

 さて、本作にはカラスは出てこない。しかし、華々しい宇宙ドラマの背景につきまとう帰納法的な疑問。前作の主人公アジュエン・チェリスと、チェリスを錨体としてチェリスに人格を憑依させ、その後チェリスの人格を完全に乗っ取ったシュオス・ジェダオが物語の中心にいる。チェリスの肉体をもったジェダオの精神である。
 ジェダオに指揮権を乗っ取られた宇宙戦闘軍団の司令官キルエヴ、その参謀であったがジェダオの指揮権に従えなかった故に逃げ出したブレザン、それに六連合のリーダーと補佐官たち。物語を展開するのは彼らであり、実は主人公たるジェダオ=チェリスの意図は最後になるまで見えてこない。みなひたすらジェダオの意図を図りかね、その周囲で動くしかないのである。
 ジェダオならば敵である。ジェダオならば大量殺戮する。ジェダオならば…。
 誰も真実を見極めることはできない。

 物語としては、前作よりファンタジー&魔法感が薄れ、人間関係が権力、親族、恋愛など複雑にからみあっていく。また、戦闘もより分かりやすくなっており、前作を読み通してさえいれば読みやすい。
 読後感は、爽快とはいかないが、とても21世紀的だ。
 とくに死生観、ジェンダーの多様性の表現などは、単なるエンターテイメント作品とはいえない深みがある。
 第三部、どうなるのか? 翻訳されるのか? それから読み直してみたい。
 それにしても、SFが高度になってきているのを感じる。
 巻末の大森望さんの解説がとてもよい。読み終えて良かったという気持ちにさせてくれる。すぐれた解説者、万歳!である。