タイム・シップ

THE TIME SHIPS

スティーヴン・バクスター
1995

 H・G・ウェルズが1895年に発表した「タイム・マシン」の続編である。「タイム・マシン」は日本でも古くから翻訳されており、たくさんの訳者がそれぞれの言葉を紡いでこの物語を伝えている。時間旅行SFの古典中の古典であり、元祖といってもよい。すでにパブリックドメインになっているので青空文庫などでも読める。まず、オリジナルを読んでから、本書「タイム・シップ」を読もうかのう。
 19世紀の小説である「タイム・マシン」では主人公は80万年後の世界を訪れ、そこで人類の末裔の姿を知り、一時的に暮らした後、さらなる未来の地球と人類の姿を確認してから元いた19世紀末のイギリスに戻り、そしてふたたび旅立つ。そこまでの物語である。

 その後の時間旅行者(タイムトラベラー)はどうなったのであろうか。

 20世紀、ウェルズが明確に存在させたタイムマシンは時代の進歩、科学の進歩、文学の進歩とともに花開き、様々な小説、映画、コミックなどとして、子供向けから大人向け、玄人向けまで無数の作品を生み出してきた。時間、空間の概念や理論が深まるにつれ、時間旅行におけるパラドクスがテーマとなり、パラドクス回避のための架空理論から、多元宇宙、並行宇宙論まで議論は深まり、登場する作品も様々な展開を見せるようになる。
 また、時間旅行というシステムを廃し、そもそもから歴史を改編する、「もうひとつの歴史」というジャンルも生まれておりこれもまた「タイム・マシン」の甥や姪といったところかも知れない。

「タイム・マシン」刊行から100年後、それら1世紀にわたる蓄積を経て、本書「タイム・シップ」では、時間旅行者がふたたび旅立つそのシーンから物語が再開するのだ。
 作者はスティーヴン・バクスター。イギリスの正統なハードSF作家であり、緻密に話を膨らませるのが大の得意とする、続編執筆にうってつけの人物である。
 おもしろくならない訳がない。

 バクスターは、タイム・パラドクスをもっとも分かりやすく多世界解釈で整理した。つまりある時点での選択は別の世界の分岐点となるというあれである。そしてタイム・マシンは世界の分岐を生み出す装置として解釈した。
 主人公の時間旅行者は、ふたたび未来をめざすが、そこに前回行ったはずの80万年後の未来は存在していない。すでに分岐は行なわれたのだ。その新たな未来で旅の連れとなった未来種族のネボジプフェルとともに、過去、19世紀という現在、遠い過去、遠い未来、はるかな世界に旅をすることになる。ひとたびタイム・マシンを動かすごとに世界はさらなる分岐をするのだからストーリーは複雑さを増していくのだが、希代のストーリーテーラーでもあるバクスターに破綻の心配はない。ぐいぐいと読ませていく。
 しかも、主人公は19世紀の人間である。まだ第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、あたりまえだが核兵器もない時代の人間である。飛行機だってまだだ。医療技術も、生物学から物理学まで、その理解もまだだ。そんな19世紀の価値観、知識が前提の主人公である。ネボジプフェルがそれを補う未来の知識を持っているのだが、人類とは遠く離れてしまった人類の末裔でもあり、相互の精神的理解はなかなか果たされることはない。価値観が違いすぎるのである。
 この19世紀の価値観と、バクスターが生み出した未来人の価値観、それぞれの科学的、あるいは、SF的理解こそが、本書をおもしろくしてくれる。
 なにせ主人公は明かりが必要になればマッチを擦ることぐらいしか思いつかない存在なのである。そこに、多元宇宙論とか量子論とか言われても、だ。
 しかも、ここだけはネタばらしになってしまうが、途中から、別の時間線のドイツと果てしない戦争をしていてタイム・マシンを開発しているイギリス軍の軍人というのが登場してきて話がさらにややこしくなる。
 最後は、バクスターならではの究極の世界改変である。すごいよ。ほんとすごいよ。
 最後まで、主人公の19世紀人時間旅行者は、19世紀人のままであるのだけれど、だからこそその目から見る世界の変化は実におもしろいよ。
 日本で翻訳されているバクスターといえば「ジーリー・シリーズ」だが宇宙の究極の姿が描かれていてわくわくする。本作はそのバクスターが人類を基軸にした変奏曲といってもよいと思う。もっと早く読めばよかったよ。
 もちろん、原作「タイム・マシン」の伏線回収もちゃんと用意されている。
 原作者H・G・ウェルズへの敬意あふれる一作。
 
 そうそう、原題は THE TIME SHIPS で複数形となっている。ここが肝心。