ドラゴンの塔


UPROOTED

ナオミ・ノヴィク
2016

 SF小説とファンタジー小説の違いってなんだろう。雑に言うと、たとえばSFは科学を背景にした空想小説。ファンタジーは魔法や魔物など今日「科学」の範疇に入らない設定を背景にした空想小説。でも、どちらも現代小説にはない世界設定や現代社会への「挿入」があって「空想」「想像」「創造」を広げてくれる点では共通していると思う。
 ややこしいのは現代小説、あるいは普通の小説であっても「科学」や「ふしぎ」を取り入れた作品はたくさんあって、ホラー小説でなくても新種のウイルスや暴走するAI、幽霊や羊男や鬼や人知を超えた動物が出てくることもある。それらがファンタジー小説とかSFと呼ばれないことだってある。境界は常に曖昧で模糊としている。
 どうしていまさらこんなことを考えているかと言えば、本サイトでは海外SFを主に扱ってきたのだが、もちろんそれ以外の小説も読んでいるわけで、そのなかにはファンタジー小説だって入っている。「ゲド戦記」「指輪物語」などといった基本的な作品だって好きである。じゃあ感想を書けばいいじゃないか。あまりジャンルにこだわっていると精神衛生上よくないよ、と、ようやく心がささやいた。
 そのささやきのきっかけとなったのが本書「ドラゴンの塔」である。2016年ネビュラ賞受賞作。ヒューゴー賞最終候補作。なんだ、やっぱり海外SF読者として、そこからじゃないかと自分でも突っ込みたくなるが、2001年に「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」がヒューゴー賞をとったときにはそう思わなかったので、「ドラゴンの塔」は私の背中を押してくれた良作なのである。
 原題は訳者によると、おおよそ「根こそぎにされる」といった意味だそうだ。日本の小説のタイトルとしてはつけにくい。そこで冒頭から舞台となる「ドラゴンの塔」が邦題となった。読み始めればすぐに分かるので重要なことを書いておくが「竜(ドラゴン)」は登場しない。ちょっとびっくりするが、出てこない。ただ「ドラゴン」は主要登場人物である魔法使いなのでタイトルに嘘はない。この魔法使いのドラゴンは「森」から人々を守る辺境の領主である。ドラゴンは、10年ごとに一人、10月生まれの17歳の娘を選び、塔に連れて行く。10年後、その娘は村に帰されるが別人のようになっていてそしてやがて確実に村を出て行ってしまう。それ以外には、無理な取り立てもせず、男たちを戦士として召し上げたりもせず、危機には必ず助けに来てくれる、他の地方の領主たちよりもはるかに望ましい領主であった。
 主人公の「わたし」ことアグニシュカはその10年ごとに選ばれる候補となる数少ない娘のひとり。しかし、親友で幼なじみのカシアこそが選ばれる娘だと、ドヴェルニク村の誰もが思っていたし、ドラゴンの領地のある谷の村々でもそう思われていた。カシアは器量も良く、なんでもこなせる強く賢い娘であり、その両親もまたカシアがその運命に苦しまないよう子どものころから愛情の中にも厳しく育てていたのである。アグニシュカは自分が選ばれるとは思わず、カシアと分かれること、カシアが連れて行かれることに心が引き裂かれるような哀しみをもっていた。
 しかし、もちろん、カシアは選ばれない。主人公たる「わたし」は、ドラゴンに選ばれ、心の準備もないままにドラゴンの塔に魔法の力で連れて行かれ、新たな人生を歩むことになるのであった…。それは、「わたし」が気づきもしなかった「わたし」の能力、性質、よいところ、悪いところを見つめ、成長していく日々のはじまりでもあった。
 新しいヒーロー像が描かれる。
 少女の成長譚であるとともに、師弟の話であり、友情の話であり、家族の話であり、恋愛の話であり、冒険譚であり、王と騎士の物語であり、闘いの物語でもある。人と世界の、人と森の関わりの、土地と人との関わりの話でもある。光と闇の物語である。そんな多くの要素が「わたし」という一人称の語りで紡がれる。一人称で語りきるところが作者の力量の大きさだ。
 21世紀に求められるヒーローは強いだけではない、弱さも持ち合わせ、「自分」を学び、「己を知る」ことを望む存在である。