タイム・マシン


THE TIME MACHINE

H・G・ウェルズ
1895

 近代SFの祖といえば、ジュール・ヴェルヌとH・G・ウェルズ。古典SFとも言われるが、サイエンス・フィクション、空想科学小説を小説ジャンルとして確立、位置づけたのがこのふたりであることは間違いない。
 先般、スティーヴン・バクスターの「タイム・シップ」を読んだ。「タイム・マシン」の続編として書かれた作品だが、この「タイム・シップ」を読む上で前提として「タイム・マシン」を読んだのだが、このウェルズの作品は短編集に収められており、短編集として紹介したいなあという野望を描いたのである。
 ところで、わが家には、「タイム・マシン」が収録されている文庫本が3冊あった。
 創元推理文庫の「ウェルズSF傑作集1」(阿部知二訳、1965年)
 角川文庫の「タイム・マシン」(石川年訳、1966年)
 旺文社文庫の「タイム・マシン」(橋本槇矩訳、1978年)
 である。収録されている作品はそれぞれの短編集で異なるし、訳にもそれぞれ特徴がある。この3冊に収録されている作品は
 創元「堀についたドア」「奇跡をおこせる男」「ダイヤモンド製造家」「イーピヨルニスの島」「水晶の卵」「タイム・マシン」
 角川「タイム・マシン」「盗まれた細菌」「深海潜航」「新神経促進剤」「みにくい原始人」「奇跡を起こせた男」「くぐり戸」
 旺文社「タイム・マシン」「水晶の卵」「深海にて」「新加速剤」「円錐蓋」「奇跡を起した男」「ザ・スター」
 このほかにも手元には創元の「傑作集2」、サンリオSF文庫の「ザ・ベスト・オブ・H・G・ウエルズ」があって、まとめて整理して読めるのか、自分でも自信がない。

 とりあえずこの3冊とウエブ上にあるプロジェクト杉田玄白の「タイム・マシン」(山形浩生、2003年)を読んで感想を書こうと思う。
 なんで同じ作品を4種類も読んだのか、それは翻訳が違うと作品の印象が違うからである。訳としては新しい山形訳が用語の使い方などで問題ないのだが、80万2000年が2800年と単純ミスがあったりするので注意が必要だ。文庫版の方は、差別表現があるので、その書かれた時代背景、訳された時代背景を把握した上で読んで欲しい。
 オリジナルが書かれたのは19世紀末のイギリスであり、ウェルズもまた19世紀末の人間である。また、文庫版翻訳の3訳者が半世紀前に翻訳したものでもある。それ故、いまならば使わない表現、差別的表現や用語が含まれるのだ。近年はインターネットとSNSの普及により情報の集約、拡散も早く、このような過去の社会状況や作品が現代の価値の俎上では当然批判対象になる。それは必要なことであるが、同時に作品がもつ様々な価値の否定につながらないようにしなければ、とも思う。その点で新訳が出されることは大変ありがたいことだ。
 もちろん新訳を出す上で、原著の現在では禁忌となる単語や文章表現をいたずらに改編していいわけではなく、それが作品上必要であれば注釈をつけて残しておくことも必要である。
 映像作品や漫画などでは一部で行なわれているが、過去作品を原著のまま再公開・再刊するに際し、例えば差別的表現が残っていることについてあらかじめ注釈と警告を入れておくという方法は有効だと思う。

 さて、作品の話。130年前に書かれた、タイムトラベルの最初の作品である
 舞台は現代(1895年当時)のイギリス。主人公は筆者が仮に「時間旅行者/時間旅行家・タイムトラヴェラー」と名付けた発明家の男。彼は時間と空間の秘密を解き明かし、タイムマシンを完成させた。そして、自ら未来に向けて旅立った。彼は戻ってきて、驚くべき話を皆の前に披露しはじめた。彼は80万2000年後の未来に辿り着き、そこで人類が知的能力をほぼ失ったふたつの種族に分かれていることを知る。おそらく支配階級の末裔であろう地上に住み、ただ美しく享楽の暮らしをするエロイ族と、おそらく労働者階級の末裔であろう地下に住み、灯りを嫌い、本能的に機械を整備する能力を持つモーロック族である。エロイ族とともに過ごしウィーナと名付けたエロイ族の女性と暮らした日々は長く続かず、モーロック族との争いの末にウィーナを失った彼は混乱のままに80万2000年後の世界を離れ、さらなる未来を突き進んだ。やがて地球から人類のような種族は消え、太陽もまた姿を変えていった。そして彼は時間を戻りはじめ、研究室に戻り、そしてすべてのいきさつを皆の前で話をしていたのである。証拠は奇妙な白い花がふたつ。
 そして彼はふたたび旅立ち、3年間待ち続けたがいまだに戻ってはきていない。

 作品は当時の科学技術の急速な発展を背景にした進取の気風にあふれていると同時に、資本主義の本質を解き明かしたマルクスの「資本論」を背景にした未来図を描いている。
 19世紀の終わり、それはまだ電気の時代でもエンジンの時代でもない。蒸気機関が実用化され主流を占めていた時代。そして電気とガソリンの時代が幕を開けようとしていた時代である。移動手段は蒸気機関車はあるが主流は馬車であり、灯りはランプが主流の時代である。科学と技術と社会と生き方の変化がまさに激しく起こっていた時代に「タイム・マシン」は書かれたのだ。

 ウェルズは、時間旅行という概念をおとぎ話から実現可能性を感じさせる空想科学に昇格させた、ある意味で「発明」したのである。この衝撃的な発明は、その後のSFに花開き、あまたの作品を生み出すことになる。それに伴い、思考も深まり、タイムパラドックスや多元宇宙論、量子論など、現実における科学の進展と相互作用しながらより高度な作品群が生まれ続けている。
 21世紀の現在、この作品を読めば、突っ込みどころは山ほどあるが、そういう時代背景を知り、学び、文学における知の集積と時代という制約を考える上で、この作品は決して捨て去ることのできない古典中の古典であると思う。

 他のウェルズの著作についても、あるいはその背景にあるウェルズの思想や思考についても語ることは山ほどある(だろう)が、今の私としてはここまでとしたい。

 それにしても、タイムマシン100周年記念として1995年に発表されたスティーヴン・バクスターの「タイム・シップ」はやはり名作であろう。こちらも必読としてお勧めしたい。