巨人たちの星

巨人たちの星
GIANTS’STAR
ジェイムズ・P・ホーガン
1981
「星を継ぐもの」「ガニメデの優しい巨人」に続く、三部作最終編である。
「星を継ぐもの」はSFであり、ミステリーなので、続編には前編の種明かしがつまっている。「星を継ぐもの」を読んでいない人は、本評を読まないことをおすすめしておく。
 こちらは、政治サスペンス風になっている。地球では、国連、アメリカ、ソヴィエトの三極に、得体の知れない暗躍組織の影があり、様々な綱引きが行われている。
 巨人たちの星の星系には、移住したガニメアン=テューリアン人のみならず、5万年前のミネルヴァの崩壊に際し助けたジェヴレン人がテューリアン人の導きを受けながら自立と勢力拡大への道をたどっていた。
 テューリアン人は、2500万年前の人工知能ゾラックのはるかな上を行く人工知能ヴィザーによるネットワークと、究極のヴァーチャルリアリティにより、身体を移動させなくても、その入出力装置とネットワーク端末さえあれば完璧な身体感覚とともにどこにでも行き、人と会うしくみをととのえていた。交通、知識、都市管理、生産、個人生活などすべてにわたって、ヴィザーが管理している社会であった。
 5万年前に保護されたジェヴレン人は、やがて自立とヴィザーのような独自の人工知能ジェヴェックスを求め、テューリアン人からそれを得る。
 地球人=ルナリアン=実はミネルヴァのジェヴレン人とは対立していたセリアンの末裔は、テューリアン人によって歴史を見守られていた。しかし、テューリアン人に対し、好戦性をなくしたと信じ込ませたジェヴレン人は、地球人の「監視」を自ら引き受けることを要求し、それを得ていた。地球人に対する誤った情報が、ジェヴレン人/ジェヴェックスを通じ、テューリアン人/ヴィザーに流され続けてきた。
 そんなときである。
 2500万年前からガニメアン人がガニメデに到着し、地球人と友好的に接触、そして、巨人たちの星を目指して出発したのは…。
 地球人=仇敵セリアンと、テューリアン人を抑え込み、自らを銀河の後継者として立ちたいジェヴレン人は、ガニメアン人の船を破壊しようともくろむ。
 地球内部の政治と、これらの勢力の綱引きが本書を貫く。
 さらには、地球の歴史、宗教、非科学的なすべての行為の背景に、恐るべき陰謀があったことを暴き出す。反核運動もまた、科学の進歩を妨げる妨害工作であった…。
 ヴィクター・ハント博士が、またまた大活躍。
 今回は、特定の彼女もできたし、上司のコールドウェルや、国務省、ソヴィエト軍情報部あがりの国連代表部など、たくさんの登場人物も待っている。
 SF的な要素として見るべきところは、ヴァーチャルリアリティと人工知能であろうか。ブラックホール推進やタイムパラドックスなど、そのほかにもいろいろ出てくるが、ヴァーチャルリアリティの表現は、なかなか堂に入ったものである。
 それにしても、この楽天的な作家は、究極の悪として悪意を吹き込まれた人工知能を登場させることで、人間の性善説を引き出している。本書で、いかに人間が好戦的か、それがいかに遺伝子に刷り込まれているかを盛んに喧伝しながらも、やっぱりいい人ばっかりになってしまう。
 そして、本作は、前作にもまして、科学技術万歳思想に満ちている。科学の進歩こそが、人類の様々な問題を解決し、優れた、よりよい、安全で、平和な世界を作ると確信している。そんなわけないって。
 科学=知識も、技術=道具も、使うもの次第である。
 そして、人は、常にとんでもない使い道を思いつくのだ。
 いいこともあれば、信じられないようなことにも使う。
 そして、使いたがるのだ。
 核だって、放射線、放射性物質の管理やその被害、影響の大きさ、封じ込め方、将来の処理などを考えずに、技術を使いたいがために、原子力発電所などを作ってしまう。使ってしまう。爆発させて、「実験」してしまう。
 それを、進歩の過程の失敗と軽く片づけることはできない。
 その下で、人が苦しみ、死ぬのだから。
 と、時々、この楽観主義、科学万能主義に腹を立てつつも、やはり、ホーガンは読んでしまう。たとえ、さらに、とんでもないご都合設定があったとしても、だ。
 それが、ホーガンの作家としての力量なのだろう。
 あいかわらず人間を書くのは下手であり、読んでいて顔が赤くなったりもするが、この人に、科学を語らせたら、拝科学主義者であるだけに、いっぱしのことはある。
 人工知能については、この後、ホーガンが「未来のふたつの顔」で人工知能そのものをテーマにしている。今回は、人工知能の意志や人工知能に頼り切った社会のもろさも描かれている。魅力ある人工知能の知性は、人間よりよく書けているかもしれない。
 しかし、こういう人工知能にすべてをまかせた社会って、もろくないか。
 私も、気を付けよう。
 あらすじ解説みたいな前作の評同様、今回もとりとめなくなってしまったが、ご容赦を。三部作終了である。
 おっと。それで、解決されないままに放り投げられたタイムパラドックスは、どうなってしまったのだろう。
 ところで、三部作終了と書いたが、実は続編が出ている。1991年に出版された「内なる宇宙」。10年後に書かれた続編ですが、私は個人的に三部作+1だと思っている。それについては、「内なる宇宙」の論評で。
(2004.4.13)