自由軌道

自由軌道
FALLING FREE
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1988
 ワームホールを利用したジャンプと呼ばれる移動手段によって人類は版図を広げることに成功した。いくつかのジャンプポイントを発見し、それらをつなげていくことで、連結宙域とよばれる点で結ばれた植民惑星ネットワークができたのだ。
 惑星ロデオは、植民星というよりもエネルギー生産拠点といった方がいい惑星である。その軌道上で、大企業のギャラク・テク社は、地球や地球軌道上、あるいは、植民星上ではできない秘密プロジェクトプロジェクトをおこなっていた。無重力環境下での建設等の作業に人間を使わず、低コストでおこなうためのプロジェクト、ケイ・プロジェクトは、胎児後実験組織培養体を1000体軌道上で「育て」「訓練」していた。彼らは、その形状から「クァディー」と呼ばれていた。ギャラク・テク社の天才的熟練技師であるレオ・グラフは30代後半。技術教育担当として惑星ロデオに招かれ、軌道上の人工居住衛星に入る。そこで、彼は真実を知る。
「クァディー」とは、遺伝子改造により人間の手足の代わりに4本の手を持ち、厳しい宇宙空間の放射線や無重力状況でも生きて、活動し、繁殖もできるように作られた子どもたちのことだったのだ。子を産み、働きはじめていた彼らは、ギャラク・テク社の所有物として、ギャラク・テク社に忠誠を尽くすよう教育されていた。
 会社が、クァディーの人間としての権利や尊厳を認めない方法に疑問を抱きながらも、レオ・グラフはクァディーの年長の技術者たちに彼の技術を教えはじめる。彼もまた、ひとりの組織人として、自身の将来が心配だったからだ。
 しかし、会社の上層部から、プロジェクトの中止と実験体の廃棄の指令が下る。その意味に気がついたレオ・グラフは、クァディーたちとともに、彼らが自由に生きる道を求めはじめた。
 ネイスミス(ヴォルコシガン)・シリーズで絶大な人気を誇るロイス・マクマスター・ビジョルドが同じ連結宙域(ネクサススペース)を舞台に、独立した物語として描いた初期の長編である。本書「自由軌道」では、ネイスミス・シリーズの貴族社会や軍事戦略といった華々しさはない。しかし、技術者が、その知恵と技術、工夫で危機を乗り越えていくというよくできたSFの美しさがある。職人かたぎの主人公は、時に組織への忠誠を思い、時に人間としての尊厳を考え、時に美しいクァディーへの恋心に揺れる普通の人物として描かれるが、その技術と工夫の才覚故に、本書は「すてきでかっこういい」物語となっている。
 本書「自由軌道」を、ジュブナイルと見る人も多いらしいが、そのテーマ性(人間とは、人権とは、命とは)、あるいは、ふつうの「技術者」への尊敬を込めた表現力、緻密な設定などは、子ども向けではない。もちろん、青少年であっても心躍り、わくわくする物語であろう。しかし、むしろ、大人にこそ読んで欲しい作品である。
 日本放送協会の「プロジェクトX」(の初期)やそれに先立つ「電子立国ニッポン」のような番組で、日本の技術者の知恵と工夫がドキュメンタリーとして語られてきたが、それと同じように、どんな小さな仕事でも、きちんとこなし、工夫を続けていると、その知恵と知識、技術はいくらでも応用が効くようになり、そこで問われるのはその知恵や知識、技術を使う人の人間性であることを、本書はフィクションとして教えてくれる。そして、「手仕事」の大切さを教える。
 それに対比するように、人間性に欠けた「知識欲」や「出世欲」(認められたい)によって、クァディーは生み出される。この行為自体は決して許されるものではないと私は思う。しかし、生み出され、自律して行きはじめた者に、その責任はない。また、彼らは彼らとして「生命」であり、「人間」である。故に、彼らは生きることを選ぶ。それは当然のことだと私は思う。
 生命とは自律するものであり、誰かが「生みだした」としても、「支配」することはできない。このことは、現代の様々な生命をめぐる問題についても同様である。
 ネイスミス(ヴォルコシガン)・シリーズでも、「生」の力について多く語られるが、単独の物語として、本書「自由軌道」は読み応えのある作品である。
ネビュラ賞受賞
(2005.10.17)