わたしはロボット

わたしはロボット
I,ROBOT
アイザック・アシモフ
1950
 手元にあるSFの文庫の中でもかなりぼろぼろの1冊となっている。中学の頃に買ったSFの文庫本には、何を思ったのか、いずれも表紙がない。どこかに別にファイルしたような記憶もあるのだが、もはや忘却の彼方、遠い時空の果てにある。奥付には破れたところを修復したセロハンテープが茶色く残っている。その奥付を見れば1976年4月に初版が出され、1979年2月の6版を購入している。やはり中学生のときだ。そう、私の手元にあるのはハヤカワSF文庫版ではなく、創元推理文庫版の方である。ハヤカワ版も出ているが、こちらは読んでいない。
 レンズマンシリーズと並んで、私に大きな影響を与えたのがアシモフのロボットシリーズである。ポプラ社や岩崎書店などが、今思うと不思議な選択での少年少女向けSFシリーズを出していた。その中にアシモフのロボットシリーズもあったようである。
 1940年代に書かれた「わたしはロボット」をあらためて読み返してみると、若き日のアシモフの意気込みが感じられる。
 アシモフの短編のおもしろさは、各短編をつなぐ小咄にある。もちろん、個々の作品はおもしろいのだが、それをつなぐアシモフ本人の「解説」であったり、あるいはつなぐためのストーリーであったり。本書「わたしはロボット」では、USロボット社の偉大なるロボット心理学者スーザン・カルヴィンを取材するライターという立場で「わたしはロボット」に登場するロボット、人、物語をつないでいる。
 アシモフは80年代後半になって「ファウンデーション」シリーズと「鋼鉄都市」にはじまる宇宙時代のロボットのシリーズを統合し、その宇宙史をできるだけひとつにまとめようとした。宇宙史と言えば、ハインラインははじめから系統だっていたようだが、アシモフは「なんとなくかき集めている内に近寄ってきたから統合してしまえ」という感じである。だから宇宙史に沿ったものもあれば、近くても沿わないものもあり、無理矢理合わせたものもある。宇宙史には関心がないのかと思っていたが、短編集を読むと、「流れを作る」ことが好きな作家であったことが見て取れる。
 そして、「流れを作る」ための小咄がおもしろい。ひとつひとつの作品では完結しない何かを「スーザン・カルヴィン」の小咄が大きな流れに仕立て上げてくれる。だから、私は、スーザン・カルヴィンが大好きだ。偏屈なロボット偏愛の人だけど。
 ところで、設定によると、スーザン・カルヴィンは1982年生まれ、2064年に84歳で亡くなっている。ああ、私より若いんだ。2010年現在、まだ28歳。USロボット社に入って3年目の若いロボット心理学者であった。うーん感慨深い。
「私はロボット」の最終話「避けられた抗争」の舞台は、2052年、地球は「動かないロボット」であるマシーンが人類を庇護する施政を行っていた。いわゆる「マザーコンピュータ」である。小説の中の人口は33億人。少ないなあ。
(2010.05.02)