ドルセイの決断

LOST DORSEI

ゴードン・R・ディクスン
1980

 ディクスンの「チャイルド・サイクル」シリーズのひとつで外伝的なものだが、日本では本編よりも先に訳されているらしい。文庫版では中編「ドルセイの決断」、短編「戦士」と、サンドラ・ミーゼルによるディクスンとチャイルド・サイクルシリーズ評および、当時の最新作「最終百科事典」の部分訳が掲載されている。文庫版は1984年に発行。

「戦士」では、軍人惑星ドルセイの名家グレイム家の双子の司令官の弟で血管に氷が流れていると評されるイアン・グレイムがドルセイ人としての名誉を果たすための1日を描いた作品。「ドルセイ魂」所収の「兄弟たち」で見せた振る舞いに似た作品である。
「ドルセイの決断」は、やはり「ドルセイ!」に登場するドルセイ人士官のコルンナ・エル・マンとドルセイの女神たるアマンダ二世が惑星セタに迫る革命を調停するために訪れる話。原題の「ロストドルセイ」とは、ドルセイ人でありながらドルセイすなわち軍神であることをやめた男のことである。セタのナハール領地においてナハール軍の陸軍軍楽隊長を務めるマイケル・ド・サンドヴァルはロストドルセイであった。故に軍楽隊長であり、武器を捨てた男である。革命が迫る中、ナハールの領主が陣取る丘陵の上で、他の軍人たちはこぞって革命に加わるため逃亡し、残されたのはアマンダ二世とコルンナ、現地の司令官を務めていたイアンとケンジーのふたり、それに、異邦世界人の大使であるパドマ、それに領主ら一部の人間。そして、逃亡しなかった軍楽隊の隊員たちである。革命を先導しているのは「ドルセイ!」で主人公ドネルの敵となったセタのウィリアム家。つまり、これは「ドルセイ!」の前日譚とも言える。
 しかし、この物語の本当の主人公はずっと脇で見え隠れする軍楽隊長マイケル。ドルセイに生まれ育ち、ドルセイ人の軍事に優れた肉体と能力を持ちながら武器を楽器に置き換えた男。しかし、軍楽隊員がほとんど残ったように、彼は「軍」を育てる力を持っていた。もっとも、その軍は武器を扱うのが苦手だったわけだが。そして、武器を捨てたマイケルは、ドルセイ人としての誇りと、武器を捨てるにいたった信念との間で揺れ動く。そんな彼が下した決断とは。
 ここで背景を知っておかねばならないのは、ドルセイ人にとって、軍は自らの信念の体現であり、傭兵として契約をし、軍を育て、戦略を練り、闘いに勝利するまでが彼らの生きるすべてなのだが、そこにはドルセイならではの倫理観が存在している。
 それは、つきつめれば、次のふたつである。
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりもドルセイ人としての名誉を守ること。

 その「人的被害」や「死」とは、自分・自軍・守るべき対象、敵・敵軍のすべてに対して冷徹に適用される。言ってしまえば、闘わずして勝つのがもっとも望ましく、一方で、名誉のためなら大量虐殺も厭わない。一歩間違えれば凶戦士であり、その反面、優秀な政治家ともなり得る。
 きわめてアメリカ的な存在とも言える。
 そして、このドルセイらしからぬ振る舞いのドルセイ人の行為こそ、そのことを明確にする。自己犠牲は決して美しいものではない。自己犠牲はそれ以外の他者によって赦しとなり社会の昇華をもたらす。映画「アルマゲドン」がきわめてアメリカ的な映画であり、大ヒットしたように、この作品に描かれる自己犠牲は極めて個人的な信念に基づく振る舞いであっても、自己犠牲故に感動に書き換えられるのである。
 それをどう捉えるのか、それは読者次第ではなかろうか。

(2022.3.27)