エラスムスの迷宮

BITTER ANGELS

C・L・アンダースン
2009

 読み終わって解説に目を通すと本書の作者は「大いなる復活のとき」のサラ・ゼッテルの別名義であることを知る。「大いなる復活のとき」はゼッテルのSF第1作で1996年に発表されている。遠未来、人類、非人類を交えての宇宙史的物語であった。
 内容についてはずいぶん前に読んでいるのでほとんど覚えておらず、2006年の感想を読んで、そのときの感想が本書の感想と近いことに気がつく。「とっつきにくい」「みんな変化してしまっていて、感情移入がしにくい」「それでも、おもしろいと言えるのは、その設定の緻密さによるところが大きい」と書いていた。
 本書「エラスムスの迷宮」はたぶん「大いなる復活のとき」よりははるかに読みやすいと思う。章立てごとに登場人物の名前が書かれていて、基本的にその人物の視点で物語が進み、同じ出来事を複数の登場人物が語ることで分かりやすさが増す。

 かなりの未来、人類の世界である。地球を中心とした世界はパクス・ソラリスとそれ以外の辺境星系で成り立っている。本書の舞台はエラスムス星系。ガス惑星系でそのいくつかの月とスペースコロニーで成り立っている。支配者はエラスムスを姓に持つファースト・ブラッドの一族。星系でもっとも不足する「水」が権力の源であり、負債奴隷化による格差社会ができあがっている。軍と警察を併せたような保安隊と、徹底した情報管理と監視、法規制を担う事務局(事務官)という官僚機構による恐るべき「警察国家」である。ジロー・アメランド大尉はかつて崩壊した故郷の月世界オブリビオンからの難民として育ち、保安隊に入った青年である。難民仲間のエミリアは月世界ホスピタル(病院)で医師として働き、同じ難民仲間のカパは裏社会に入って水の密輸などを手がけていた。この3人はそれぞれエラスムス星系で起きようとしている大いなる陰謀に巻き込まれていく。

 一方、ソラリス世界である地球ではテレーズ・ドラジェスク元野戦指揮官が原隊復帰を求められていた。30年前円満に退役し、いまでは地球で夫と子どもたちと穏やかな日々を暮らしていたテレーズの元に、かつての部下であり命の恩人でもあるビアンカがエラスムス星系で殺され、死の前に後継者としてテレーズを指名したというのだ。地球統一世界政府治安維持省特殊部隊部門はパクス・ソラリスの理念に縛られている。いかなる理由があっても人を殺してはいけない。殺人も、戦争も起こしてはならない。もし、パクス・ソラリスの人間が人を殺したら、その被害者に自ら謝罪し、その罪を購わなければならない。なぜなら、ひとりの殺人が、その憎しみがやがて戦争を生むのだから。
 ソラリス世界における「守護隊」の役割は戦争抑止である。テレーズは、ビアンカの願い、ビアンカの死の真相、さらに、ビアンカが調査していたエラスムス星系がソラリス世界に戦争をしかけようとしているという危機、それらの前に、夫との誓いを破り、原隊に復帰するのだった。
 エラスムス星系を部隊に、ソラリス世界の価値観と、エラスムス星系の現実の狭間で、ジローとテレーズの連携なき結びつきが真実を明らかにしていく。

 パクス・ソラリスとエラスムス星系、いずれもある意味での管理社会である。しかし、方や裕福で生を謳歌し、方や持てる者の権力闘争と持たざる者の飢えと欲望で成り立つ社会。ふたつの人類社会はそのまま現在の新南北問題を象徴しているようである。残念ながら現実の「守護隊」は戦争抑止よりも戦争拡大に熱心であるのだが。

 さて、C・L・アンダースンことサラ・ゼッテルの作風はそれほど変わっていないと思う。緻密な設計をするあまり、読み手には記憶力を求められるのだ。いや、読者たる私の記憶力が年々落ちているのもあるのだが、「これ、誰だっけ?」「ここ、どこだっけ?」が多くなる。理由を考えたのだが、風景描写や個人の心理描写が細かくて、それはそれでいいことなのだが、大きな流れをちょっと見失ってしまうのだ。なんか独特なんだよね。本作はフィリップ・K・ディック賞を受賞しているのだが、描くディストピア世界がディック的なのか、小説の「惑わし感」が結果的にディック的なのか、考え込んでしまった。
 タイトルやリード文、あらすじを読むとなんだかミリタリーSFっぽいけれど、なんといっても「人を殺してはいけない」けど、登場する世界の中ではもっとも高度な科学技術、武力を持つ守備隊の「野戦指揮官」が主人公なのだ。ミリタリーSFではない。それだけは間違いない。