宇宙消失(再)

宇宙消失(再)
QUARANTINE

グレッグ・イーガン
1992

 2004年以来の再読。発表されたのが1992年なのでほぼ30年前の作品である。30年前といえば、1992年の30年前は1962年。
 1962年といえば、高度成長期に入ったばかりの頃で、電話は各家庭にはなく、テレビは普及期前でモノクロだった。通信はもっぱら手紙、緊急時は電報。マスメディアは戦前からあったラジオと新聞が主で、テレビは1964年の東京オリンピック(!)を機に普及することになる。ラジオも真空管からトランジスタラジオに置き換わっていった時期である。計算は、そろばんが主力で、理数工学系だと計算尺を使っていた。せいぜい機械式計算機が使われていた頃で、電卓はまだ登場していない。トランジスタをつかったコンピュータが開発された時期である。音楽はレコードの時代である。録音はオープンリールテープを使うしかなく、いわゆるカセットテープはこの年に開発・規格化されたばかりである。
 1992年になると、携帯電話が普及期に入る。ビジネスの現場では呼び出し用のポケットベルから携帯電話への移行がはじまるが、携帯電話にメール等の機能はなく、電話のみであった。メディアの主力はテレビに移るが新聞・雑誌も隆盛を誇っていた。電卓はひとり何台も持っていたり、パーソナルコンピュータも、windows3.1の登場によってユーザインターフェースが格段によくなり、通信はモデムを使った電話回線を使い、インターネットではない会員制の通信ネットワークが主力であった。しかし、インターネットが今後普及するという確固たる予感は世間を賑わしていた。音楽はCDが主で、カセットが主流で、MDが普及直前の頃である。
 2021年の現在、携帯電話はモバイルデバイス(スマートフォン、スマホ)となり、デジタル化した通信環境とコンピュータ技術、集積回路技術によって、電話・メール・SNS、動画撮影、配信、金融サービス、商業サービスなど仕事、暮らしのあらゆる面でほぼ不可欠なデバイスになってきた。メディアは、ついにテレビ事業者の衰退がはじまり、インターネットを活用した配信事業者が映画・テレビ・新聞・ラジオ・音楽メディアの機能を統合し、モバイルデバイスが受信装置として普及する。モバイルデバイスは同時に、コンテンツ作成、発信装置でもあり、マスメディアの力は相対的に弱くなっていく。映像も、音楽も、さらには、書籍までデジタル化・配信化され、生活様式を大きく変えてきた。

 本書の舞台は2067年。いまから46年後の世界である。この世界では2034年に突然太陽系全体が暗黒の球体に包まれ、太陽と惑星を除く光が空から消えた。それはバブルと呼ばれ、地球人類と太陽系外との接触は不可能になった。もっとも、人類はせいぜい有人で火星探査を行った程度であり、太陽系外の探査もほとんど進んでいなかった。バブルをつくった存在、その目的については不明で、それは、地球上に様々な仮説と、カルト宗教を生むことになる。
 2067年、いまのモバイルデバイスのようなものはモッドと呼ばれ、大脳神経系に神経を改変するプログラムをインストールすることで、さまざまな機能を発揮することができるようになっている。いわゆるゲームのプログラムもあれば、通信、ナビ、仮想コンピュータ、ある特定の思想を信念として持たせたり、警備員や兵士として必要な機能とそのための感情抑制などをもたらすプログラムもあった。主人公のニックは元警官で、警官としてのモッドを頭に入れたままフリーの探偵のような仕事をしていた。
 ある日、先天性の脳機能障害で完全隔離された入院生活を続けているローラが病院から失踪し、その彼女を捜索して欲しいという依頼が入る。誘拐されたのか?
 そこから、ニックの、そして、この世界の事件がはじまるのであった。

 テーマは初期のグレッグ・イーガンのテーマとも言える量子論における観察者問題。量子のふるまいは「観察」があったときのみ、重ね合わせ状態が収縮する。では「観察」とはなにか、という問いである。
 バブルに閉じ込められた地球と人類、警察をやめるきっかけになった妻カレンへの絶望的な喪失感を感じないよう自分を閉じ込めたニック。一方、病院に閉じ込められたはずなのに失踪したローラ。「量子論的観察」について実験体となり、自らを研究室に閉じ込めたチュン・ポークウィ。それぞれの重ね合わせと収縮とは?奇想天外とはこのこと。読んだ後、世界を見渡すとちょっと呆然としてしまう。
 その衝撃は2004年の頃より、今の方が大きいかも知れない。

 ところで、舞台はオーストラリア大陸にあるニュー・ホンコン(新香港)。2029年に建国された。2027年の中華人民共和国編入30周年に香港の基本法が停止され抗議デモは武力鎮圧された。その後不法出国者が急増、近隣諸国は難民キャンプに押し込めたが、2026年にアボリジニ部族が連合して独立したアーネムランド部族連合が北オーストラリアの土地の一部を香港人に譲渡した。建国の条件は、経済活動の利益の一部をアーネムランドに分配すること。これをきっかけに国際投資が集まり、新香港は独立国としてナノテクとITの経済大国となったのである。ということなのだ。
 2021年のいま、実際の香港は、基本法停止には至らないものの、中国の政治介入を受け、民主派リーダーたちへの弾圧が続いている。しかも、出国もままならず、たとえ外国にいても、中国政府が訴追できる法律をつくり、安心して亡命・難民生活を過ごすことさえできなくしている。
 SF作家の未来構想力は、そのストーリーがいかに現実離れしていても、こうして世界の可能性をみせてくれる。

(2021.5)