万物理論(再)

万物理論(再)
DISTRESS

グレッグ・イーガン
1995

 グレッグ・イーガン初期3作品「観察者問題」作品群の3冊目は本書「万物理論」である。いわゆる物理学の究極理論のこと。相対性理論、量子論から求められる4つの力である電磁気力、弱い相互力、強い相互力、重力のうち、重力をのぞく3つをひとつの形で統一しようとするのが大統一理論。それをふまえて重力までを含めた形で表現しようとしているのが万物理論である。万物理論の研究は、物質とエネルギーの理論だけでなく、重力の研究が量子情報というかたちで「情報」の保存、ひいては、「エントロピー論」も包括するものとして検討を迫られている。
 2019年に人類ははじめてブラックホールの実態としての映像を「見る」ことに成功した。もちろん可視光の話ではなく、地球規模の電波望遠鏡ネットワークとコンピュータの解析によって得られた画像である。しかし、この画像は、ブラックホールによって突きつけられている重力と量子情報、エントロピーについての研究を深めさせることになっていくだろう。
 さて、時は2055年、場所はステートレス。南太平洋中央にある公海上の海底死火山に固着してバイオ技術によって成長を続ける生きた人工の島である。多くの国が、遺伝子特許侵害「国家」だとしてその存在を否認しているが、最大の環境難民受入地であり、無政府主義者の地であり、バイオとコンピュータ科学の先進地でもある。大国政府による侵略や破壊は行いにくいなかで、主にバイオ産業が裏にいるとみられるテロ攻撃はときおり起きていた。このステートレスで国際物理学会が開かれ、「究極理論」の候補とみられる3つの理論を3人の科学者が発表し、議論されることになった。
 主人公の科学ジャーナリストのアンドルー・ワースは、究極理論の最有力候補であるヴァイオレット・モサラの特番をつくるための密着取材をはじめた。身体に記録装置を埋め込み、ネットワークとつながったジャーナリストである。
 アンドルーは、それまでバイオ技術の進展によって生まれた死後直後一時的に記憶を呼び覚ます技術、生命のDNAを別の塩基システムに置き換える技術などを扱った特番を編集していたが、次の番組として世界各地で散発的に発生している奇病のディストレスを扱うよう求められ、その取材から逃れるために他のジャーナリストが準備していた究極理論の取材をもぎとったのだった。

 そう、世界はバイオ技術とコンピュータ・インターネット技術によって大きく変わってしまった。生き方も、仕事も、選択も。都市の役割は減っていき、人々は個の多様性を尊重するようになっていたが、一皮むけば貧富の差はあり、格差はあり、そして、カルト宗教も変わらず多くの人々の心を捉えていた。世界は変わっても、人はそうそう変わらないのだ。
 いまここにほんものの究極理論が誕生しようとしている。それは観察者問題の解決でもある。量子の状態の重ね合わせは、観察者の観察によって解消され、量子はその状態に固定される。対生成した量子は相互に重ね合わされており、それは距離を問わない。では、「観察」とはなにか?
 いくつかのカルト宗教は、究極理論が生まれること、すなわち究極理論が理解されることにより、この宇宙が「観察された」ことになり、宇宙が、世界が、変わってしまうことを恐れ、この研究の仕上げを防ごうと科学者たちを脅迫し、ときには殺害すら計画していた。不穏な空気の中で、はたして究極理論は完成するのか、そして、その結果何が起きるのか? さまざまな思惑、陰謀、事件に巻き込まれていくアンドルーがそこに見たものは?
 という作品。
 正直なところ、本書を最初に読んだ2004年と、2021年の現在までに一般の科学誌や解説書はいくつもいくつも出ている。もちろん、究極理論はまだまだ先だし、統一理論もいまひとつのところにあるが、冒頭に紹介したように科学的研究は少しずつ近づいているようだ。
 かつて天動説から地動説が誕生し、それを人々が受け入れ、理解するまでの時間。
 かつて相対性理論が誕生し、光速不変やE=mc2を人々が受け入れ、理解するまでの時間。
 あるいは個人的な感覚で言うと、はじめてパソコンにOS(オペレーションシステム)が導入され、ハードウエアをソフトウエア的に扱えるようになったとき、その概念を理解するまでの時間。
 パラダイムシフトには、個人や社会が「腑に落ちる」までの時間を必要とするのだ。
 そうやって考えてみると、1995年の段階で、これを書いているグレッグ・イーガンはあらためてすごい。

(2021.5)