ディアスポラ(再)

ディアスポラ(再)
DIASPORA

グレッグ・イーガン
1997

 再読。読後に以前読んだ後に書いた文章を見返すと2005年にマニラの国際空港で読了している。翻訳がでたばかりでフィリピン出張に持って行ったらしい。16年前のことである。
 いまはまったく違う性質の仕事をしていて、16年経つと16歳年齢を重ねているわけで、経験といまの生活スタイルによって考え方も大きく違っていることを実感している。とはいえ、連続した人格の中にあるわけで、当時の記憶もあるし、人格が大きく変わった感じもしない。では、その連続した私とは何者か?
 本書「ディアスポラ」を読んで、そのことをじんわりと考えるきっかけになった。

 物語は、2975年に、地球のデータセンターにある仮想空間の「コニシ」ポリスで「ヤチマ」と名をもつ孤児が創出されることではじまる。
 当時、人類の多くは、いくつかの仮想空間であるポリスで、データ的存在となり、その不死なる生を生きていた。一部は、そのような存在になることを忌避し、改変のない人間態であったり、たとえば水中生活など様々に変容した改変人間態として物質的生存を行う者たちもいた。また、データ的存在と物質的存在の中間のようなロボット態をとるものたちもいた。そのなかには宇宙を旅している者たちも。
 そういう遠い時代の物語である。

 2996年、地球から100光年先のとかげ座G-1、中性子星連星が異変を起こし、ガンマ線バーストを発生、地球へ到達し、地球上の生態系は壊滅的な打撃を受けた。
 それぞれのポリスのデータセンターは無事であり、その中で生きる人達への被害はなかったが、宇宙には彼らの科学的知識ではまだ分からない大きな謎と危機があることに衝撃を受け、ヤチマは、それを探索するために別のポリスに移り、果てしない探索への旅にでかけることにした。ディアスポラ、離散の旅である。それは、終わりのない旅になったのだった。
 時間が終えるのは4953年まで。そこから先は、そういう時間軸さえ離れていく。
 そうしてヤチマは、ひとつの「宇宙の果ての姿」をみることになる。後半の怒濤の旅はすごいよ。

 たとえば私がある時点で人格(人格と記憶)をデータ的にコピー(クローン)し、ふたりになったとする。その次の時点から私と私’(私コピー)は別々の道を歩き始める。私と私’はその時点までは同じ人物だが、そこから先は似ているけれど違うだろう。そうして次々と私の別バージョンが生まれていき、それぞれの人生を生きたとしても、それぞれの「ひとりの自分」にとってはただひとつの人生であり、別の「私」は決して自分ではない。それでも「別の自分」が「別の生き方」をすることで満足するのだろうか? 同じ指向性をもって分離したのだから、役割分担ができたり、リスク回避ができるだろうけれど、それもまた、それぞれのひとりひとりの人生であり結果でしかない。
 考えてみれば、多元宇宙論的には、それは常に発生しているともいえる。知覚はできないけれど、その時々で別の選択をしている自分と時間軸が発生し、分岐していく。だから、分岐しようがしまいが、コピーが生まれようが生まれまいが、私は私であり、私という人格にとっては私の人生はひとつなのだ。いくつ生まれても、ひとつ。ひとつずつ。
 そういうことを深く考えられる作品だった。

 ま、悪夢のように難しいハードSFだけどね。分からないことが分かるよ。

(2021.06)