漫画「プリニウス」

PLINIVS

ヤマザキマリ&とり・みき

 10年全12巻にわたり連載されていた「プリニウス」が完結した。
 プリニウスとは、後のキリスト歴(西暦)79年のヴェスヴィオ火山噴火によるポンペイ壊滅で亡くなったことが知られている古代ローマの博物学者、軍人、政治家であり「博物誌」を記したことで知られるガイウス・プリニウス・セクンドゥスのことである。
 世界史などでその名は知っていたし、澁澤龍彦の「私のプリニウス」など80年代後半にちょっとしたブームにもなっていたが、自然科学と伝承や伝奇がまざった博学の人といった程度の知識しかなかった。
 そこに登場したのが、古代ローマを舞台にあるときはコミカルに、あるときは人間の欲や真理にするどく切り込む漫画家ヤマザキマリと、基本はギャグ漫画家でありつつも時に「はずかしい」作品を発表、希代の映像収集家であり、吹き替え研究家であり、伝奇物語も得意とする異能の漫画家とり・みきの共作による漫画「プリニウス」である。
「博物誌」を編纂するために世界の万物事象を収集するプリニウスと同時代の「暴君」ネロを中心に、さまざまな人物が登場する。プリニウスの周辺にはプリニウスが「博物誌」に再録している摩訶不思議な動物、植物、異種族の姿もある。
 本作の「プリニウス」が旅する世界は、「博物誌」の世界であり、ネロを中心とした歴史物語の世界でもある。そのどちらにも虚実がまざりあい、世界の奥深さ、人間の業の深さが描かれる。
 本作はヤマザキマリがとり・みきに声をかけてはじまったそうだが、人物はヤマザキマリ、背景はとり・みきを基本にしつつ、ストーリー、台詞、コマ割りなど時に役割を変わりながらまさしく「合作」として融合した作品となっている。たしかに、細かく見ていけば、ここはとり・みき、ここはヤマザキマリと明らかにタッチが異なったり、得意不得意が出てくる場面はあるが、そもそもとり・みきは若い頃に「○○先生風」漫画を書くなど器用なところがあるのでほんとうのところは分からない。むしろ、「ヤマザキマリ&とり・みき」という複雑な精神を持った作家がいると思って読んだ方が良いかも知れない。

 さて、物語であるが、第1巻の冒頭で79年のクライマックス直前、大噴火が起き地震活動が活発に起きている場面にはじまる。そして一旦暴君ネロの治世に戻り、ポンペイからローマ、アフリカ、中東と旅するプリニウスが描かれる。並行して時の世界の支配者である古代ローマ帝国の若き帝王ネロとローマの姿が対比的に描かれる。ローマから見た世界の周辺でプリニウスと、その筆記者であるエウクレス、護衛のフェリクスの3人の一行はあたかもテレビドラマの水戸黄門一行のような珍道中を続け、半魚人、象、大蛸、古代遺跡、頭部がなく胴に顔のある人種などに出会ったり、出会わなかったりすう。ときにプリニウスはネロに呼びつけられ、空気が悪く自然の少ない大都会ローマに帰っては、持病のぜんそくを悪化させ、ローマの政治、人間関係の業と欲に辟易としてローマを脱出するのである。すべては79年のクライマックスに向かって。物語は、ネロの死をもって一段落し、一度プリニウスの子ども時代、青年期を描いた上で、最後のシーンへと向かう。
 なんということだろう。この物語ははじまったときから最後が決まっていたとも言えるのだ。そう、プリニウスの死に向かってすすむ物語だったのである。
 しかし、その終わり方はいかようにも描ける。
 なんといっても2000年ほど前の歴史なのだから。

 各巻にはふたりの作者の対談が載せられている。ちょっとした種明かしでもあるし、楽屋話でもある。最終巻では、最後のシーンに向かって、ヤマザキマリの中にいるプリニウスととり・みきの中にいるプリニウスの姿がずいぶん違ったことを明らかにしている。そこでも述べられているが、それこそがまさしくプリニウスの多面的な姿の表れでもあったのだろう。フィールドを歩く研究者であり、軍人であり、政治家でもあるのだ。そう聞くと三國志の「曹操」を思い出すが、曹操がまず政治家であり軍人であったのに対し、プリニウスはなにより研究者であり、古代ローマの市民の義務として政治家、軍人であったに過ぎない。ただ万能であっただけである。
 著者らも述べているが、日本で19世紀から20世紀にかけてフィールドを駆け回り、万物を収集せんとした南方熊楠がもっともイメージ的には近いのだろう。ただ、熊楠よりもコミュニケーション能力は高かったようであるが。

 物語に印象的なシーン、台詞はたくさんあるが、最終巻に掲載されているなかでは「17年かけて元通りにしてきたのに」という水道技師の一言のコマが心に残った。
 これはプリニウス一行がこの物語での旅の最初の頃にポンペイの大地震に遭遇するのだが、その地震のあと水道設備を修理するためにローマから派遣された技師の台詞である。
 この一言で、プリニウス一行の旅、すなわちこの物語が17年の長さであったことをあらためて読者に感じさせるとともに、技師として17年かけてようやく完全復興を遂げた新たな水道施設が、最後の大噴火で壊滅を避けられないと悟ったときの絶望の一言でもある。
 本作は啓蒙的な作品ではないが、人間が時の欲のままに自然を破壊し、未知を既知として自然のありさまを蹂躙することについてときおり描いている。同時に、時間の流れが、人間がくみ上げたものをいとも簡単に無に帰すことも描いている。
 そんな人間の相克のようなものを人間サイドに立って語ったのが上記の水道技師の一言である。この台詞に魂が籠もるためには、その間のネロの治世の時代があり、プリニウスの旅の時間が必要だったのである。なんとまあよくできた作品である。

 とり・みきは、いまや幻となったデビュー作以来のファンとして、ほぼすべての単行本を所有し、ときに繰り返し読んでいるが、80年代以降の作品の多様さはもっと注目を集めてもいいと思う。本書にも通じる「石神伝説」は未完であり、どこかの出版社にはあらためて執筆を求めてくれないものだろうか。
 

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