ゼンデギ(再)

ゼンデギ(再)
ZENDEGI
グレッグ・イーガン
2010

 グレッグ・イーガンの長編では異色作。なにが異色かというと、わかりやすい作品になっていることだ。技術的な外挿には、脳の活動状態をスキャンし、魂はもっていないがふるまいは本人と同じようになる「疑似人格」をアバターとして構築できるかどうか? というのがもっとも大きくて、グレッグ・イーガンが主流にしている数学・物理学をベースにしたスーパーハードSFとは異なり、普通小説の中の近未来ジャンルといっても通じるような作品となっていること。じゃあ、グレッグ・イーガンの導入にいいかどうかというと、そうでもない。優れた作品だが、最初に触れるならば、がつんとイーガンらしい他の長編作品からあたるか、アイディアが凝縮された短編・中編から入るのがおすすめ。
 ゼンデキのような「人の心」や「つながり」についての作品は短編・中編のなかでもみられていて、長編では感じられないイーガンの小説家としての深みを感じられる。そんな作品を長編として書き下ろしたのが本書「ゼンデギ」であり、生きること、生きることを実感すること、実体験することの喜びと苦しみ、幸せと悲しみが描かれている。

 舞台は第一部が2012年のシドニーからイラン。第二部は2027年~28年のイラン。
 主人公はオーストラリア人のジャーナリスト・マーティン。パキスタンでの取材記者活動を終え、シドニーに戻って1年、イランでの次の総選挙を前にイランがどのような選択をするのか、緊張が高まるテヘランに向かう。
 本書が書かれたのは2010年で、2009年に実際に起きたイランでの大統領選挙前後の混乱を受けて書かれている。さて、当時大統領だったアフマディネジャド氏は2期8年、次のロウハニ氏も2013年から2期8年。そして先日2021年6月にはライシ氏の当選が決まった。イランの選挙は立候補者を監督者評議会が資格審査をすることになっており、ロウハニ氏の後継候補が立候補できなくなるなど、ロウハニ氏の穏健路線は否定され、事実上の評議会による指名となった。その結果、2021年の大統領選挙は投票率が5割を割り込むなど、現状に対して国民が無関心、もしくは、棄権による沈黙の抗議を示すことになった。
 ゼンデギの世界では、2012年に、イランの民主化、公正な社会を求める人達が立ち上がり、その結果、2027年の時点では比較的公正で民主的なイスラム国家に移行することができた社会が描かれている。もちろん、フィクションであり、自由民主主義体制にいるグレッグ・イーガンの視点でもある。
 それはさておき、2027年、経済復興を遂げたイランで、マーティンはイラン人の女性と結婚し、子どもを育てていた。電子書籍が中心になる社会で、「紙の本」にこだわり、テヘランに書店を開いて暮らしていた。しかし、妻が事故で亡くなり、イラン人の友人らの手を借りながら子育てをすることになる。
 イランでは、バーチャルゲーム空間ゼンデギを運営する会社が世界のVRゲーム市場をリードしており、マーティンはときどき子どものジャヴィードとともに、その世界で冒険をするようになった。しかし、自らの死期を知ったマーティンは、イラン社会の中で、死後も子の成長に関わり続けるため、ゼンデギのなかにジャヴィード専用のヴァーチャル・マーティンを形成できないかと、ゼンデギの技術者と模索をはじめるのだった。
 というのがストーリー。ね、そんなにややこしい話ではないでしょう。
 とりわけ、2021年の今、人工知能の学習手法ディープラーニングの進化や脳科学、生命科学の驚異的な伸張を見ている今では、書かれた2010年や、私が最初の「ゼンデギ」を読んだわずか5年前以上に分かりやすくなっている。
 生命科学の驚異的伸張は、新型コロナウイルス感染症 CORVID-19のワクチン開発がわずか1年足らずで行なわれ、その主流がmRNAワクチンであり、それを世界の多くの人が接種するというその1点でも明かだ。事実は空想より奇なり。

 ところで、不死の物語というのは、物語のはじまりから続く永遠のテーマであり、それは、人間が持つ究極の願望・欲望である。不死にはいろんな形がある。完全な不死(不老)とは、その個人が理想とする状態が続くことである。理想の肉体、理想の精神、消えない記憶、理想の暮らし。しかし、世界は変わっていく。理想の不死者は変わりゆく世界と対峙しなければならない。
 不完全な不死は、バンパイアやゾンビ、妖怪など、死に限りなく近く変容した者として描かれる。それは人間と対峙し、人間に追われる者たちだ。
 人間以外の存在として、神の世界や悪魔の世界がある。天国や黄泉、地獄である。それもまた不死の一形態だが、変わることのない世界、変わることのない待遇であり、静止的世界になってしまう。
 そこで、物語は「異世界」を誕生させた。別の世界であれば、死も不死も自由に描けるであろう。その「異世界」の物語は、コンピュータとインターネット空間の登場により、ヴァーチャルリアリティとして存在を許されるようになり、物語の新たな場所として選ばれた。そして、可能性としてのヴァーチャル空間における不死が語られるようになり、存在の電脳化が物語に登場する。その登場には二通りあって、完全な存在と不完全な存在がある。完全な存在とは、いま現実にいる「私」を、その「意識」「認識」と「環境」ともどもにアップデートし、現実というレイヤーと、仮想空間というレイヤーに違和感を持たない状態である。仮想空間を維持するサーバが止まらない限り、私は「不死」であるし、仮にサーバが突然、バックアップを含めて停止しても、「私」はすぐにはそのことに気がつかない。再開したときに現実空間が時間経過を起こしていたら、そこに「中断」があったことを知るだけだ。一方、不完全な存在もあり得る。たとえば、「記憶の一部」「認識の一部」をデータ化して、仮想的な人格「私」をつくりだし、仮想空間内やあるいは、現実空間とのアクセスポイントにおいて、あたかも「私」のように振る舞う人工知能というものだ。それは「私」のように振る舞うが、「私」としての意識は持たない。
 この仮想空間における完全な存在と不完全な存在の形態は無数に展開でき、これが新しい物語を生んでいる。
「ゼンデギ」もまた、そのひとつの形である。
 そして、オチはイーガンらしく整えられている。
 それはディックの作品でもみることができるキリスト教的救済の姿である。
 さて、どんなオチか、楽しみに!(決して宗教的終わり方ではありません)

(2021.06.30)